この世で最も旨いもの
私はボノー・マークス、美食家だ。
私は自分で言うのもなんだが途轍も無い程繊細な舌を持っている。
それこそ、食べた食材が何だったかを当てるなど優に及ばす、調理した過程や食材がどの様に育てられたかすら分かる。
私はこの力を見込まれて王族御用達のシェフの腕や、食材の質を上げるアドバイザーのような役割をしていた。
そして、世界中の最高のシェフ達が作ったものを食べ食べ、食べて。私はその料理に舌鼓を打ちつつアドバイスを送っていた。
しかし、私はどんな料理を食べても必ずアドバイスをしていた。つまりどれだけシェフの腕が良かろうと、食材が良かろうとも完璧な料理は無いと言うことに気がついた。
そして私もすっかり年をとって、暇を貰うことになった。
老人一人だけならなにもしないでも生きていく金はあるが、逆に言えば金しかない私は世間から身を引くように山小屋で一人暮らしを始めた。
私はもう自分が生きていく意味がわからなくなっていた。もうここ数年は怒りも涙もなにも感じずにただ生きているだけだ。死ぬという行為よりも恐ろしいかも知れない。そんな日々が続いていた。
そして年月が経ち、私は赤ん坊を拾った。
もう皺が浮き出ている手で赤ん坊を拾い、私は家に帰った。
それから10年の月日が流れた。
赤ん坊はすくすくと成長し、赤い髪と青い目が特徴な可愛らしい女の子になった。
「おじいちゃん!お腹すいた!」
「おお、わかってるよ。あと少しで出来るからな」
あれだけ美食を食い漁っていた私が今や家庭菜園で育てた野菜と街で買った安っぽい肉をこれまた安い鍋で煮込んでいる。
その事に少し笑えてくるが、彼女の顔を見るだけでその心が晴れる。
ただ、心残りなのは彼女にこんな飯しか出せない事だ。
食事とは、人生で決められた回数しか出来ないものだ。そう考えると私はどれほど充実した人生を送ってきたのか考えさせられる。
そして私はこの子の貴重な時間と体験を私は奪ってしまっている。
「おじいちゃんどうしたの?美味しいよ?」
「ほほほ、うまいか。ならおじいちゃんは嬉しいぞ」
「うん!」
この子はこんなことを言っているが、私の舌はそうは言ってくれない。歳をとって衰えてはいるが、この肉は脂が多すぎる。煮込み方が均一じゃない。野菜を湯につかし過ぎている……色々の考えが私の頭を支配する。
——だが——
「ん〜」
この子の笑顔を見るだけで、それでもいいじゃないかと思ってしまう。
「ふふ」
「ん?どうしたの?」
「いやいや、なんでも無いよ。そういえば今日の学校はどうだった?」
「うん!今日はね——」
山小屋がそこにはぽつんと存在し、オレンジ色の暖かい光が曇った窓に二つの確かな影を映していた。
そしてそんなある日だった。
私が風邪をひいたらしい。
「おじいちゃん、大丈夫!」
「嗚呼、大丈夫だよ。カタリナ。少し具合が悪だけだ。お医者様にも薬は貰った。少し安静にしていればこんなもの直ぐに治るさ」
我が愛娘カタリナは16歳になっていた。以前にも増して真っ赤になった髪の毛、蒼く宝石のように輝く瞳、嗚呼、とっても可愛らしい子になった。
「可愛くなった……なぁ、それカタリナ。彼氏の一人でも連れてきてくれないか?今のうちに見定めてやらねばならんのでな」
「彼氏なんていないよ……」
「嘘をつけ、お前程可愛い子に寄って来ない男などいない」
私は彼女の頬を撫でた。手の皺は幾重にもなっていて……
「私も、すっかり年老いたなあ……」
「……うん……」
「なあカタリナや、聞いてくれんか?おじいちゃんの昔話」
私は、カタリナに昔話を聞かせる時に死ぬ人間は親しい人に過去の話をする。と言う話を思い出していた。
「すっかり日が暮れてしまった。どうだ?驚いたか?」
「うん。おじいちゃんがそんなに凄い人だったなんて知らなかった。なんでもっと早く教えてくれなかったの?」
なんでだろうか……いや、本来言うべき話でもなかったのだろう、だが、わかって欲しかったような気がした。
「なぁ、私はもうじき死ぬ」
「っ!わ、分からないよ?」
カタリナは俯いてベッドのシーツを握り締めながら言い返す。
「いいや、分かるんだ。死期が近づくと自分がいつ死ぬか分かる。と言う噂は本当らしい」
尚もカタリナは顔を上げない。
「私は風邪じゃない。これは衰弱だ。もう、時間が無いんだよ」
「やめて……やめてよ……死なないでよ!」
遂に泣き出して私に抱きついてくる。よしよしとあやしつつ、私も言葉を紡ぐ。
「お前を残して逝ってしまうのは私も悲しい。けど、どんな生物も生きていれば死んでしまうんだ」
「どんな生物も?」
「ああ、私達が普段食べている肉だって、野菜だって、そして人間も。みんな天寿を全うするんだ。それは誰にも止められない」
だんだんと抱きつく力が弱ってくる。
ああ、こんな時なのにお腹が空いてきてしまった。
ぐーと腹の音が静寂の中に響き渡る。
「はっはっは、生きていればお腹が空くのも誰にも止められないな。どれ、ご飯を作るとするか」
「おじいちゃんはまってて。私が作るから」
その言葉に驚く。
料理は私がいつも担当していて、カタリナに任せたことが無かったからだ。
だがまあ……娘の手料理を一度も食べないのは罪……か。
「はい。……おじいちゃんの口に合うかはわからないけど」
カタリナはお粥を出してくれた。
「お粥か……懐かしい。カタリナ、お前が風邪を引いた時はいつもこれを作っていたな」
懐かしい。本当に懐かしい。カタリナは毎年一回は風邪を引く子だ。はじめの時はとても苦労したものだったなぁと感慨深く思っている。
「うん。ささ、冷めないうちに」
「ああ、いただくよ」
スプーンでかき回すとうちの畑で採れたであろう野菜や、いつも使っている肉を使っていた。
それを口に運ぶと、私は不意に涙を流した。
——旨い。
うちの畑で採れた野菜、いつも使っている肉。確かにそうだが、同じでは無い。暖かい。心に染み渡ってくるような暖かさで、深い優しさ。そして料理中にちょっと入ったのか、塩水のような味。
——旨い。
かつてのシェフ達など話にもならない。嗚呼、素材の引き出し方も最も美味くする方法も思いつかない。たかが個人の畑で採れた野菜、そこら辺に売っている安い肉。だが、だが。それは私が今までに食った飯の中で、一番旨かった。
「とても……良かった。文句のつけようが無い。満点だ」
私は、やっとこの世で最も旨いものを食せたのだ。
「だが、何故だろうな。何故こんなにも旨いのだろうか」
「おじいちゃん美食家なのにそんな事も知らないの?私はおじいちゃんに教えてもらったのに」
悪戯っ子のような笑みを見せてくるカタリナ。はて?私がカタリナに料理を教えたことはないが?
「一番美味しくご飯を作る方法はね?その人の事を、大好きなその人の事を思って作るんだよ?私言ってるでしょ?おじいちゃんの料理が一番美味しいって」
嗚呼、そうか。そうだったのか……料理とは美味く作るのではなく……
「旨く食べて貰う事……か」
「うん!一緒に食べればもっと美味しくなるよ。だからもう少し、もう少しだけ、生きてくれると、嬉しい」
「全く……泣き虫な所は変わらないな……」
最後の言葉、ちゃあんと聞いたよ。
私は抱きついてきたカタリナを優しく包み、頭を撫でる。私の目にはもう枯れたと思っていた涙が流れていた。
その後、私は奇跡的にも復活した。医者も大慌てでデータを取らせて欲しいと言われたくらいの事だったらしい。
私は今生きている。私は怒りも感じないし涙も浮かべない。
何故?
今浮かべるのは
「おじいちゃん!」
笑顔だから。