或る渡し守の驚嘆
大陸の北、スクラ・レクアナ山脈を越えた先の平原に、アドレア湖と呼ばれる巨大な淡水湖がある。湖畔にはアドリアーナという都市国家が繁栄を謳歌している。
アドリアーナには一年を通じて多くの冒険者が訪れ、常に活気に満ちている。冒険者たちの目当ては、湖の中央部に浮かぶ島――アドレア島である。この島には、大陸でも指折りの巨大地下迷宮の入り口があるのだ。
大陸には三十二基の地下迷宮が存在しているが、アドレア島の地下迷宮――アドレア迷宮は、その中でも特に攻略難易度が高いことでその名を知られている。百階層を超える深度があり、出現する魔物も強力なものが多い。巨大な湖によって外界と隔離されているためか、ゴブリンやスライムといった、駆け出しの冒険者に向いているとされる低級の魔物が見られないのだ。そういった比較的弱い魔物は迷宮内で淘汰されてしまった、というのが定説となっている。
強い魔物しかいない地下迷宮というのは、平均的な冒険者にはリスクの高いチャレンジになるが、高レベルの冒険者にとっては効率的に稼げるというメリットがある。そのため、アドレア迷宮を訪れる冒険者は腕に覚えのある実力者ばかりである。老若男女を問わず、また種族の別を問わず、冒険者として数多の修羅場をくぐり抜けてきた者でなければ、アドレア迷宮へ挑むことは、労多くして功少なし、でしかないからだ。
アドリアーナは、そうした地下迷宮に挑む冒険者を支えるための宿場町としてはじまった都市だ。有り体に言ってしまえば、冒険者の財布を目当てに集まってきた商人たちが、そのままこの地に根を下ろして商売を続けた結果として、アドリアーナという都市は形成され、そして大きく成長を遂げてきた。
宿屋街を中心に料理店、道具屋、武具店、薬屋、治療院、各ギルドの事務所等、冒険者の利便を向上させるための店舗や施設が寄り集まっている中心市街があり、その周辺に中心市街で働く人たちが暮らす住宅地が広がっている。その発展速度は特筆すべきもので、アドリアーナの周囲を囲む城壁は、都市の規模拡大に対応するために三度も造り直されている。比較的小規模な都市国家しかない大陸北部において、これは極めて異例なことであった。
ひたすら冒険者のために発展してきたようなアドリアーナであるが、ひとつだけ不便なことがあった。アドレア島との間に橋が架けられていないのだ。
これは、決してアドリアーナの人たちの怠慢ではない。万が一、迷宮から魔物が溢れてしまった場合に備えた安全策として、敢えて橋が架けられていないのだ。湖は広いため、魔物といえども、泳いで渡ることは容易ではないからである。また、湖が深く、架橋することが技術的に困難だという面もあった。
そのため、島へ向かうには渡し船を利用するしかない。渡船業組合に加盟する大小二十艘の渡し船が、冒険者を島へと運ぶ唯一の交通手段であった。
春とは名ばかりの肌寒い日々が続いていたある日、夜明け前の湖畔で船の準備をしていた渡し守のザームエルに、ひとりの冒険者が声をかけた。
聞けば、島へ渡りたいのだという。
島へ渡りたいというのは、地下迷宮に行きたいということを意味する。
何人で渡るのかとザームエルが尋ねると、冒険者は自分ひとりだけだと答えた。
単独でアドレア迷宮に潜るという話は、これまで聞いたことがなかったため、ザームエルは怪訝な顔になってしまう。
先に述べたとおり、アドレア島の地下迷宮は強力な魔物ばかりがたむろする高難度の迷宮として有名である。となれば、パーティーを組んで挑むことが常道となる。そんな当たり前のことを知らない冒険者はいない。少なくとも、アドリアーナを訪れるような冒険者の中には。
にもかかわらず、ひとりで島へ渡るなどとは、いったい何を考えているのだろうか。
仕事柄、数多くの冒険者を見てきたザームエルがそうした疑念を抱くのも、無理からぬことではあった。
しかし、その冒険者は何食わぬ顔で懐から金貨を一枚取り出すと、ザームエルの右手にそっと握らせた。
「これは……」
「渡し船の料金よ。それだけあれば、帰りの分も足りるでしょ」
「むしろ多すぎるくらいですが……」
足りるどころか、大量の釣り銭が必要になる。渡船業組合の営業規定で、渡し船の片道料金はひとりあたり銀貨十枚と決まっているからだ。
困惑するザームエルに、冒険者は澄まし顔で応じた。
「別にお釣りなんていらないわ。これから地下迷宮で稼ぐんだし」
「はぁ……」
そんなこんなで、まだ夜も明けきらぬうちからザームエルは船を出すことになったのであった。
「百年ぶりに来たけど、相変わらずきれいな眺めねぇ……」
日が昇り、少しずつ明るさを増していく空を眺めて、うっとりした口調でそんなことを呟く冒険者の横顔を胡乱げに眺めながら、ザームエルは黙々と櫓を漕ぎ続けていた。
ザームエルが渡し守になって三十年近くになるが、ここまで得体の知れない客は初めてだった。
尖った耳の形で、エルフだというのはわかる。もし耳が隠れていたとしても、目の覚めるような美貌で、すぐにそれと察せられただろう。
だが、エルフであることが得体の知れなさに直結するわけではない。エルフは確かに少数種族だが、魔道に通じているという種族適性ゆえ、冒険者として名を挙げる者も多い。ことアドリアーナに限って言えば、エルフは決して珍しくないのだ。
ザームエルが引っかかりを覚えたのは、彼女の装備だった。
魔道士の象徴ともいえるローブに、荷物が詰め込まれているであろう雑嚢を斜めがけしているだけ。ローブは地味で飾り気もなく、裾は擦り切れている。雑嚢に無造作に突っ込まれたブースターロッドも、アドリアーナの武具屋で簡単に手に入るような量産品に見える。足回りも、ありふれた革ブーツだ。
一見すると特に目を引くようなところがない。そのことが、逆に目を引いた。
アドレア迷宮に挑もうかというような冒険者は、経験豊かな熟練者ばかりである。そのため、一点物の装備品を大事に使っている者が少なくない。一点物とまでは行かなくとも、それなりに上質で高価な装備の使用が一般的だ。上から下まで安価な量産品で揃えている冒険者のほうが、むしろ珍しい部類に入る。大所帯のパーティー編成であれば、装備が揃えられていなくて量産品で間に合わせているメンバーが混じっていたりもするが、少人数編成のパーティーだと装備品は一級品を揃えているのが普通だった。
優れた武器を持てば強くなるわけではないとはいえ、たったひとりで高難度の地下迷宮に潜るのに、安物の装備で大丈夫なのだろうか? というのは、アドリアーナをよく知る者であれば当然抱く感想であった。
知らず知らずのうちにザームエルの顔にもそうした疑問が浮かんでいて、そんな彼の表情を見て取った冒険者がさもおかしそうに笑う。
「大丈夫よ。ちゃんと無事に戻ってくるから」
「あ、いや……」
「……無事、というのは、正しくなかったかな」
「?」
「そう、充分な戦果を持って、と言うべきよね。無事とは、何も無いということ。地下迷宮に潜って『何も無い』なんてことはあり得ないからね」
そう言って、彼女は不敵な笑みを浮かべる。ひとりでアドレア迷宮に潜るというだけでも珍しいのに、女性で、エルフで、魔道士で、しかもやけに余裕綽々なのだ。
ザームエルは、目の前の冒険者をどう捉えてよいのかわからず、困惑と不審とが入り混じった表情になってしまう。
だが、そんなザームエルの心中などお構いなしに、彼女は機嫌よく言葉を続ける。
「ふふ、楽しみにしておいてよ。あぁ、そうだ。三日後に迎えに来てもらえるかな」
「……わかりました。三日後の、朝でよろしいのですか?」
「そうね。三日後の日の出直後でお願いするわ」
「では、そのように承りました」
ザームエルが何とか平静を装って返事をすると、冒険者は満足気に頷き、湖面をじっと見つめたまま沈黙した。
やがて船は島に到着した。
ザームエルは慎重に船を操り、湖岸に設けられた浮き桟橋に寄せていく。
「さて、ひと暴れしてきますかね」
楽しげに呟いて、彼女はすっくと立ち上がった。そして、揺れる船の上でバランスを崩すこともなく、軽やかに跳躍して浮き桟橋へと飛び移った。
その所作のひとつひとつが軽やかで、伸びやかで、優雅で、冒険者を見慣れたはずのザームエルも感嘆せざるを得なかった。
浮き桟橋を迷いない足取りで進み、地下迷宮の入り口へと向かう冒険者の背中を見送ってから、ザームエルは引き返した。
それにしても、とザームエルは思い返す。
随分と自信たっぷりな冒険者だった。長命なエルフだから、外見から年齢を推し量るのは難しい。装備品はかなり使い込まれているようだったが、それが持ち主の経験と直結するとは限らない。彼女の実力の程については、全く見当がつかなかった。
三日後に迎えに来いと言われたが、彼女は無事に帰ってくるのだろうか。
そして、約束の期日が来た。ザームエルは夜明け前に船を出し、アドレア島へと向かった。冒険者を迎えに行くためだ。
自信ありげな彼女の言葉について、正直なところ、ザームエルは半信半疑であった。だが、既に船賃を前金でもらっている以上、渡し守として迎えに行かないという選択肢はあり得ない。
船が島に近づくにつれて、太陽が地平線から顔を出し、湖面を、島を、明るい光で染めていく。
果たして、浮き桟橋の突端に人の姿があった。
本当に、あの冒険者なのだろうか。
ザームエルは慎重に船を操り、浮き桟橋に近づいてゆく。
あのエルフの冒険者が、晴れやかな笑みを浮かべて立っている。見覚えのある顔だとわかって、ザームエルはほっと息をついた。
冒険者の傍らには大きく膨らんだ布袋がある。おそらく、地下迷宮内で獲った素材が入っているのだろう。三日分としては十分すぎる戦果に違いない。あれだけの素材を得るには、どれだけの魔物を狩らねばならないのか。しかも、それをひとりで成し遂げたというのか。
ザームエルは戦慄した。とんでもない人物を客にしてしまったのではないか、と。
そんなことをザームエルが考えている間にも、状況は刻々と変わりつつあった。
浮き桟橋に接舷するより早く、彼女が荷物を抱えて跳躍したのである。
ふわりと弧を描いて船上に降り立った彼女は、荷物を下ろすや、鋭い眼差しで島を振り返り、声を上げた。
「親方さん!」
「はい?」
「すぐに桟橋から離れて!」
「わ、わかりました!」
ザームエルは言われるままに操船し、浮き桟橋から遠ざかる。
気になったザームエルが島を見やると、浮き桟橋の上を走る複数の人影が見えた。
「あれは?」
「冒険者崩れの盗賊よ。わたしが船に乗る隙を突いて、これを奪いたかったんだろうけど……やれやれ」
そう言って、彼女は傍らに置いた布袋を軽く叩いてみせた。迷宮で獲得した素材ではち切れそうになっているそれは、確かに盗賊たちにとって抗いがたい魅力があるだろう。
そうこうしているうちに浮き桟橋上で幾人かが弓矢を構える様子が見えて、ザームエルは慌てた。
「そんな悠長なことを言ってる場合ですか!?」
「ご心配なく。人を害そうとする連中に与える慈悲なんて持ち合わせてないから」
彼女はそう言うと、右手を突き出した。
「裁きの雷鎚!!」
次の瞬間、浮き桟橋上にまばゆい閃光が迸った。激しい雷光が大蛇のようにうねり、浮き桟橋上の盗賊たちが不可視の拳に殴られたかのように宙を舞う。盗賊たちはことごとく湖に叩き込まれ、瞬きする間もないほどの短時間のうちに全てが決着していた。
それは、雷を操る魔法――雷術による一撃だった。雷術は、火、水、風の三属性をバランス良く組み合わせなければ行使できない高等魔法である。
ザームエルは魔法を使うことができないが、雷術を扱える魔道士が少ないということは知識として知っていた。その雷術をいとも容易く行使して賊を薙ぎ払ってみせた張本人はというと、涼しい顔をして湖面を眺めている。
「あなたは、いったい何者なのですか?」
ザームエルは思わず尋ねてしまっていた。
「あら、客の素性を詮索しないのがアドリアーナの流儀だと思っていたのだけど?」
彼女の言うとおりだった。
ザームエルは頭を下げて無礼を謝した。
「し、失礼いたしました」
「ふふ、いいよいいよ。女がひとりで地下迷宮に潜るだけでも怪しいのに、盗賊に追われているとなれば、気になってしまうのも当然よね」
「あ、いや……」
「ところで、あなた、冒険者をしたことある?」
「いえ、私はずっと渡し守一筋です」
「それがいいと思うわ。冒険者なんてね、真っ当な人間のやる仕事じゃあないもの」
他ならぬ冒険者が、自分でそれを言ってしまうのか。
ザームエルが呆れていると、彼女は愉快そうに笑みを深めた。
「それでもね、冒険者は地下迷宮へ潜らなきゃいけない。魔物を狩らなくちゃいけない。何故だかわかる?」
ザームエルが答えに窮していると、彼女は話を続けた。
「答えは簡単。そうしなければ、世界は魔物で溢れかえってしまうからよ」
「そう、なのですか?」
「そうなのよねぇ、これが」
と応えてから、冒険者はまだ薄暗い空を見上げた。
「かつて七人の偉大な魔導師が世界各地に地下迷宮を造営した、という話は知ってる?」
「七賢者が残した三十ニの地下迷宮のことですね」
「そのとおり。じゃあ、アドレア迷宮もそのひとつであることは知っているわね?」
「もちろんです。アドリアーナでは常識ですから」
「そりゃそうよね。それじゃあ、七賢者が地下迷宮を造る前の世界がどんなふうだったか、知ってる?」
「いえ……」
「わたしも人から聞いた話だけど、地上の其処此処で魔物が徘徊し、人々の生活を脅かしていたそうよ。今でも、ときたま人里近くに魔物が出ることがあるけど、そんなものでは済まなかったらしいわ」
その話を聞いて、ザームエルは首をすくめた。
「なんだかぞっとしない話ですね」
「同感だわ。まぁ、そんな物騒な世の中だったわけ。人々は魔物との戦いを続けながら、いつかは魔物を地上から駆逐したいと望んでいた。けれど、それは叶わぬ夢だったわ。何故か。世界各地に魔界と通じる孔があって、そこから次々と魔物が地上にやってきていたからなの。そこで七賢者は一計を案じた。彼らの持てる魔法の知識と知恵を結集して、魔界と通じる孔を封じることにしたわけ。けれど、孔は大きく、深く、ただ塞ぐだけでも容易ではない。なにしろ魔界までつながっているんだからね。そこで七賢者は考えに考え抜いた末に、孔の中に地下迷宮という一種の檻を造り、その中に魔物を閉じ込める、ということを思いついた」
「でも、それだけでは、いずれ魔物が迷宮から溢れ出てきてしまいますよね?」
「ご明察。だから、魔物が溢れ出てくる前に迷宮内で倒してしまいたくなるような仕掛けが用意されたわけよ」
「仕掛け、ですか?」
ザームエルが首を傾げると、彼女は足元にある布袋を指さした。
「地下迷宮の中で魔物を倒すと、宝石貴金属や貴重な素材に変換されるような魔導術式が組み込まれたの。極めて大規模かつ精巧緻密な代物よ。だから、こうして素材稼ぎが可能になった。つまり、地下迷宮の存在が、魔物を金に変えたわけね。迷宮の外で魔物を倒しても、皮と肉と骨が手に入るだけ――とはいっても、さんざん剣やら斧やらで切り刻んだあとだから、大した価値はないわ。けれど、地下迷宮で魔物を倒せば金が稼げる。そうとわかれば、人々は知恵を絞って地下迷宮内で魔物を倒すようになるだろう。と、七賢者は考えたし、結果的にその目論見通りになったわけ。めでたしめでたし」
「はぁ……」
ザームエルは煙に巻かれたような気分になりながら、ひたすら櫓を漕ぎ続けた。
船がアドリアーナ側の船着き場に帰り着くと、冒険者は大きな布袋を抱えて船から降りた。
「それじゃ、わたしはこれで失礼するわ」
「……あ、どうもご利用ありがとうございました!」
ひらひらと手を降って歩き出す彼女の背中を見送って、ザームエルは船着き場のベンチに腰をおろした。
懐から煙草を取り出し、パイプに詰めて、着火具を探す。と、不意に煙草に火がついた。
「!?」
驚いて顔を上げると、先程の冒険者が人差し指をこちらに向けていた。
「煙草はあまり体に良くないから、程々にねっ!」
彼女はそう言い置くと、今度こそ振り返らずに歩き去った。
「とんでもないお客さんだったな……」
ザームエルはぽつりと呟いて、煙を吐き出す。
四十歳もとっくに過ぎ、五十歳が見えてきて、世界のことを何となくわかったつもりになっていたけれど、なかなかどうして世界は広い。まだまだ驚きに満ちているのだとわかって、ザームエルは胸の昂りを抑えるのに随分と苦労した。
「さて、今日も頑張るとしましょうかね」
そう呟いて、ザームエルはゆっくりと立ち上がった。
今日という日は、まだ始まったばかりだ。