23 プリンセス・ストーキング!でござる
山の六合目のあたりから意識が怪しい怪しいと思っていたが、吹雪の中に真っ赤な水玉模様で人間ふたり分の高さはあろうかという毒キノコがでん、と居座っているのを見たときは、とうとうヒナトも自分が幻覚を見ていることを認めざるを得なくなった。
いちばん最初の、冒険の話。
まだ『夜明けの誓い』ができる前の話。
王宮では第一王子と第二王子のどちらを冒険者にするかをそれぞれの派閥が争っていた。そんな頃に、ヒナトはひとりで山を登っていた。
そもそもが無理があったのだ、とヒナトは弱気になりかけている。
だって、この山を登り切った人間なんて、この世に今まで一人もいないのだ。
それも途中にドラゴンがいるとか、打ち棄てられた宝のゴーレムが配備されてるからとか、そんなにワクワクするような理由からじゃない。
人は、高くて寒い場所に住めるようにはできていない。
道は急だし、氷の上でスパイクは滑るし、空気は薄いし、身体もかじかんでろくに動かないし。
もう何度も空に投げ出されそうになった。『勇者』としての力がなかったら、もう今ごろ自分は鳥の口に挟まって空の旅をしてきた魚よろしく、道端で内臓破裂状態で転がっていたに違いないと思う。
それでも、『勇者』なのだ。
その上、第一王女なのだ。
愚かで野蛮で気品のきの字もない、と評されるヒナトだったが、自分が何をしなくちゃいけないのかということだけは、よくわかっていた。それに、王宮の政治事情がどうなっているのか、ということも、誰にも悟らせないままにわかっていた。
いま、宮廷政治は第一王子派と第二王子派で割れている。
兄は多少頭はよろしくないが、言葉に力があり、人の扱いに長けている。
一方で弟は、頭の方は大変よろしいが、優柔不断で決定力に欠けている。
どちらもそれぞれに派閥があり、それぞれの派閥がそれぞれの神輿を王にしようと足を引っ張り合っている。
そんな中に降って湧いたのが、誰を武芸修練に出すかという話だった。
自分がやってやらねばならない、とヒナトは思っている。
(ちっくしょー……。指の感覚がなくなってきやがった……)
宝物庫からかっぱらってきた杖で地面を押す感触が、もうほとんどなくなってきている。自分の身体に力が入っているのかいないのかもよくわからない。三合目で狩った大熊の毛皮も機能しているのだかいないのだかわからないし、というかとんでもなく臭い。
それでも、自分がやってやらないと、と思うから、まだ足を踏み出している。
第一王子か第二王子のどちらかが市井に出た後に起こることを、ヒナトはわかっていた。
きっと、負けた方の派閥は全員力をなくすだろう。
そして厄介なことに……支持者は神輿に似る。どちらかの派閥がいなくなるということは、実務能力に欠ける国になるか、指導力に欠ける国になるか、どちらかを選ばされるということだ。
その点、自分が市井に出る分には、王宮政治に何も影響はない。
ヒナトの母は、身分が低い。第一王女が連なるといっても、派閥を構成するほどの政治力のある家系ではない。
だから、自分が出ていっても、何か王宮に変化が起こるわけではない。
今までどおり、あの、人の足を引っ張ることばかり考えてる無駄に有能なやつらを王宮に押し込めたまま、いやいや一緒に働かせることができる。
国の衰退に栓をすることができる。
あたしがやらねば誰がやる。
「っと――!」
風が吹いて、氷のつぶてがヒナトめがけて飛んできた。
いつもだったら簡単に避けられただろうそれに、今はまるで反応ができなかった。
足を動かそうとしたのが、眩暈に襲われてまるで自由が利かなくて、そのまま直撃して、額が割れて、顎が仰け反って、たたらを踏んで、ここから放り出されれば命はないと無様に全身投げ出して山にしがみつく。
雪の上に血が滲む。
回復の呪文を唱えるために唇を濡らそうと舌で舐めれば、その水分が冷たさに張り付いて、開かなくなる。
やべ、死ぬ。
指で無理矢理こじ開けると、べりり、と音がして、唇の皮が全部剥がれた。
「〈光があれば咲くように〉」
血まみれの口がまた凍り付く前に、小さく呪文を唱える。
しかし、身体を包む光は淡く、雪に輝きのほとんどを吸い込まれてしまって。
(やべ……。無意識に身体強化使ってたのか、もう、魔力が全然残ってねえ……)
立ち上がろうとしたが、力が入らない。
(あー……。回復にまわした分で枯れたのか……。笑える。指一本も動かせねえ。あたしよくこんな状態で歩いてたな)
身体と思考が完全に分離してしまったように、頭で思うことが肉体に影響を及ぼせない。
身体の動かし方を忘れてしまったみたいに、あるいは幽霊になってしまったみたいに、完膚なきまでに、身動きが取れなくなっていた。
それでも、
「ぶ、…………ぐ」
まだ諦められないと、ヒナトは思っていた。
(あたしはまだ……何もできてない。何も成してない! 魔力がないなら血でも肉でも、何でも使う。あたしはまだ……!)
「〈光があれば咲くように〉――!」
必死の思いで唱えた魔法は、ついさっきにも劣り、蛍火のように淡く。
けれど――、
(人……?)
それを見つけた男がひとり、いた。
遠く、雪山に広がる白銀の彼方から、ざっざっと足元を踏みしめて歩き来る影がひとつ。
長身長髪。腰には長刀携えて。
ヒナトを見下ろす男の名を、ザンマ=ジンと言った。
@
「あ、あのヤロ~~~~~」
物陰からヒナトはこそこそストーキングをしている。
真昼間から。
王女が。
どこの馬の骨とも知れないサムライ男の後をつけている。
やめてくださいよ、と言うお付きの者もいないので、やりたい放題だった。
「あたしのこと置いて、あんなへらへら楽しそうにしやがってよ~~~!」
次に会ったらぶっ殺す、とは言ったが、もちろん本心ではなかった。
昔から、ヒナトにはこういうところがある。その場でいちばん強い言葉を使うことで相手を圧倒してやろうという考えが根付いている。元はといえばそれは面倒な宮廷子ども社交界を暴力なしで生き抜くためにやむを得ず身に付けたものだったけれど、まあ出所はどうあれ、やってることはそのへんのチンピラと何も変わりはなかった。
あんなことを言うつもりではなかったのだ。
ヒナトはザンマのことを大切なパーティメンバーのひとりだと思っている。
だから、突然解雇なんて憂き目にあって放浪しているザンマのことを気にしていたし、再会したらそれが手違いだったことをちゃんと告げて、「戻って来いよ」と言って、なんだったら手を繋いだり抱きしめたりして「寂しかっただろ」なんて慰めるくらいのことまでしてやってもいいつもりだったのだ。
だからうっかり、殺すぞ、という気持ちになってしまった。
自分の元を去ったサムライが、へらへら美少女を引き連れて食事して、その上相手を泣かせてる現場を見てしまったから。
どういう了見だ、とヒナトは思う。
百歩譲ってリーダーの自分に何も確認を取らないままパーティを去ったのはいいとしてやろう。実際、パーティの頭脳役を担っていたクラヴィスとイリアの両方から言われたんだとしたら、信じ込んでしまうのも無理はない。
だが、楽しそうに過ごしているのは全く納得がいかない。
自分と別れたというなら、三年くらいはめそめそして過ごすのが当然というものではないか。
そう思い始めると、最初の百歩譲ってやったのも譲ってやる意味が全くないような気がしてきて、とにかく怒りが込み上げてくる。
そういう気持ちで、昨日からずっとヒナトはザンマをストーキングしている。
正直自分でもどうかと思うが、仕方がない。
自分の感情を、全部『発散する』という形で処理してきたツケだ。十数年の積み上げた歴史が、この場でヒナトに方向転換を許さない。
だから、ザンマが眼鏡の美少女と夜中の街に繰り出したり、店を冷やかしたり、あまつさえ同じ家に帰ったりする現場を見て、本気で殺しにかからなかっただけでも、大したものなのだ。
「な、軟派野郎がよ……!」
握った壁の一部が、ばきっと壊れた。
「どういう手の速さだクソ野郎……! 隠し子何人だ……!?」
通りすがった通りすがりが、めらめらとヒナトから滲み出る怒りのパワーに「ひえっ」と声を上げたりしている。
じぃいいいいいっ、と視線が凶器ならとっくに穴が開いているだろうという目つきで、ヒナトはザンマを見ている。
そしてその横の眼鏡の少女を見て、ふと、何かが引っかかった。
「……あれ? あいつ、どっかで見たことあるような――」
「あのー」
「ん?」
なんて考えていると、声をかけられた。
振り向いて見ると、赤髪の青年が立っている。手には布袋を持って、周囲には他に誰もいないから、どう見てもヒナトに話しかけていた。
「さっきから見てるみたいだけど、ザンマに何か用か? あ、オレ、あいつの友達で」
ピキッときた。
あたしだって友達だよ、という気持ちで。
お前らが後から入ってきたんだよ、という気持ちで。
しかしそのピキりを初対面の人間を相手に表に出さないだけの分別は、さすがにヒナトにもあった。
「いや、なんでも」
「そうか?」
赤髪の青年は不審そうな顔をしながらも、それ以上は何も言わずに、ザンマの方へと向かっていく。
ヒナトはそれを陰から見守り、ザンマがその赤髪の青年の姿を見つけるや破顔するのを見て、さらにピキッていた。
赤髪の青年が布袋を掲げる。ザンマが嬉しそうにする。
赤髪の青年が袋を開く。ザンマがそこに手を突っ込む。
『シア 大好きだよ♡』と書かれたTシャツが出てくる。
ザンマが、東国衣装の上からそれを着込む。
それ以上のことを、ヒナトは覚えていない。
ショックで失神したから。




