禿鷲達の草原
「レスター逃げろ。」
乾き切った荒れ野に鋭い悲鳴と叫び声。襲われている小さな家族。普通は小さいネズミなど見向きもしないハゲワシたちが、小さなネズミの家を襲っている。相互牽制による平和を是としている帝国とはいえ、弱い者たちは淘汰されていく。ただ、遠くから見ても、ハゲワシ達の襲い方は普通ではなかった。巣穴の全てに一羽ずつ張り付いている。しかも、穴を懸命に掘り返す。これ以上近づいては危ない。猫の姿のまま枯草の間に臥せっていた俺は、そう感じていた。
小さな子ネズミは、懸命に穴の中へと逃げ込んだはずだった。嘴に捕まった父親ネズミが叫んでいる。
「レスター、逃げろ。」
続いて二匹めの母親ネズミも引き出されている。二匹のネズミは悲鳴をあげたが、そこに他の穴の出口で待っていたハゲワシ達が殺到して我先にくちばしを突っ込む。ネズミ達の声はそれっきりだった。
ヨルダンと呼ばれた草原は、それほど飢餓の地域だった。乾季となって殆どの獣はここを去っていた。先ほどのネズミは逃げる機会を逸していた家族なのだろう。乾ききった大地に他の獲物を見出すことはほとんど不可能だ。ネズミにありつけなかった禿鷲達は、そのイライラのまま視線をこちらへ移した。先ほどまでの騒ぎの様子を見ていた俺たちに対して、まるでちょうどいい獲物という目つきをよこしている。
「グー、少し不利ではないか?。多勢に無勢だ。」
カラス仙はワシ達の恐ろしさを知っているためか、もう浮き足立っていた。
「落ち着けよ。あの岩の影に行こう。」
岩陰に着くと同時にハゲワシの大群が殺到した。黄色く湾曲した嘴、長く伸びた灰褐色の首、敵意の白い目、大きな黒い翼、飛び交うダミ声。カラス仙はすっかり怯えて動こうとしない。
容赦のない仕打ちに、怒りよりも悲しみを感じる。俺が感じているのではない。そばにいるリサが感じている。
「愛を持たず、弱い相手をただ利用しようとする哀れな者たち・・・・グルルル。」
悲しみのこもった詠歌。弱いものを助けるとはいえ、これから行うことは悲しみを伴う。せめてゆっくりと構えよう。こうして俺は直立に姿を変えつつ、右手で剣の切っ先を鋭く構えた。いつでも敵を引き裂けるように……。
そこへハゲワシの一羽が襲い掛かって来た。同時に空間を四つに切り払う十字の閃き。一羽の禿鷲の翼が根元から切り取られ、大きく四つに引き裂かれて羽が散乱する。その時、禿鷲達とは異なる何かを噛み潰したような声が響いた。リーダーの掛け声だろう。
「やめておけ。お前達に敵う相手ではないらしい。」
腰を抜かして身動きができないカラス仙。俺は彼を庇って立ち上がった。リーダーと思しき小さな鷹は俺を睨みつける。
「どこから来た。」
「南の山々からだ。」
「どこへ行く?。」
「どこへでも。探し求めるものが見つかるまでの旅。ここにそれがあるかも知れないし、ないかも知れない。」
「ここに留まるのか?。」
「そうだね。しばらくは…。」
「俺たちが襲うかも知れないぜ。」
「俺たちもバカじゃない。無用心には過ごさない。それに、さっきも見たはずだ。襲えば手痛い反撃があるぜ。」
「お前だけならそうかもな。しかし、お前の後ろのカラスは俺たちの獲物だな。」
「ほう、地上でならまず無理だぜ。やってみるかい。」
「そこまでいうなら、その通りなのだろう。しかし、お前は空を飛べない。そのカラスが飛んでいる時が俺たちの好機だね。」
「ご忠告ありがとう。せいぜい気をつけるぜ。」
彼らは喉を鳴らしながら、空へ散って行った。俺は後ろで震えているカラス仙を振り向いた。
「どうやら空には罠があるね。お前も飛ばないほうがいい。」
荒らされた後のネズミの巣。土の中から懸命に這い出してくる小さな影。草の茂みに隠れても、そのカサカサという高い音はよく聞こえた。それは子供のネズミ一匹。彼は多分「レスター」と呼ばれた子供なのだろう。
山は遠く、地と空との境は青かった。その青い山辺にいる禿鷲達にはこの子ネズミの姿は見えていることだろう。乾き切った空気はそれほど見通しが利く。音も伝わりやすい。山の反対側には荒野が続く。地平線まで見通しても、このネズミの巣しか、動きのあるものはなかった。だからネズミ一家は襲われたのだろう。
いつまで隠れているのだろうか。このままでは易々とハゲワシたちに捕らえられるのは目に見えている。流石に気がかりだった。
静かに近づいてみると、子ネズミは小さな体を震わせながら俺たちを見上げている。カラス仙は子ネズミどころではなく、まだ震えが止まっていない。俺は仕方ないという視線を彼に向けながら、レスターを抱き上げ顔を近づけた。哺乳類の嬰児特有の匂いがする。母性を揺さぶられる匂い。たぶん、そばにいるリサの母性が俺に伝わってきている。普通の猫だったらカサカサという細かい動きん狂喜する。だが、目の前のレスターは白い毛こそ生え揃っているものの、骨だらけのガリガリだった。
「私を食べるんですか?。」
「いや、たべないよ。お前は痩せすぎている。また、俺は脂しか要らない。」
このネズミには脂がない。シャケ、アジ、サバの油、牛の脂、これらはご馳走だった。足りない時には木の実やユーカリや菜の花達を舐め尽くして生き続けてきた。俺の好みはリサのしつけたものだった。
「もし、私を生きて行かせてくださるなら、行手の様々なことをお耳に……。」
「そんなことは不要だから、ここを去れ。」
「はい……。」
小鼠は何度も頭を下げると、カサコソチョコチョコと走り始めた。俺たちから離れ、しばらく進んだところに近づく影。上空にいた禿鷲達が急降下している。それに気づいた俺は子ネズミのほうへ走り出した。同時にリサの母性の思いが強く共鳴し、俺の右手の剣が長くのびる。その伸びに合わせて、俺は剣士の突きのかまえそのままに、子ネズミとハゲワシたちとの間に割り込んだ。
「猫、何をする?。」
「この小鼠を生かして進ませる約束なのでな、約束を果たしたまで。お前達に手出しはさせない。」
下段の構えの俺を一瞥して、禿鷲達は空へ散って行った。替わりに先ほどの小さな鷹が、また降りて来た。
「そいつも、お前の仲間か?。」
俺は何も答えなかった。答えを欲しがっているのは手下達を説得する必要のある鷹の方であって、俺は答える必要がなかった。俺は鷹を無視してレスターを柔らかく包みもってカラス仙のところへ戻った。まだカラス仙は震えている。俺達は、この岩陰で夜を待つことにした。