第一話 異世界へ
西村は渋谷駅近くのビジネスホテルにいた。
東京はけだるいような暑さの日だった。
アスファルトの照り返しと立ち並ぶビルの間から絶えず射す日光は、とても七月序盤とは思えないものだった。
ホテル一階のロビーを抜け、食事会場を横目に見ながら、西村はネクタイを緩めエレベーターへ乗り込んだ。
このホテルは十階建てだ。一階がロビーと食事会場。二階から上が客室となる。
西村の部屋は九階で、エレベーターから降りるとまっすぐに伸びるきれいな石張りの廊下の両側に客室へのドアがある。手前八部屋が二人部屋で、奥六部屋が三人部屋だ。また、エレベーターのすぐ隣に階段がある。
西村はこの、左側手前三番目の部屋に泊まっている。
西村はエレベーターの操作盤を見る。一階から十階までのボタンが並んでいる。西村は九階のボタンを押し、なんとなく腕時計を見た。午前一時過ぎ……。
本来ならもっと早く帰れたはずだが、全てが長引いた上に慣れない東京で少し迷ってしまった。
九階につく。
西村はため息交じりに歩き出すと、財布に入れておいたカードキーをドアに当てる。
二人部屋だが一緒に泊まる人はいない。西村は一人で来ていた。
ドアを開けた途端、ムッとする熱気が肌に触れる。そういえばベッドメイキングは断っていた。ホテルは乾燥するからと冷房を切って出かけていた。
冷房をつけ、部屋が冷えるまでそこにいるのもなんだったので、ネクタイを外し食事会場へ行くことにした。このホテルには朝食券の類がなく、食事会場は朝晩の二回開いている。
このホテルの食事会場はこの時間にもかかわらず開いていた。ただ、やはり客はいないようだった。
牛乳を継いだコップが、いくつか余り物のように置かれていた。西村はその一つを取り、手近な席に座った。
牛乳を飲んで携帯を少しいじっているとやがて苛立った気分も落ち着いてきた。
腕時計を見るともうすぐ午前二時だ。
どうせ明日は予定などない。この時間まで起きていても問題なかった。
草木も眠る丑三つ時か、などと考えていたら、西村はふと思いだした。
エレベーターで異世界へ行けるという話だ。いや、これは実際に行けるわけではなく都市伝説だ。しかし成功したとしても戻るすべはなく、成功を伝えることができないゆえに、絶対に嘘であるとも言い切れないのだが。
ともかくエレベーターで異世界に行くとき必要となるのは十階建てを超える建物とエレベーターだ。
まず、一人だけでエレベーターに乗る。
次にエレベーターに乗ったまま、四階、二階、六階、二階、十階と移動する。この時他の人が乗ってきたら成功できない。
十階についたら、降りずに五階へ行く。五階についたら若い女の人が乗ってくる。ただしこの人に話しかけてはいけない。
女の人が乗ってきたら一階のボタンを押す。するとエレベーターは一階に下りず、十階に移動する。この移動中に他のボタンを押せば失敗するが、異世界に行くのをやめるなら最後のチャンスという。
十階について扉が開けばそこはもう異世界で、自分以外の人は一人もいないという。
このホテルは十階建てで条件に合うし、何より深夜だからほかの人が乗ってくる心配もない。現に食事会場には他に人はいなかった。
西村はエレベーターに向かった。始める階は特に指定されていないから、別に一階からでも問題ないだろう。
西村はもともとオカルトに興味があり、夏は必ずこの手の話を読み漁っていた。今日は暑かったし、深夜二時ということもあり検証してみようという気になったのだ。
エレベーターに乗り込み、まず四階を押す。
二階。
六階。
二階。
十階。
そして、五階……。
扉が開くと同時に思わず叫びそうになった。革靴とスーツを身に着けた若い女の人が立っていた。ビジネスホテルなのだからそんな人がいてもおかしくないが、タイミングの良さに驚いてしまった。
西村は一階を押す。女の人は……、十階を押した。
しかしここは五階だ。一階へ行くには四階、三階、二階、一階と、四階分の高さを移動するのに対し、十階へ行くには六階、七階、八階、九階、十階と五階分登らなければならない。
だが果たして、エレベーターは上に向かっていった。
西村の手に汗がにじんだ。
エレベーターは静かに登っていき、ついに十階についた。目の前に絨毯敷きの廊下が見える。西村は半ば放心状態で降りた。
が、深夜である上にビジネスホテルの廊下だ。普段から人はいない。
西村はならば外に出てみようと考え、エレベーターを振り返った。と同時に違和感を覚えた。
エレベーター内で一階のボタンを押したのは西村だ。十階のボタンを押したのが女の人。
しかし西村が下りようとした時女の人が下りてきた気配はなかったし、目の前にあるエレベーターには、誰も乗っていなかった。
さすがに混乱した。あの後エレベーターが動いた音はしなかった。そもそも西村がエレベーターを降りてから振り返るまで、三秒ほどしかたっていない。
あの女の人はどこへ消えたのか?
西村の視界には、ただ無人のエレベーターと階段だけが映っていた。
鬼電車のほうがだいぶ終盤に来たので新作です。
え、廃病院?
ナンデスカソレハ?