羅刹
湖の中を覗いていた時だった。突然左足をつまみあげられた。急速に遥か上に引き上げられ、赤黒い顔が近づく。逃げ出す際の姿、つまり猫の姿になって前足をばたつかせると、赤く血走った目が睨む。
「お前はこの辺りでは見ない顔だな?。」
頭部の二本の角。その角と同じ大きさの牙が、口から突き出ている。ドブのような悪臭は鼻息だった。その足の先からの赤い皮膚は、まるで火傷をしたばかりのような黒みを帯び、頭部に近いほど汗で艶やかな光を放っていた。
俺が捕らえられたのは、夏のゴラン高原の湖。勢いよく泳ぐ魚を取ろうとした時だった。
「エカテリノダールの帝国には、俺の知り合いがいるんだぜ。」
「ほほう?。そいつらが助けてくれるってか?。」
先ほどまで、俺は念入りに毛並みを舐めるようにして手入れしたばかりだった。猫又には油。その油を幾分か毛にまぶすとキラキラ光る。やはり俺の足をつまむ大男の手が滑っている。少し滑ったところで俺は空いている右足で思い切り大男の顔を蹴った。
「この猫又め。」
そんな声が浴びせられる。怯まず俺はおよそ三十メートルの高さから下へ、さらにしゃがんでいた男の膝を蹴って走る。
身長は百メートルほどなのだろうか。ふとそんなことを考えながら、俺は四つ足で走っている。チーターのように体全体で風を切り……。ふと後ろを振り返ると、大男は赤銅色の体をゆっくり起こしてこちらに向かおうとしている。俺は、後ろを一瞥しただけでまだ走り続ける。
ヒュッという風切りの音とともに、俺はまた後ろ足をつかまれ空中へつまみ上げられた。体を翻し、隠していた爪に渾身の力を全て込めて、鼻への一撃。大男の低いうめき声とともに俺は空中に投げ放された。着地、そして離脱。
この高原には何も遮るものがなかった。普段は獲物を駆り立てる立場なのだが、追われる立場になると、明るいこの場所がいかに危険なところなのかを今更ながらに悟った。
後ろからドタッドタッと鈍く響く足音が響いく。はるか上方の顔には覚えがある。羅刹。俺がタラスプーキーを名乗っていた頃、ルシファー宮殿に誘われた時に観たことがある。名前こそ最近知ったのだが、その存在、巨体は見知っていた。
短い詠歌を唱える暇も余裕もない。慌てた俺は道を間違え、谷の奥へと追い詰められた。
「逃げ足が速いのではないのかね。」
羅刹は窮した俺を楽しむように、声をかけてくる。
「さあどうする?。」
「俺のことを知らないのか。」
「さあ知らないね。何処の猫か、何処から来たかなんてことには興味はないね。お前があれこれ苦労して逃げ回るのが面白いだけさ。」
「俺を覚えていないのかよ。ルシファー宮殿で会ったじゃないか。タラスプーキーだ。」
ルシファー宮殿を逃げ出した時の記憶が蘇る。俺をいじめ抜いた奴がいた。愛と称して独善的な押し付けと嘲笑とをよこす。こいつもその一人だ。俺はもう逃げる余裕もなかった。羅刹はその俺の態度と言葉を楽しんでいるようだ。
「フーン。知らねえな。たとえ昔知り合いでも、今こんな落ちぶれた奴は、省みる価値もないね。せいぜい俺を楽しませろよ。」
なんとか話しかけて見たが徒労だった。かえって残忍な扱いをされることになつてしまった。今、俺の飼い主リサの無念さが分かった。彼女もこんな風に追い込まれて、それで不意に殺されてしまった。何をしても相手は追い詰めてくるだけ。こんな無念さをリサが味わっていたなんて。
何かをリサが言っている。アドバイス?。ただ、彼女が俺の思いにためらいを覚えているためか、若しくは俺が中々に彼女を理解しないためか、彼女のいうことを捉えにくい。
「何事にも時。時を待つ。」
そう感じられた。何事だろう。
「今にチャンスがあるから。追い詰められたとしてもあきらめない。」
こんな考えが心に浮かんだ。天の息吹がリサの言っていることを理解させてくれた。何事にも、必ずチャンスがあるんだ。そう思えた。
じっと大男の顔を睨み返すと、羅刹の足元に開いている隙に気づいた。羅刹はすっかり追い詰めた気になっている。ダメ元でも一撃、そして逃げるしか手はない。一か八か駆け抜けた。毛を掴まれ、それをすり抜けて……。瞬時に食らいついた一撃は確かに大男の片足を咬み裂いた。と同時に背中を掴まれ、毛がバサリと抜け……。次の瞬間、先が二又に分かれている尻尾の一本が踏まれる。プッツン。激痛が背骨を走る。羅刹は、俺の力の由来を知っている、そう思いながら、後ろを振り向かず走り抜けた。
走って走ってどのくらいだっただろうか。谷を駆け抜け、川を越え、丘を駆けおり……。見えてきた森の中に入り込む。巨大な針葉樹の森。森に身を隠せば見つかることはない。大男の気配は追ってこなかった。
この谷一帯は幅広く、森は湿気を含んで深く、動くものたちの気配も感じられない。針葉樹林は照葉樹林とは違い、とても静かな場所。俺は松ぼっくりの実の油さえあれば生きていける。そう考えながら、針葉樹林の奥深くへと進んでいった。
川の音が近い。これを辿ればいずれ開けた場所へ出るだろう。今は休むところが必要だ。樹々の間からのぞく空には雲。山陰のせいか、空は明るいのに、一帯は闇が迫っていた。
俺は大きな木に洞を見出し、身を横たえた。
「痛え。あの野郎。」
そう言うつもりだったが、そのまま優しい睡魔に覆われてしまった。
長い間、眠っていた。艶やかだった黒い毛はすっかり擦り切れていた。毛が抜けて露出した白い肌に、幾つもの傷。手の爪はすり減って血だらけ。優雅な尻尾の一本が引きちぎられていた。
尻尾は俺の戦う力の基だった。一本は残っていたが・・・。今、リサは近くで応えてくれない。相変わらずの気まぐれだ。扱いに困る。さらに困ったことに、彼女がいないと俺の生きる気力がさらに失せていく。
でも、生きて逃れられたのは幸いだった。