カラス
満身創痍だった。
俺は転がるように森の横の川の中に身を沈めた。冷たい水が火照る傷を冷やしていく。その上をカラスが一羽、クララウ、クララウとトレモロの声を響かせている。ここに餌食がいるぞと叫んでいる。呼応した黒羽の大群が集まった。俺は、この時、満身創痍の毛の禿げたみすぼらしい猫の姿をしたまま。格好の獲物と、無数の黒い目が確かに狙っている。
カラスは仔猫をよく襲う。俺は秋に生まれた子猫だった。寒さが増して獲物が少なくなる晩秋、子猫はカラスにとっては格好の獲物だった。まだ目の見えない俺は大きな嘴に捕らえられた。あの時に石礫でカラスの嘴を砕いて俺を救ったのは、リサだった。カラスの嘴の硬さ、その臭いと呼吸、突然に砕かれた嘴、大きな打撃音と声。俺はその後にふわっと抱き抱えられていた。寒さを遮る柔らかい手、傷を清める布、包むような声、ほのかに伝わる温もりと匂い。今でも鮮やかに覚えている。それがリサだった。
一羽のカラスが俺の近くに降りてきた。黒羽に白い物が混じった老ガラス。素直に餌食になれ、とでもいうのだろうか。
「おめえは、もうダメなんだろ。抵抗しなけりゃ苦しまないように殺してやるよ。」
俺は目を開け、そのカラスを睨みつけた。他のカラスより幾分か白い。カラス天狗だろうか。
「俺はまだ死なねえよ。目の前の死にぞこないの猫だからって、お前達は襲うことしか考えられねえのかね。遠い昔、飢餓の預言者を食べ物で救った意識の高いカラスの子孫だとは思えねえなあ。随分と落ちぶれたもんだ。」
先祖を持ち出して嘲笑われたカラス天狗は、目に黒く深く怒りの色が篭る。そして得体の知れないものを見る警戒の色を浮かべた。
「猫の妖怪か。それにしては尾っぽが引きちぎれているし、だいぶ落ちぶれた姿じゃねえか。そんな雑巾に言われる筋合いはねえわな。黙って餌食になれや。」
「そうかい?。じゃあやってみな。グルルル。」
そばにリサがいてくれる。そう思った。ほのかに伝わるぬくもりと息吹。それが俺に少しばかりの別の能力を思い出させた。初めて詠歌をそらんじた。口笛を吹くように俺の口からでる短い詠歌。それが小さな剣となって表れた。その小さな剣が起こす高い風切り音と、地響きのような低い通奏低音。カラスもそれを耳にして、改めて身構えている。
空の上から声がかかった。
「カラス仙の親父さん、こんな雑巾猫、すぐにやっちまいましょ。俺に任せてくれるかい。」
そういうが早いか、一羽が上空から襲ってきた。それにつづいて十数羽。カラス仙と呼ばれた老ガラスは声を上げた。
「皆、待て。罠だ。」
短い詠歌が終わると同時に直立した俺の右手に、小さい剣が握られた。いくつかのするどい斬撃音がこだまする。怒号と叫び、飛び散る黒い羽毛、叩きつけられ、重なって行く黒い影。終わってみれば夥しい黒羽の残骸。その真ん中に、俺は息を弾ませ仁王立ちをしていた。
「何をした?。」
カラス仙と呼ばれた老ガラスは、そういったまま圧倒されたように身動きをしなかった。
「小さな剣の小さな力を使ったまでのこと。」
「そうか。言葉の剣か。そんな力があるのか。」
老ガラスは改めて身構えた。幾分か、意気消沈しているように見えたが、まだ戦う気なのだろうか。俺はリサの手前、もうこれ以上戦う気はない。
「カラス、名前は何という?。俺はもうこれ以上戦う気は無い。このノドの地、大陸全体は帝国の支配地だ。帝国のお達しでも言われている『相互牽制の平和』を、俺も尊重している。」
俺はうずくまりながら、老ガラスを観察した。老いた姿と同様に、その黒いはずの目が幾分白く見えた。
「俺の名は『カラス仙』だ。猫又にやられるようじゃ、この名が泣いている。俺たちは粋がりすぎたか。」
「あんたの目は濁っているんだぜ。物がよく見えなくなっているはずさ。」
「物が見えていない……。俺としたことが、知恵をもって眺めていれば分かったものを……。傲慢になっていたか……。やはりもう、俺の未来は見通せなくなっているのか。もう生きる意味などないな……。」
俺は目の前のカラス仙が急に小さく見えた。哀れな老体。声もよく聞こえない。
「威勢よく俺を襲っておいて、哀れな姿を晒すのか。惨めな奴だ。……。お前の原点は何処にあるんだよ。その知恵はどんなときに体得したんだよ?。」
俺は眼の前の老ガラスを試してみた。
「カラス仙。太古から苦労して生きてきたと見える。その過去から今までの自らの歴史を語ってみろよ。」
ここで何を心の糧としているかが分かる。それがカラス仙という知恵者の存在意義のはずだった。しばらく立ち尽くしていたカラス仙は、ポツポツと話し始めた。
………………………
「俺は昔、ホームレスの爺さんをみながら生きていた。
長い付き合いだった。彼は朝になると、余ったハンバーグを投げてくれた。昔、エリアとかいう髭の禿げ爺いにパンを運んで行ったことを思い出したもんだ。…いつのまにか、エリアもホームレスの爺さんも天に引っ張られていっちまった。気がついたら、言葉を得た代わりに悲しみも纏っちまった……。ホームレスの爺さんは、冬の夜に動けなくなっていた。朝が来て、近くに寄ってみたら、ゼーゼー言って……。寒いのに汗をかいて……。動けなかったらしい。そして……ぶっ倒れちまった。心配して小さい金柑を幾つか咥えて持ってきてやったんだが……。
しばらくすると、人間達が集まって来た。役場だか、保健所だか白い制服を着たおじさん達が救急車を連れて来た。
爺さんは、運ばれて行ったっきり、帰ってこなかった。ホームレス仲間のおばさんが、教えてくれた。天に帰って行ったとさ。葬りは何処かの斎場へ運ばれて行ったんだと。
爺さんには、匂いがあった。オーラかな。ある春の風の日、爺さんの匂いに気付いたんだ。風に向かって飛んでいってみたら、ある船に気づいた。爺さんやいろんな人の骨を積んで、川を下って、下って行っちまった。何処までもなあ。俺は追って行く気持ちが萎えちまった。
やっと追いついたところは、はるか海の上。いつもは蹴散らしているカモメ達が飛び回ってうるさかった。そこで舟は骨の粉を撒き散らしたんだ。ザザー、ザザー、とね。ザバザバと爺さんの骨は海の底へ沈んで行った……。
爺さんをそんな寂しいところへ撒いてしまうなんて。そんな時、この俺に閃くような声が聞こえた。『いつかまた会える、彼の骨を集める時が来る、それまで待て』とね。
そう、待ち続けて待ち続けて、いつの間にか何かを学んだ。物事のことわり、言葉、因果律、予測……。でも周りには秘密にしていた。でもカラスの仲間達は阿呆なままだったし、理解できないだろうし……。
今、目の前のおめえに気づいたんだ。知恵のある奴。やっぱり妖怪だったな。」
俺は「それは今だよ」とは言わなかった。帝国のいう「千年帝国」と亜人たちの誕生という「復活」。それはまだ疑問のままだった。それゆえ、俺は彼にただ手招きをし、俺たちは共に歩む者となった。