生きものの記録
監督 黒澤 明
製作年 1955年
製作国 日本
この映画は日本映画の巨匠黒澤明の監督作品です。映画公開の前年には有名な作品である「七人の侍」が公開されています。そして、黒澤映画ではお馴染みの三船敏郎は当時35歳ながらも60歳の役を熱演しています。
内容は、水爆の恐怖に駆られた鋳物工場の経営者の老人が水爆とその放射能が及ばないと思われるブラジルへ家族ごと移住しようとしますが、家族は反対し、家庭裁判所で争います。その人間模様を一人の家庭裁判所の調停委員の視線を交えながら語られるというものです。
印象に残ったのは、家庭裁判所の様子です。少し狭い部屋に鋳物工場の家族が集まり、各々主張しあう様子が描かれます。そこでそれぞれの表情が本当に豊かに演技されていて、一つの画面に全て収まっているのは大変ユーモアがあると思いました。やはり人物の動きを表現するのがとても上手い監督だなと思いました。
撮り方にしても、歯医者の窓から路面電車の線路を挟んだ向こう側の家の窓に映る人びとの様子や動きをしっかり表現するのは、天才だなと思いました。そして、夕立の日の室内で風が吹いてきて物が揺れる描写もとても上手いと思いました。
やはり夏の暑い時期を舞台にするのは良いですね。暑いと人はイライラして感情が高ぶりやすくなります。汗を流しながら登場人物たちが激昂する様子も、夏の暑い時期なら納得しやすいなと思いました。アメリカ映画の「十二人の怒れる男」も夏が舞台でした。また、この映画公開は終戦から丁度10年目の節目の年です。尚更当時の人達も戦争を思い出さずには居られなくなったんじゃないかと思います。雷が光って怯える様子は、やはり当時の人達には原爆の光と重なる恐怖を感じて共感する人も居たのではないかと思いました。そうであるから、志村喬さん演じる調停委員の人も喜一に共感したのだと思いました。その調停委員の暖かい視線もとても良かったです。
三船敏郎さんが演じる主人公の中島喜一の人間性も深く表されていました。一見ひたすら水爆の恐怖に駆られて右往左往し、家族の意見も聞かずに頑固な老人だと思わせます。しかし、喜一は経営者、職人としても優秀で、仕入れ業者の材料の誤魔化しも見逃さず、成分の配合も言い当てていて、勘も見る目も衰えていません。また、暑い裁判所で待っている家族のために人数分のジュースをストロー付きで買ってくる姿もあります。当時は妻や子供に買って来させる男性が多かったと思われますが、喜一はぶっきらぼうながらも気をつかえる繊細な人だなと思いました。そして、家族に何度も涙を流しながら、何も分からない赤ん坊が水爆で死ぬのはかなわないと言っているのも、とても優しい心の持ち主だと思いました。
しかし、その善意が暴走してしまうのはとても悲しいですね。当時はブラジルへ行っても水爆の放射能から逃げられる保証もありません。しかも家族は住み慣れた日本を離れたくない人がほとんどです。その家族の意見を無視してしまうことは、褒められたものではありません。また、ネタバレは極力避けますが、従業員から「私たちの生命はどうでもいいんですか?」と詰められる場面がありました。確かに今まで善意だと思って行動していましたが、家族のことばかり守ろうとして、従業員のことは考えていなかったと言わざる負えません。善意の中に隠れる無意識に人を選別してしまう、悪く言えば傲慢な考えが喜一にはあったのだと思いました。善意の中にある傲慢さは、本人も気付きにくいですし、悪意にある傲慢さよりもとても悪く見えてしまうのは何だか悲しいことです。
また、恐怖に囚われすぎる悲劇もよく表されていると思いました。喜一は正に恐怖に囚われ、戦争の恐怖、水爆の恐怖から逃れようとしていますが、この負のエネルギーはかつて日本を戦争へと引きずり込んだ負のエネルギーと似ていると思いました。黒澤監督は、核兵器への批判を訴えるのと同時に、恐がりすぎることへの警鐘を鳴らしていると思いました。
やはり三船敏郎さんの演技は素晴らしかったです。頑固で向こう見ずな老人に見えてその中にある深い人間性をとても上手に表現していると思いました。三船さんの演技があるからこそ、この映画の深みが増していると思いました。