ふるふる。
脳みそがとろけているのではないか・・・。
よしおがそういう疑念にとらわれたのは8月の一番暑い日の正午のことだった。
最初は暑さのせいで頭がおかしくなって、そんなことを考えだしたのだと思った。
しかしよくよく鏡で頭を見てみると、なんだか頭頂部が心なしか
ぐんにゃりしていて、恐る恐る触れてみるとなんとこんにゃくゼリーのような
弾力があるではないか。これは本当に脳みそがとろけているのだ・・
よしおは不幸にもそう確信してしまった。
「こうなってはもういてもたってもいられないぞ・・病院に行かないと。
ここらへんにどんな病院があったかな?市民病院は適当そうだし、
大学病院なんてもっと危なそうだ。こじんまりした個人でやってるような、
そういう病院の方がこういうややこしい問題には
かえって丁寧に対応してくれるかもしれない。」
そういうわけでよしおは家から8キロぐらい離れた山の手にある
ぼろい病院・・医院にやってきた。
聴診器を持つ手が小刻みに震える、よぼよぼのセミリタイア内科医の顔が
脳裏に浮かぶような、そんな状態の玄関を通り抜けると、
案の定待合室には人っ子一人いなかった。
よしおはさすがに他の病院に行こうかなとも考えたが、
頭頂部のこんにゃくゼリー状態はすでにおでこのきわの方まで広がっていたし、
このまま8キロの道を引き返して家まで戻り、
そこからさらに3キロ反対方向に自転車を走らせながら、どんどん顔の方に
侵食していくこんにゃくゼリー状態で顔をぷるぷるさせて
道行く人の好奇の視線を浴びてまで、そういうことをするよりかは、
どんなひどい結果になるにしろ、とりあえずここで診察を受けたという事実を
作って置いた方がメンタル的に有益だと思って、
60歳ぐらいの受付の物憂げおばさんに促されるまま、
即座に診察室に入った。
診察室はおそらくこの自宅兼医院の中で一番広い部屋なのだろう、
部屋の奥には2階への階段と、おそらく家族がいつも使っているに違いない、
洗面所へのドアが見えた。
その前にベッドがひとつ置かれていて、ベッドの横に医師の机が置いてあった。
そしてそのベッドで寝ているチューブまみれの瀕死の老人こそが、
この医院の家計を支える働き手、ミスター・セミリタイアなのだった。
それを見て、よしおは後悔が猛烈な勢いで脊柱を走り抜けるのを感じた。
『どうやら机の上においてあるレントゲン写真はこのじいさん自身のものらしいぞ。』
それでもいつの間にか背後には物憂げ受付嬢が、このまま帰すわけにはいかんとばかりに
扉の前にふんぞりかえってこちらをにらんでいるし、
チューブまみれじじいもようやく患者の存在に気づいてロボットダンスじみた動きで
体を起こし始めるし、こんにゃくゼリーは眉毛の上までやってくるしで、
もはや状況が帰ることを許さないものとなっていた。
「あ・・え・・・と・・・座って・・・くださぁい。」
妙に間延びした、ヘビースモーカーじみたかすれ声がじいさんの空洞から漏れた。
じいさんは無表情で天井の蛍光灯あたりをじっと凝視しながらベッドのふちに座り、
よしおを呼んだ。患者用のイスはなかった。
よしおは仕方なく空中イスでじいさんの前に座った。
「あ・・え・・・と・・・どこがぁ・・・悪いんですかぁ・・・?」
「頭が。。すごい・・さっき昼ごはん食べ終わったあたりから
脳がとけるんじゃないかって気がし始めて、それで頭を触ってみたら、
・・わかりますかね?ここですけど・・(じいさんがよしおの頭頂部を撫で始める。)
なんだかこんにゃくゼリーのように、頭蓋骨が無くなってるような、
圧力鍋で炊いた豚の軟骨みたいになっているでしょう?
これでどうすればいいのかなって。」
「あ・・ほんとだ・・ふるふるだぁ・・。」
ようやく診察らしくなってきた。ふとうしろを見ると物憂げおばさんは鼻くそをほじりながら
自作と思われる韓流スターのスクラップ・ブックを眺めていた。
じいさんはさっきまでとはうって変わった真剣なベテランの医師の目つきで
よしおの頭頂部を診察している。俺の考えは間違っていなかったかもしれない。
よしおはそう思った。
じいさんが肩にかかった邪魔なチューブを払いのけながら、質問を始めた。
「年齢はぁ・・何歳ですかぁ・・?」
「29です。」
「職業はぁ・・何をしてらっしゃるのですかぁ・・?」
「ビル清掃やってます。」
「こんにゃくゼリーはぁ・・お召しになりますかあ・・?」
こんにゃくゼリー?何が関係あるのだろう。
「え。まぁ、安売りしてたら買うときがありますね。」
「ああ・・そうですかぁ・・精神病院行ってください。」
じいさんは最後の言葉に心なしか力をこめて言い放つと、
何もなかったかのようにベッドに戻り、よしおが目をぱちくりさせている間に
布団をかぶって寝息をかきはじめた。
精神病院?いったい何のことだ?
この頭の感触が俺の幻覚だとでも?
もうまぶたの上の肉すれすれまで、こんにゃく畑になってるんだぞ?
よしおが文句を言おうと口を開いたそのとき、待ち構えていたように
物憂げおばさんが叫んだ。
「お帰りください!お帰りください!お帰りください!」
なんてこった。物憂げおばさんは鼻くそのついた方の手でよしおの服をつかむと、
強引に医院の外まで引きずり出した。
その力が予想外に強かったのでよしおはバランスを崩して、地面に転げた。
そのときのことだ。よしおはたしかにその頭のゼリーの弾力によって、
転倒の衝撃を緩和したばかりか、その衝撃波の波紋が、
頭のなかいっぱいに、水溜りに雨だれが落ちたときの波紋のように、
トンネルの中いっぱいに反響するエコーの響きのように広がっていくのを、
たしかに感じたのである。
『おれの頭はたしかにゼリーに違いない!』
それからよしおは懸命に受付嬢に自分が今感じたことを逐一説明して、
もう一度診察を受けたいと嘆願したが、受付嬢は精神異常者の言うことは
信じられない、といってそのまま玄関のシャッターを閉めてしまった。
こんにゃくゼリー感が眼球に浸透していくとても気味の悪い感覚のせいもあって、
よしおはうまく嘆願することができなかった。
こうなったら医大に行くしかない。
よしおはそれから20キロ自転車を走らせ、高架沿いにある医大付属病院に入った。
そして長い長い待ち時間を耐え、ようやく首がゼリー化し始めたあたりで、
受付に呼ばれて診察室に入った。
今度の医師は信頼できそうな名医の風貌すら感じられる、長身の痩せた女性だった。
「どうされましたか?」
「この首から上を触ってみてください。ゼリーみたいになっているでしょう?」
よしおはすべてを省いてとにかく女医に顔を触らせることにした。
女医はしばらく彼の顔を触って、ふと怪訝そうな顔をして彼の顔を覗き込んだ。
「どこにもおかしいところはありません。」
「うそだ!」
よしおは思わず叫んだ。こんな信頼できそうな医者までNOと言うなら、
俺は確かに精神病院へ行った方がいいに違いない。
落ち着きを取り戻して、今度はちゃんと一部始終を説明して、
もう一度異常はないか調べてくれと頼んだ。
女医は期待に応えようと懸命に診察してくれたが、ついに異常は見つからなかった。
「もしお時間があるようでしたら・・こういう病院がございます。」
『大山田精神病院』の、名刺。
よしおはもう半狂乱になって病院を飛び出した。とんだ時間の無駄だ。
こんにゃくゼリーはうなじまで広がっていて、首はもうたぷんたぷん、
何をしなくてもゆらゆらしているし、いきなりぼとっと地面に落ちたって、
何の不思議はない。
ここから最後の病院までは10キロあるが、そんなことをしている場合か?
また精神病院といわれるに決まっている。だからいかないことにした。
ではどうする?精神病院まで行くか?最寄の精神病院は県境を越えないと現れない。
そのころには腰までゼリーになっているだろう。そうなったとき歩ける自身はない。
無理だ。帰宅しよう。
家についたころにはあたりはすっかり夕暮れで、
日差しもほんのり和らいで、涼しい風が時々吹いていた。
よしおは部屋へ閉じこもるなりクーラーをガンガンかけて、
冷凍庫に頭を突っ込んだ。ゼリーなら固まるはず、
それでゼリー化も食い止められるはず、そう思ったのだ。
しかし冷凍庫のなかが生温かくなっただけで、ゼリーは固まらなかった。
ふと鏡のほうへ目をやって、よしおは人生最大の衝撃を受けた。
今まで気がつかなかったが、ゼリー化した部分は色までゼリーと化していた。
つまり、半透明な、薄緑色に。目や髪の毛といったものは掘り込まれた
輪郭のようなものになっていて、白色や黒色は失われていた。
とにかく一面薄緑色と、そこに注がれる光の反射の光沢に覆われていた。
「おれは本当にゼリーだ・・。くそったれのゼリーやろうだ。」
憔悴したよしおはとりあえずゼリー化の侵攻を把握するためにもと思って
おもむろに服を脱ぎ始めた。パンツも全部脱いで、きちんとたたんで脇に置いて
(そうすることで心の平静を取り戻そうとしたのである。)
もう一度鏡の前に居直った。やっぱりゼリー化していた。
ゼリー化はもはや上半身のほとんど1/2を占めようとしていた。
これまでかかった時間を6時間とするなら、全身まであと18時間、
つまり明日の正午にはこの場所にゼリーが横たわっているということになる。
なんて不幸なんだ。とよしおは思った。
それからふいに
「ああ、もう、こうなりゃヤケだ。」
と一声叫ぶと、風呂場からバケツ、台所からしゃもじを持ってきて、
自分をすくって食べ始めた。