出会い①
冷たい水が顔を覆う。鼻からは小さな気泡が、口からは大きな気泡が、それぞれがバラバラな軌道で水の中で少年の顔を避けながら空に昇っていく。
「せーの、もう一回!」という掛け声が何度も繰り返される。
その度に少年の顔から気泡が送り出され空に昇る。
そんなことを何度繰り返しただろうか。少年の記憶が苦しさ以外を思い出す事が出来なくなってもそれはしばらく続けられた。
「もう離しっ」少年の言葉はそれを行っている当事者の心には届くことはない。耳がそれを捉えても心は苦しむ少年を弄ぶことにいっぱいで少年の僅かな隙を見つけて叫んだ声を受け止めるだけの度量はないのだ。
結果としてそれが終わったのはチャイムの音がトイレに聞こえた時までだった。
当事者達は思春期の少年らしい甲高い腹の底から出した声で笑いながらトイレに横たわるそれを一瞥してそこから出ていった。
トイレに嗚咽が響く。顔から自分の物かそれともトイレの便器に張ってあった水か分からない液体を地面に落としながら少年は泣く。
ピチャッピチャッと鳴る音と少年の苦しみが一人だけのトイレを音で満たした。
それが始まったのは入学当初にまで遡る。校門をくぐり抜けた先にある掲示板前に一人の生徒が目立っていた。
艶やかな黒髪、白い肌相反する色を調和させる整った顔立ち。
「綺麗な人。」少年の口からはそんな声が漏れた。少年自身なんて平凡な感想だと思ったが彼女には余計な言葉がいらないとも思ったのも事実だった。
言葉を飾れば飾るだけ彼女の美しさには余計な価値が付きそうだったから。
彼女が歩けば周りの父兄も生徒も一斉に彼女を見る。テレビで議論されつくしたアイドルとは違うまだ何にも染まっていない綺麗な人。彼女を除く他の人が見るのも仕方のないことだった。
周りが急にハッとして再び掲示板の方に注目するのにそんなには時間がかからなかった。
少年もそんな周りの流れに乗り急いで掲示板を見てクラスを確認する。このクラス分けで最初のクラスを見た後に教室に向かって入学式を迎える。それが今日の日程だった。
やるべきことを確認した少年はクラスを確認して自分のクラスに入った。
あわよくば綺麗な人と一緒になれますようにそんな不純な思いも込めながら。
結果としてはそう上手いことはなくそこそこ綺麗な子はいるがお目当ての黒髪と白い肌を持った美人はそこにはいなかった。
教室のなかをざっと見回す。少しヤンチャが入った子から真面目そうなエリートから筋骨粒々のアスリートタイプまで満遍なく散らした感じだった。
どれか一つのクラスに問題が片寄ることのないようになっているのかも知れない。
「あのヤンキーみたいなグループには関わらないようにしよう。」
少年は心の中で呟きしっかりと決意した。
そうして周りを確認した後、担任と思われる教師が教室に入ってきた。
「この後、チャイムが鳴り次第皆さんには体育館に向かってもらいます。その際に自己紹介と学校の説明もしますので今は入学式の段取りだけ頭に叩き込んでください。」
いきなり自己紹介もなしで始まった教師の話は入学式の段取りに関する物だった。それ以外の余計な情報は全てそぎ落とした無駄のない説明だった。
それだけに少年はこの人で大丈夫だろうか、と不安を覚えた。
だが今はそんな事に思考を飛ばしている暇はなく教師の指示と説明に大人しく従うしか他なかった。
体育館に着いたとき少年は既視感を覚えた。艶やかな黒髪、白い肌。お目当ての少女がそこにはいた。
自分のクラスより二つ前。その位置は少女のクラスが一組であることを示していた。
前の列ということもあってか少女は注目を集めている。皆堂々と見ることはしなくてもチラリと視線を少女に向ける。そんな視線が集まれば当事者の少女でなくても気づくというものである。
そんな視線を無視して入学式は進行した。少年は呼ばれる自分の名前よりも少女の名前にばかり意識を集めていた。
「早く!早く!呼ばれろ!」
そう急かす気持ちが心の中でエコーする。だが入学式は一定のリズムを持って進み少年の思ったようには進まない。
やっとの思いで少年の願いが叶ったとき少年の舌は閉じられた口の中で何度も彼女の名前を呼んでいた。
「柊谷滴、柊谷滴。」
名前を知る。ただそれだけのことが少年には堪らなく嬉しくて仕方がなかった。許されるならその場で踊り出してしまうほどに彼女を知れたことがただ嬉しかった。