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夜の底で、君のことを想う

作者: 星 雪花
掲載日:2019/02/22


 春になると、君といた風景を鮮やかに思いだす。

 たとえば、桜の薄い花弁が空に舞い散る様子。一緒に乗った自転車で駆け降りたときの夕陽。川面を下ってゆく鴨の群れ。深夜に行った公園の青い影。


 そんなひとつひとつが淡くたちのぼって、私は遠く旅するような気持ちにおそわれる。

 目眩にも似た感傷。どこにも居場所がなくて、私は迷子だった。永遠に続く日々のなかで右往左往しながら、ひとりきりで、途方に暮れていた。君に出会って、別れてからもずっと。



***



 講義棟を出てからは、たいていまっすぐ帰らない。足元で、形の定まらない影が伸び縮みを繰り返す。単調な砂利の音。暗い小径。ポツンと白々しい光をはなつ電灯。


 ガコンと大きな音がして、ミルクティーが落下した。自動販売機の透明なフィルター。三月になったというのに、夜の底は、いぜん冷たい。

 温かいアルミの缶を抱えて、片隅にある木のベンチに座った。夜の公園。車の行き来する音が断続的に聞こえる。目の前を、猫がついと通り過ぎる。


「にゃあ」


 呼びかけると、猫は一瞬立ちどまり、フンと言ってまた歩き始めた。プルリングを引きながら、晴久はるひさ、と小さく呼びかける。こんな風に、ひとりで座っているときに思いだすのだ。日常のはざまで、どうしようもなく。


 半分以上残っている缶を手に立ちあがる。見あげると、星がひとつ、ふたつ、弱い光をはなっていた。




***



 晴久は、高いところが好きだった。


 一回生の春。快晴で東風の吹く日に、広い場所に行きたくなって、屋上へ行った。


 講義室が連なる棟の階段を登り、立ち入り禁止の札を乗り越えてドアを開けると、先客がいた。眠たげな午後だった。どこかで、テニスボールの打たれる音が聞こえた。



「こんにちは」



 後ろ姿にむけて挨拶した。風が体を吹き抜けていって、そうすることはとても自然に思えた。

 彼はゆっくりふりむいて、「こんにちは」と返した。逆光で、よく見えない。


 屋上の隅には、空き缶や煙草の吸殻が捨ててあった。フェンスのむこうに飛行機雲の白線。テニスボールがもう一度打たれて鳴り、男の子の歓声がした。

 私は名前を尋ねた。

 耳元で、風が鳴っていた。


「晴れて久しいって書いて、晴久」


 彼は言った。午後の日が差す屋上はまぶしかった。




 晴久に出会ってから、日常は少しずつ、彼の方へむかっていった。ふたりとも大学に入ったばかりで右も左も分からなかったし、どこかで話し相手を求めていた。

 ずっと集団でいるのが苦手で、ひとりで行動したいのだけど、ふっとしたとき誰かと話したい。そんな心持ちを互いに発見してからは、なんとなく一緒にいることが多くなった。




「これから、どこか行かない?」


 講義が終わって駅にむかう途中、私は言った。四限目が終わった後の時間帯で、学生があふれていた。この塊に含まれたまま、駅のホームに閉じ込められるのが嫌だったのかもしれない。


「どこへ?」と聞く晴久に「どこでもいい」と答える。自転車をひきながら、晴久は少し黙った後、


「じゃあ、どこか行こうか」


 と言った。あの、耳に残ってしまう声で。


 夕方の光が、急に近く感じられた。親しげな空気は歩いていくに従って濃密になった。東の空から、夜が追ってきている。


 少し肌寒く感じる風のなか、ふたりで歩いた。途中の自動販売機で、晴久はミルクティーを買ってくれた。アルミの缶は初め、持てないくらいに熱かった。


「ここを登ろう」


 晴久は、自転車をとめてそう言った。ゆるやかな丘にそって階段がある。ずいぶん登って、頂上にたどりついた。そこには、小さなベンチが置いてあった。


 フェンスのむこうに、夜の街並みが見える。遠くの方には灰色のビルがあって、赤いライトがぽつぽつ点滅していた。アパートや近くの家々では窓から明かりがもれていて、そこに人がいることを知らせていた。


 ずいぶん遠くまで歩いてきた気がした。今までずっとふたりで旅をしていて、目的地にやってきたような。目的地についたので、行く場所を失った旅人たちのように。


 時計を見ると、七時を過ぎていた。星も月もない曇り空は、街の光を反射してへんに明るい。私は、やけに空っぽな気持ちで立ちすくんだ。手前にある信号機を眺めながら。信号は、青色から黄色に変わる。そして赤へ。

 空腹を我慢して、ずっとそうしていたら、少しずつ東の空が白み始めた。曇り空のままで。




 ケータイが繋がらないとき、居場所は屋上と決まっていた。電源を切っているのだ。それくらい、晴久は高いところを大切にしていた。


 屋上に行くと、夕日の沈むところだった。雲間へ沈んでいく太陽。ばら色の空。あふれる夕映えの光。雲は渦を巻き、西の果てへと長い筋を伸ばす。晴久と私は並んで、同じように太陽を見つめていた。


 日が沈むと、空はめまぐるしく変化した。東の方では、白い月が沈んだ太陽に照らされ、徐々に存在感を強めていく。群青色の広がり。飛行機雲が空を渡ってゆく。何も話さないまま、ぐずぐずと月ばかり眺めた。


 途中で、警備員の人が来て、懐中電灯で下から上まで照らし始め、びっくりして逃げた。光が体をかすって、見つかった! と思ったけれど、どうやら見えていなかったらしく、不審者を探す光はゆらゆらと遠ざかった。人影を見送ったあと、私も晴久も息をつめて笑った。まるで、共犯者のような気持ちで。




 どちらかといえば、桜は夜桜が好きだ、と晴久は言った。「どうして」と聞いたら「夜の方が神秘的に見える」と言い、「今度見に行こう」と話は続いた。

 

 ちょうど桜が開花する頃だった。大学は新入生が加わったせいか、いつもより人口が多く感じられた。期待と不安の入り混じった空気。足元はふわふわと頼りなくて、疲れて眠くなってしまうような。


「いいけど、いつ行こう」


 隅のテーブルで、私たちは話していた。次に履修する講義を決めるため、時間割表をばらばらと広げながら。


「いつでもいいよ。行きたくなったら連絡して」


 お花見をしたことはなかった。今まで一度も。



 ある日の夕方、晴久に電話した。着る服も散々迷った挙句に決めて、水筒と小銭入れもこの日のために買って、準備は万端に整っていた。


 3コールで晴久は出た。ひどいしゃがれ声で。

 どうしたの、と聞く前に「ごめん、風邪ひいた」と彼は言った。今日は無理だ、ということだけが分かった。


 また連絡して、と言われたけれど、まだ治ってないかな、と思いあぐねているうちに一週間が過ぎた。大学にも来ていないようなので、なおさら連絡しづらく、そうしているうちに、桜は散ってしまった。



 ある日、電話したら、電波が通じなかった。それで屋上に行った。彼はフェンスにもたれて座っていた。


 もうだいじょうぶなの?

 うん。

 風邪治った?

 うん。


「ごめんな」と、晴久は言った。


 結局花見に行くことはできなかった。そのとき買った水筒と小銭入れは、使われることのないまま、机の引き出しの奥で眠っている。




 一度だけ、晴久の家で酒を飲んだ。私は梅酒のロックを、晴久はビールの缶を。お酒には強いたちなのに、そのときだけはめずらしく酔っていた。口から考える前に言葉が次々と出て、そのくせ、何を喋っているか分からないのだ。


 晴久は笑っていた。ふたりともよく飲んで、そのために酔って、高揚していた。飲んでいるうちに眠くなって、じゃあ寝ようか、と言って横になった。


 目が覚めたときに、ハッとした。

 晴久はいなかった。起きあがると、頭がガンガンした。トイレにでも行ったのかな、そう思って目をやると、暗がりを通して黒い影が見えた。 晴久は、ベッドから少し離れた場所で静かに寝息をたてていた。


 私はふたたび、ベッドに横になった。すると、なぜか突然、予期しなかった気持ちにおそわれた。胸の底でグッと何かが沈み込んだかと思うと、まぶたの裏から押しあげるように涙があふれた。晴久が隣にいなくてさみしいのか、ひとり目覚めて心細いのか、あやめもつかぬまに、涙は次から次へ流れた。


 その後、お風呂に入ってなかったことを思いだして、シャワーを借りた。ちょうどいい温度のお湯に体を洗い流され、シャンプーの匂いに包まれると、突然の感傷は跡形もなく消えていった。


 浴室から出て、かけてあったタオルで体をふき、裸のままうろうろして晴久の黒いシャツをはおった。窓を開けると、夜のしんとした空気が顔に触れて心地よかった。ドライヤーで髪を乾かしながら、窓辺のひっそりとした夜を眺めた。



***



 講義棟を出ると、小雨が降っていた。午後から雨、とニュースで見て持ってきていたビニール傘を広げた。しずくが傘の上につぎつぎと落ちる。電灯のそばを通り過ぎると、水滴は白く反射した。


 発光する自動販売機。ミルクティーを、買おうとしてやめた。ベンチは濡れて、誰もいない。猫の姿も。


 ——晴久。


 心のなかで、名前を呼んだ。

 いつか見た星のまたたきを思いだした。強い気持ちと、おもかげの弱い光が重なって、自分の足が、急に遠くなる。


 交差点。


 青色の信号が点滅して、赤に変わる。もう少しだった。あと、もう少しで、渡れたのに。


 本当は、——私は、晴久のことを、本当はずいぶん好きだった。初めて、屋上で名前を聞いたとき、彼から発散されていた、やわらかい光のそばにいたくて、遠回りをし続けた。

 うっかり、踏みはずしてしまわないように。

 ゆっくりした、テンポで。



 ——もう少し早ければ。


 今さらになって、そう思う。もう少し早く歩いていたら、向こう側へ行けたのに。目的地のない旅へ、ふたりで。


 雨は本降りになってきた。ポケットに入っていたチョコレートの包みをむいて、口にほうる。なぜか、甘さを感じなかった。噛み砕きたいのに、チョコレートは、口のなかであっさり溶けて消えた。何の余韻も残さず。



 一年と少し前、私は強くなりたい、と思っていた。晴久が大学から姿を消して、何の連絡もとれなくなったころ。怒りや、戸惑いや、どうしようもなく行き場のない気持ちは、時が経つにつれて薄らいでいった。


 でも、さみしさだけはぐずぐず胸に残って今も消えない。いつまでも、執拗に後を追う。まるで影のように。


 足元を見ると、歩調に合わせ、私の影は薄くなったり濃くなったりしていた。

 帰ったら、甘いお酒を飲もう。ふと思い立って、コンビニエンス・ストアに寄り、杏露酒(シンルチュウ)の小さな壜を選んだ。



***



 晴久の誕生日は五月だった。桜が散って、ゴールデンウィークが過ぎて、梅雨が始まる前のカラッとした季節。緑に陽が反射して、まぶしくて、思わず目を細めてしまうような。


 ある日の夕方、並んで歩いているとき、


「そういえば」と彼は言った。


 そういえば、俺、今日誕生日だ、と。ほとんど自分でも忘れていて、今突然思いだしたように。


 私は一瞬言葉につまって、一拍おいてから、「おめでとう」と言った。


「じゃあ、お酒でも飲もうか」


 そのままふたりで近くの居酒屋に行った。晴久がビールに口をつけたのを確かめてから、私は不意に、


「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し」


 詩の冒頭を口ずさんだ。

 心に浮かぶまま、つぎつぎとこぼれてゆく。


 とまらなかった。

 ひきとめておきたいと、思ったのかもしれない。

 いずれなくしてしまう大切なものを。

 時間を。今目の前にある、もののすべてを。


 ひととおり暗唱すると、晴久は私の唐突さにびっくりしながら、「何それ」と尋ねた。


「荻原朔太郎の『旅上』っていう詩」


「好きなの?」


 晴久のジョッキは、キンキンに冷えていた。表面をなぜると、氷が指先にひっつく。指の跡をつけるのが、昔から好きだった。小さい頃、車の窓が暖房で曇るたびに落書きした。書くところがなくなってしまうまで。


「しののめっていう言葉が出てきて、好き」


「しののめ?」


 晴久が言うと、まるで違う言葉に聞こえた。たとえば「草の芽」のように。あるいは、遠い国の誰かの名前みたいに。


「夜明けっていう意味」


 晴久は「いいね」と目を細めて笑った。そのときの声の深さを、今でも覚えている。ひどくはりつめていて、真摯な声。


 私は梅酒のロックを干した。グラスから水がしたたって、木目の机に水溜まりをつくっていた。



***



 高台から見た夜明けは、びっくりするほど早く訪れて、雀の朝のさえずりを不思議に思った。晴久と階段を登った日。ふたりきりなのに、本当の意味で「ふたり」になることはできなかった。


 曇り空から明け方、雨が降った。体にあたる雨は心地よかった。ひと晩中、寒くて凍えていたのに。


 自転車にふたり乗りをして、すごいスピードで坂を駆けた。コンビニエンス・ストアに寄った。駐車場に停まる、二台のトラック。どんどん重なってゆく雀の声。空は東から少しずつ、夜の名残を脱ぎ捨てていった。今はもう、記憶にも遠いしののめ。



 ——大学を辞めようと思うんだ。


 晴れた日の涼しい日に、彼は言った。

 二回生の秋。

 辞めてどうするの、と聞いたら、困ったようにほほ笑んだ。信じられないことだけど、その表情ひとつで、私は何も言えなくなってしまったのだ。



 季節は六月になり、七月に移り変わった。

 くらくらするような暑い日。陽が沈む頃、夕焼けが空いちめんに広がっていた。夏の前触れのような空。早く起きだした蝉が、キャンパスのなか、どんぐりの木にとまって、ずっと鳴き続けていた。




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