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黄昏倶楽部【橘雫篇】

作者: MAOちゃ

以前別サイトで掲載したものに加筆修正を行い掲載しました。

 昨日の夕方から雨は降り続いている。

曇天から細かい霧状の雨が、気まぐれに吹く風に揺られながら落ちて行く。

日付の変わった今も降り止む気配はない。

「今日もまた雨ね」明日の仕事に着ていく服のことを考えて、苦笑した。

「今日、会社は辞めてきたんだったっけ……。」

明かりをつけないまま、カーテンを開ける。帰り道の雨と変わらぬ雨が静かに降っている。

橘雫は、窓の外を見て笑った。「まるで私……。」

 柔らかく降り注ぐ雨は誰かを愛し続けることに似て、風という気まぐれな力に翻弄される様は、人の運命そのものに思えたから。

雨は一途に、降ることだけをまっとうする。いずれ地に消え空へ帰るにもかかわらず、だ。

「私が馬鹿なのかもね」そうつぶやき、深いため息をつく。

 机の上に置いたノートパソコンの電源を入れる。ジーという静かな震えとともに、画面が青くなる。

電気をつけていない部屋ではパソコンのモニターの光がまぶしい。キーボードに置いた手が青白く浮き上がる。

一人にしては広い部屋。この部屋には思い出があるだけに離れがたいと思って住み続けているが、その広い部屋に一人であることも雫の虚無感に一層の拍車をかけている。

 ノートパソコンがインターネットに繋がったことを確認すると、毎日目をとおすホームページを表示した。そのホームページは誰もが書き込める掲示板と呼ばれるものが設置され、それぞれの話題ごとにトピックと呼ばれるタイトルが分類されている。

この掲示板は現実の中の虚構の世界。

ホームページを見ている誰かは同じようにパソコンの前にいるけれど、ふだん口にできないような誹謗中傷も顔の見えない相手には書き込むことができる。

汚い言葉も、相手が見えない画面では落書きのように書き込めるのかもしれない。

読むことで胸を痛める相手のことを考えることもない。書いている人は考えようともしなくなるのかもしれない。誰がみていようと、いや、誰がみているかわからないからこそ無責任に好き放題書き込むことができるのかもしれない。

掲示板に書き込まれた文字を読むのは、しょせん他人でしかないのだ。

 雫はトピックの分類を斜め読みした中で、その一つに目が吸い寄せられた。


『死にたいです』


あぁ、このトピックを立てた人も同じような状況なのかもしれない、とトピック名をクリックする。

 『死にたい』という気持ちは雫も同じだった。死にたい、と思っているのかと言われれば疑問だが、生きる気力がないのだ。生きる意味を見いだせない、生きる気力がわかない、それならば生きている意味がない。残るのは死に対する憧れだけでしかない。

おそらくこのトピックの主も同じなのだろうと思う。

死にたいとトピックを立てた主はどうやら女性らしい。その理由と思しき情報が感情的であるためになぜ死にたいのかが読み取れない。ただ、死にたいのだとはわかる。約1ヶ月前に立てられたトピックだった。

「うまく言葉にできないのね」一人呟く。現実に希望を見いだすことのできないことはありありと伝わってくる文章ではある。希望を見いだせない人が見つめるのは絶望だけだ。目の前に大きな穴が空いていて、底の見えない暗闇にたじろいでいるうちにいつしか暗闇への誘惑に魅入られる。

それが死に対する憧れなのか、一つの希望なのか、そんなことはどうでもよいのだ。

ただ、少なくとも今の状況が変わる……どんな形であろうとも、変わる予感はしてくる。

希望の見えない状況では、今の状況が変わるということが希望にすり替わる。

そんなことを考えながら読んでみると、トピックを立てた主に対しての書き込みは辛辣なものだった。

興味本位で書き込んでいる者、ふざけた書き込み、死ぬことを煽る内容とさまざまだった。

中には同情し、悩みの解決に手を差し伸べようとする者もいるようだが、相手が見えないからこそ相談できるという反面、相手が見えないからこそ信用できないという心理が働きもする。

 トピック主の書き込み一つに対して、かなりの書き込みがされている。

そうして、3週間ほどした段階で、トピック主の書き込みが一つだけあった。


『さようなら。』


この日の書き込みを境に、トピック主の書き込みはなくなっていた。なんだか嫌だな、と思った。

 「はぁ。」思わず出てきたのはため息だった。目が疲れる。電気をつけた。

外の雨は相変わらず降り続けているらしい。

 パソコンの前に戻り、画面に目を戻す。

 数日を経て、さまざまな書き込みがなされた最後に、『こいつなんじゃね?』と書かれた文字の下にホームページのアドレスが掲載してある。

 予感というものは、あながち馬鹿にできないものだと思う。

新たに開いたホームページは新聞社からのニュース記事で、

『電車に飛び降り。14歳女子中学生自殺』

とあった。遺書らしきものが残されており、あまりにも陰湿ないじめに対して感じた絶望を書き綴っているというような内容のものだった。

「死んじゃったのか」言葉が出てくる。そうして、なんとなく、掲示板に書き込む。

 ハンドルネームと呼ばれる名前は[乱丸]としてみた。

特に意味はない。ただ、落ち着かぬ心がその名前を選んだ、そういう感じだった。


『4月15日01:15 乱丸[私も死にたい]』


書いてみて、ため息をついた。なぜ書き込んだのかと思うし、書き込んだからどうなのだろうと思う

反面、何かに期待している自分もいる。

画面に文字が映しだされる。

名無し[手首切れば?死ね死ね死ね~]


「そう思うものなのかもね」と呟き、視線を手首にうつす。左手の手首に赤く傷痕がついている。「もう、試したわよ、それくらい」


乱丸[リストカットで死ねなかった]


ふと、書き込んでみて冷静になった。ため息しか出てこない。誰も私を救ってくれる人はいないことがわかっただけよかったのかもしれない。他人からのひどい言葉が次々と書き込まれていく。

十人ほどの書き込みの後、雫の目がとまった。


生神[生きてればいいことあるかもしれないよ?]


「死を望む者に対して書き込むにはハンドルネームが皮肉よね」と苦笑する。

「生きる、神。これはおふざけなのかしら?」と画面にむかって呟く。


名無し[死ね!生きていたくないなら死ねばいい]

名無し[痛いの当たり前。死にたいなら電車に飛び込めばいい。]


好き勝手に書かれた文字が出てくる。「まあ、そう思うのが普通なのかもね」と

なんだか妙に納得しながらも「いいことがあるってどんなことよ?」いつの間にか言葉にしている。


乱丸[いいこと……もうなにもないわ]


そう書いておきながら画面に目が吸い寄せられているような気がした。

生神からの返信を待つ自分がいる。


生神[乱丸さん、聞いたことあるかな?噂なんだけど……]


「噂……?」眉をひそめる。


乱丸[……なに?]

生神[深夜2時に新宿のゴールデン街に黄昏倶楽部っていう会員制のバーが現れるって話。]

名無し[都市伝説だ~!おもしれえ!!]

生神[なんでも、本気で死にたい人はそこにいくといいらしいよ?]

名無し[なになに?殺してくれるのかな?]

名無し[面白いねー!]

名無し[なんだそれ?煽りたいんじゃね?]

生神[乱丸さん、そこに行ってみたら?]

名無し[俺も探してこようっと]

生神[本気で死にたい人にしか見えないらしいから、あくまでも噂だけどね]

生神[死にたいと思っているなら、だめもとで行ってみたら?]


「黄昏倶楽部……どんなバーなのかしら。」言葉、語感、耳障りに妙な親近感を覚えた。

雫は、何も考えぬままいつしかキーボードを叩いていた。


乱丸[……行ってみる。そんなに遠くないし。]

名無し[報告待ってるよ~!あ、死んだら報告できないか。ひゃひゃひゃ。]

生神[行ってみたらいいよ。悩んでいるなら。]


なぜだか「行かなくちゃだめだ」と思い込んでいた。時計を見る。

深夜の1時20分、あと40分もあればゴールデン街には着けるだろう。

七分袖のTシャツに着替え、ジーンズに履き替える。ジャケットを羽織るようにして、家を出た。

 色とりどりのネオンとさまざまな格好の男女、年齢もバラバラで夜中だというのに街は賑わっている。

靖国通りから区役所通りに折れて少し歩いた右手にゴールデン街の看板が見えた。

 誰かの本に、眠らない街とか不夜城とかってあったけど、そのとおりだわ、と妙に感心している雫がいる。

 とりあえずゴールデン街と書かれた看板の下へ向かう。すぐ行き止まりで左側の路地にもゴールデン街という看板がある。

 狭い路地、どんなスペースさえも無駄にはしないという意気込みを感じさせるような間隔で店が並ぶ。

少し先に、緑地に黄色い文字で[黄昏倶楽部]と書いてある小さな看板が見えた。おそるおそる近づくと、真っ黒なドアに白いくて小さなプレートで[会員制]と書いてある。こんな簡単に見つかるなら、誰かの話から噂だけが一人歩きしたのかもしれない。会員制であるなら誰でも入れるわけではないし、店の中がどうなっているかなんて確かめようがないからだ。

「なんでこんなところに来たのかしら」そう呟いて苦笑する。それだけ私は神経を擦り減らしているのかもしれないな、とも。

 会員制の文字は、まるですべての人を拒絶しているかのように感じられる。

「噂はしょせん噂よね」口に出して会員制の文字を見ると、急にこの黄昏倶楽部が怖いと思えてきた。生きていることに疲れ果てて、いつ死んでもいいと思い始めていた。電車に飛び込もうとしてみたけれど、車両故障で電車は来なかった。死のうと思って手首を切ってみたけれども、母が部屋にきたときと重なって救急車で運ばれて死ねなかった。もしかしたらと深夜の一人歩きでここにきてみたものの、交通事故にもあわず、通り魔にも強盗にもあわなかった。

死ぬことに何の恐怖も心の痛みも感じることはなかったのに、それなのに、この店が怖いと思える。

そしてその思いは胸の内でどんどんと大きく膨らみ始めるのだ。


「離れなきゃ」そう口に出す。不安なんだ、と自分で認識する。鼓動が高鳴る。

怖くて、すぐにでもここを立ち去りたいという気持ちと、ここに入れば死ねる

という考えが本当なんじゃないかという予感との狭間で、雫の足は震えていた。

脳が、ここに入ることを望んでいるかのような、そんな錯覚に陥っている。

ここに入ることが、怖くてもうだめだと思った刹那、門扉が開いた。

ゆっくりと開いた門扉の中からは、長身痩躯で漆黒とも思えるスーツを着こなした、ギリシャ彫刻を思わせる整った顔立ちの男性が現れた。

茫然としている雫の目と男の目があった。

「終わりがきた」それが脳裡に浮かんだ言葉だった。

 何もかも見通されているような切れ長の目に透き通るような白い肌、赤みのある唇に整った顔のその男の、唇が動く。思わず魅入っていた。

「そろそろだと思っていました。橘雫様ですね、さあ、お入りください。」

穏やかではあるが、何か強い力をもった声だった。

「あ、あの、私……。」雫はそれだけを言うのが精一杯だった。喉がカラカラに乾いている。

「どうぞ」という男の言葉で、身体が門扉の方へと歩き始めるのだった。入るのが怖いと思う意識とは反対に、肉体は入りたがっている、そんな感じだ。

精神と肉体の乖離ともいうべき戸惑いのまま、促されるままに中へ入る。

 店はカウンターのみで椅子が四脚、それだけだった。普通のバーとしか思えないのに、鼓動は高鳴るままだった。

 美しい女のバーテンダーがカウンターの中でグラスを拭きながら雫を見もせずに「ようこそ」と言う。

壁には奇妙な模様が掘られた木材の装飾で、全体的に薄暗い。照明は間接照明で、ところどころを赤い光で照らしている。


なんだか、懐かしい場所に来たように雫は思う。鼓動はゆっくりになっている。なんだか、子供の頃のことを思い出したような錯覚に陥っていた。

「そうですね、あなたにはこれをお飲みいただきましょうか。」男の声で我に返る。

雫の目の前に置かれたカクテルグラスは見たことのない色合いのものだった。

「あ……きれい」思わず口から言葉がもれる。

「ここは、現実に打ちのめされた方だけに入店が許されるバーです」と男が微笑む。そして、と言葉を続ける。

「私には、この世の中のことを見渡す目があります。あなたのことも、あなたの彼のことも、存じ上げています。」

「私……」そうか、やっぱり現実に打ちのめされていたのは私だったのね。そう思うと妙に納得できた。

 この世を見通す目があるなどという荒唐無稽にも思える言葉も、この男と目があったときに感じた感覚が説得力をもって雫の腑に落ちた。

「カクテルの色合いが美しいでしょう?そのカクテルは、あなたに関わる方のこれまでの人生を形にしたものです。」

女のバーテンが言う。感情のこもっていない、冷たい声。雫の気持ちが少し萎えた。

「レーズンが入っているなんて珍しいですね……これは、なんていうカクテルなんですか?」

「このカクテルの名前は……北村啓輔、あなたの愛している彼の名をいただいたカクテルです。」男が言う。

「彼の名前……。」

「ええ、あなたの彼のお名前です。一口飲んでみてはいかがですか?」

促されるまま、雫は口をつける。

 雫の目に北村啓輔と過ごした日々が蘇る。啓輔の言葉、匂い、温もり、幸福感がフラッシュバックのように思い出された後、現実に戻された。

「懐かしかった何かが……甘くて、でもほのかな酸味があって、美味しい。」

涙が零れ落ちたことに気づいたのは、テーブルを見てからだった。

雫の様子を見て男は「何があったのか、あなたの口から聞かせていただけませんか?」

唐突に、そう言って続けた。「あなたから見た世界を……。」

 男の顔を見た刹那、雫の頭になにかが弾けたような音が聞こえた。錯覚なのかもしれない、それでも、考えとは別に体は反応した。

「……死にたいんです」口をついて出て来た言葉だった。

 ありありと蘇った啓輔との思い出は、今の雫にとって過去のものだという認識を色濃くさせただけでしかなかったし、それは過去はもう戻らないという当たり前の事実を雫に突き付けたことでしかなかった。

絶望を前にして、死が希望に思えるのはこの一年間の雫の思考そのものだった。

記憶は、幸せなものであればあるほど心の中に大きく残る。だからこそ、その記憶が思い出として昇華されるには時間を必要とするし、それに変わる何かを必要とする。今の雫には、その記憶の変わりになるようなものは、何も見つからなかった。見つかったことがあるとすれば、それは死への渇望だけだった。

男が口を開く。「死にたいと思っていることは存じ上げています。だからこそ、このお店に入ることができたのですから。」

女のバーテンが微笑んだ気がした。なんだか嫌な気持ちになった。

「……そうでしたね。なんでもお見通しなんでしたよね。」雫は、ごくごく当たり前のようにそう思った。それが本当であれ嘘であれ、どうでもいいことなのかもしれない、と自分自身を納得させたいのかもしれない。どのみち、ここまできて今さら隠すことは何もないのだ。だからこそ、自分の言葉で記憶を語ろうと思った。

 静寂にも音があるんだな、そんなことを思いながら雫はカクテルへ目を向けた。

「私には、同棲していた恋人がいました。もう6年も付き合ってきて……結婚の話まであったんです。」


 不思議なことに、さまざまな映像が脳裡をよぎる。


 二階建てのアパートには、一階と二階に二部屋ずつで四部屋しかない。その代わりに一部屋あたりの広さは広めで、同棲するには広すぎず狭すぎずといった案配だった。同棲することになって、二人で決めたアパートだった。

二階の部屋のドアには[北村・橘]と表札をさした。「なんだか新婚みたいな気分なのに、名前が二つあるのも変な気持ちだわ」言葉にしなかった雫の言葉。


 引っ越して二週間が経つ頃まで荷物はなかなか整理できなかった。二人とも働いていたから。

 荷物の整理が終わり、雫のセンスで装飾された部屋はなかなかだ、と啓輔が言ってくれた。ダブルのベッドを注文して、支柱にレースの飾りをつけてみた。「なんだい、これ?」啓輔が言う。

「女性はお姫様に憧れるのよ。」苦笑いする啓輔がとてもいとおしかった。


 その日の月は満月だった。

ベッドの中で「今日は満月なんだぜ」と言う。

「そんなこと知っているわよ。」にべもなく答える。

「満月ってのはさ、人の心を誘惑するんだよ」啓輔が言う。

「犯罪が多いってことは聞いたことあるわね」

「そうだなあ、俺も満月の力に誘惑されていいかい?」

「なにそれ?」

「あぁ、うん、そうだなぁ……」

「なあに?」

「ああ、その、今さらかもしれないけれどさ……俺と結婚しないか?」

「馬鹿!」嬉しくて、でもなんだか照れくさくて、啓輔のわき腹をつねった。

「いてててて!」

精一杯の笑顔でうなずいた。


 ベッドの中で雫は啓輔にもたれている。

天井を眺めていた啓輔が雫の頭を優しくなで、長い黒髪に指を遊ばせる。

 雫は、行為の後のこの穏やかな時間が好きだった。膝の上で眠る猫がなでられているとき、猫も同じような安らぎと心地よさを感じているのかもしれない、そんなことを考えているとふいに啓輔の手がとまった。

「なぁ、結婚ってどんなもんだろうなあ」漠然とした質問。

「たぶん、このまま二人が幸せにいられる魔法の言葉よ。でも中身はなにもかわらないのかも……」雫は啓輔の手を自分の頬に引き寄せると、指先に唇をそえた。大きな手だ。そして、柔らかくて温かい。

「挙式は……」いいよどむ啓輔。

啓輔の顔を見ると眉間にしわを寄せて、どこか一点に視線をやったままだ。

まるで何も見ていないような目をしていたが、すぐに表情はいつもの柔らかな顔に戻った。

「6月よ。私がジューンブライドが良いって言ったら賛成してくれたじゃない。忘れないで。」

「あ、あぁ、そうだな。まあ、忘れちゃいないんだけど……もう少しだけ、先にしてみないか?」

「なによ、今さら。だめ、他の女にうつつなんかぬかせはしないからね。」と雫は啓輔のわき腹をつねる。色が白くて、少しだけついた贅肉が柔らかい。

「浮気なんてしないよ。雫だけだ、見えているのは」啓輔は鼻の頭をかいている。考えごとをしている時の啓輔の癖だ。本人は気づいていないらしいので、雫はそれについて触れないでいる。

「へえ、そうなの?でももう、寝ましょう」意地悪く言ってみる。

「へそまげるなよ……。俺は雫だけを愛しているんだ」啓輔の困ったような顔も愛おしい。幸せだな、そんなことを思う。

「じゃあ、おやすみのキスをして。」戸惑う啓輔の顔。「早く」と急かす。啓輔との軽い口づけ。唇と額に。

「ああ、そうだ。俺、ちょっとだけ調べ物して寝るから、雫は先に寝てて。」

「うん、ほどほどにね」

雫はパソコンの方へ歩いていく啓輔の背中を見て、幸せな気持ちで眠りへとおちた。



 カウンターの中で女のバーテンは照明にグラスをかざし、雫の話に耳を傾けている。

「朝、起きたら彼の姿はなかったんです。寝る前の会話が最後で、それ以来、彼は帰ってきませんでした。ベッドに飾ってあった私と彼の写真がなくなっていたことに気づいたのは、それから数日してでした。私は、捨てられたんです。結婚することになって、彼は、逃げたんです。もしくは私に愛想がつきたのか、他に相手がいたのかはわかりません。でも、もう私たちの部屋には戻ってこなかった……」

瞳に涙が浮かぶ。

「彼のご両親にも電話しました。だって、婚約していたんですよ。でも『あなたの知る啓輔はもういない』としか答えてくれません。会いに行ったときも『もう忘れて下さい。あなたはお幸せになって……』と。私には彼のことを知ることも出来なかった。そうして彼がいなくなってから、なんだかもう、なにもやる気が起きなくなりました。手首を切って、死のうとしたけど……。彼に捨てられて、一人じゃ不安で、死のうにも死にきれず……笑っちゃいますよね。」

涙が頬をつたっていく。

「でも、彼がいなくなってから結構考えたんですよ。なにが原因だったのかとか、あのときこうしていたらとか、考えて考えて、悩んで。でもね、いくら考えても、悩んでも、仮に答えが見つかったとしても、もう啓輔は私の隣にはいないんです。」

テーブルに滴ができた。

「そんなときでした。なんとなくパソコンでネットサーフィンをしていました。相談にのってくれるという方もいました。でも、相談したところでなにも変わらないんです。なんとなく安心して、でもすぐに後悔するんです。啓輔がいないのにって。いつからか私が……私が死んだら、私は変わるんだなあってことしか頭に浮かばなくて。そうしたらさっき、このお店があるって知ったんです。なんだかわからないまま、今私はここにいるんですね……どうしようもない女なんです。」

男が口を開く。「とにかく楽になりたかった、そうだったんですね」

雫は頷いて、カクテルを一口飲む。「あら、レーズンってこんなに小さかったかしら?」

カクテルの中のレーズンが小さくなっているように思えた。

 答えるかわりに男は口を開く。

「あなたの彼はもうこの世にはいない、としたらどう思いますか?」

死んだ?という言葉が雫の脳裏をかすめる。

「し……死んでるんですか?いえ、啓輔は……たぶん私に愛想がつきただけですよ。」死んでいるわけがない、そう思いたかった。死ぬという言葉すら脳裏から消そうとした。でも、雫の頭の中から死という言葉は消えそうになかった。

カクテルを一口ふくんだ。

 男は目を細める。

「そう思うのはあなたの自由です。では、ひとつだけ、悲しい事実を教えてさしあげましょう。」

「……事実?」いぶかしげな表情の雫。

「ええ、事実です。」

逡巡している雫が声を震わせる。鼓動が高鳴る。

「なんですか、事実って……。」。

「あなたの知っている彼は、もうこの世にはいません」男は雫を見つめる。

「まさか……死んで、死んでしまったんですか?!」

「いえ、まだ生きてはいます。でも、まもなくお亡くなりになります。」

「ど、どういう冗談なんですか?!」カウンターを叩く。手の痛みで少し冷静になる雫。「……す、すいません」

「冗談にしていい話題とは思えませんが?」男は切れ長の目を細めた。

「あ、ええ、そうですけど……でも」

雫の胸に不安が広がる。すがるように女のバーテンに視線をうつしたが、無言で首をふる。

「彼は、家に帰ってこなかったのではなく、帰ってこれなかったのです。」

瞬間的に言葉の意味を理解できなかった。

「帰ってこれなかった?」それだけを言うのが精一杯だった。

「はい・・・彼はあなたのことも覚えてはいません。アルツハイマー型認知症という病気をご存じですか?」

「アルツハイマーってたしか、記憶……障害?」

「ええ、そうです。彼は、すでにあなたの知っている彼ではありません。すべてを忘れ、今では日常生活さえもままならない状態です。あなたがご挨拶に行かれた彼のご両親も言ってはおられませんでしたか?[もうあなたの知っている彼は、いない]と……。彼は、体の異変にも気づいていました。結婚の延期の話もしていましたよね。」

「私は……」雫の身体が震えている。

「ええ、お心当たりはありますよね。彼は、消えて行く自分の記憶の中で、あなたのことだけは忘れたくなかったのです。だから、写真だけを持つことにしました。その写真は今も、彼が入院しているベッドに飾られていますが……もうまもなく彼は事故でお亡くなりになります。」

「事故……事故って……病院なのになんでなんですか?!」

雫の中で混乱している。

「彼は記憶が戻るのです。とはいえ、あくまでも一時的でしかありません。彼は病院を抜け出し、不運なことに車にひかれてしまいます。」

「なんとかならないのですか?!」雫は男と女を交互に見る。女がゆっくりと首を振る。

「……残念ながら、人には寿命というものがあります。あなたが死ねないのは、まだ寿命が残っているからです。そればかりは、誰にもどうすることもできません。あなたは、彼の分まで生きなければなりません。新しい一歩を、自分で踏み出さなければならないのです。」

 カウンターの女はグラスを磨いている。

雫は両手を握り締め、祈るようにつぶやいた。「でも……」

男は照明を見上げる。色白の顔が赤く照らされる。

「戸惑うのはわかります。でも、踏み出すことがあなたに定められた道なのですよ。」

「信じたくないです、彼がアルツハイマーで入院しているとか、これから事故で死ぬとか、そんなこと、あるなんて思えるわけないじゃないですか?!」

男は雫の方を見る。

 沈黙が流れる。

「信じられないという気持ちもわかります。受け入れることは怖いことです。しかし、人にとって運命とは予期せぬものであることもまた真実なのです。今、ここであなたが生きていることは奇跡でしかありません。なぜならあなた方、人という生き物は自分の寿命を知らないからです。本来的には死はすぐ隣に寄り添うものであるにもかかわらず、その存在から目を背けている。背けているからこそ、突然の死に対して混乱する。」

雫は押し黙ったままでいる。死から目を背けているからこそ混乱する……。

その言葉の意味を考えていた。

「私は、死ぬことを求めていました。それは死から目を背けていることになるんですか?」泣いていた。弱々しい声だった。言葉として、男に伝わったのかどうかも雫にはわからなかった。しかし、男は口を開く。

「そうですね、雫様。あなたは死を求めていた。しかし、それは死を見つめていたわけではありません。死が隣り合い、寄り添っているということを自覚していれば、自ら死ぬなどという選択肢がでてくることはないのですよ。」

「え?」雫は男を仰ぎ見る。

「だってそうではありませんか?あなた方、人間は寿命を知らないだけで不死ではないのです。いつかは求めずとも死を迎えなければならない存在なのです。いずれ死ぬ生き物であるからこそ、どうやって死を迎えるかが本当の意味で死に目を向けるということになるのではありませんか?」

「私が……。」

「ええ、あなたは死を求めていたのではなく、すべてを放棄しようとしていたにすぎません。その選択の先にたまたま死という、人間にとってあいまいなものがあったというだけです。現状を変えるものであれば、とりあえずは何でも良かった……とも言えるのです、冷たい言い方になりますが。」

「でも、私はどうしていいのかわからないのです」

「顔をあげてください。そろそろ時間がきてしまいます。」

 雫は、ひどく疲れたような気がしていた。それはまもなく啓輔が死ぬという、現実になるという出来事への当惑だけではない。絶望の末行き着いた死への憧れへの揺らぎを受け入れるかどうか、この目の前に立つ人物が人であって人ではないという、当たり前ではない事実の前にいるのが自分であるという、ありとあらゆる不可解さへの混乱が原因だった。混乱した頭で、雫から声になって出てきた言葉は「あなた方はいったい何者なんですか」だった。

 男は左手を右腕の肘にもっていき、右手をあごの下へやると呟いた。

「私たち、のことですか……」

 バーテンの女はゆっくりと雫を見つめ、手に持っているグラスを置いて口を開く。

「私たちは、死そのもの。死であって生であり、その生の行き着く死でしかない。」冷たい声だった。男は、「そうですねえ」と間の抜けたように呟き、

「死神、と言えばいいのでしょうか」

雫はその言葉の意味が一瞬、わからなかった。

「雫様、あなた方は死神という存在を、死を司る存在として考えていますね。私たちは、あなた方の世界でいう死神そのものです。しかし、死を司るわけではありません。」一呼吸おく。

「それは死が寿命によって決められるからということもあるし、なにより私たちの存在そのものが死である、ということだからです。私たちが死そのものなんです。」

雫にはよく理解できなかった。ただ、死だから生の形をしているんだと思った。なにがなんだかわからないなりに、死が形を持っただけという解釈をすることにした。

「啓輔は、本当にしななければならないのですか?」雫は、懸命に考えようとしている。

「さきほど、お亡くなりになりました。」

雫の世界から、すべての音が消えたような気がした。[啓輔が死んだ]その言葉がいくつも折り重なるように雫の思考を埋めていく。

「し、死んだ……?」

「……残念ながら。」男の声が地に吸い込まれるように低くなった。

「雫様、私は北村啓輔様の記憶をあなたには忘れて欲しくないのです。彼の生きざまを身近に見、感じ、同じ時を過ごしてきたあなただからこそ、そう思うのです。」

「忘れられるわけない。」涙声を振り絞った。

「えぇ、その言葉を待っていました。あなたの愛した北村啓輔様とのお別れをするためにも、あなたにはそのカクテルを飲み干して欲しいのです。」

なぜ飲む必要があるのかわからなかった。そう思うと、「それがあなたの記憶だからじゃないの」バーテンの女の声が聞こえた気がした。そうなんだ、と妙に納得している雫がいた。

「飲む……べきなんですよね。忘れないために飲む、ということですよね?」

「いいえ、忘れないために飲むのではありません。あなたが新たな一歩を踏む出すために飲んで欲しいのです。」

「私は……。」

「さあ、お飲みなさい。私は……あなたには、彼との記憶を覚えていて欲しいのです。彼のことを覚えていてあげられるのは、あなたしかいないからです。彼の生きざまを、彼が生きていたという記憶を、心に染み込ませてください。」

 雫は、カクテルを見つめる。カクテルに手を伸ばし、グラスの周りをなぞる。瞳を閉じ、思い切って飲む。

 男が目を閉じ、頷いた。空になったグラスの中に、レーズンは見当たらない。

「あれ、レーズン、なくなってる……なんだか、眠く……なって……き、た」

「雫様、ゆっくりとお休みになられてください。あなたの心のわだかまりが、そのレーズンだったのです。あなたが目を覚ましたときに新たな一歩は始まります。その手首の傷があるとこれからなにかと不便でしょう。これは、本日お越しいただいた雫様への私からの贈り物です。」

男が眠りに落ちた雫の手首に手をかざす。傷は赤みを消し、ただの切り傷に戻り、やがてきれいに消えた。

「では、しばしおやすみなさい。素敵な夢と時間を……」男はそう言うと雫のそばから離れ、奥にある古びた扉の方へと向かった。

女のバーテンが口を開く。

「雫さん、立ち直れますかね?」

「立ち直れるでしょう。彼女は、彼を失ったこの一年間を自分以外のだれかに当たり散らすことなく、自分の中で昇華しようと頑張ってきた、芯の強い女性ですからね。」

「人という生き物がみんなそうであったら、死神がこんなにこき使われることなんてないのになぁ。」

「それは言わない約束ですよ。これだけ世の中に人がいれば、多少のズレだって生まれますから。」


 目を開けると、光に包まれた場所に雫は座っていた。「まぶしい」つぶやく。

よく目をこらすと、足元は丈の短い草が生えている。どこまでも続いているようだ。

 柔らかな陽光のようにあたたかい光が気持ちいい。

遠くに動くものが見える。陽炎のようにゆらゆらと雫の方へと歩いてくる影。

「あ、きてくれたんだ」そう思った。

逆光で顔が見えないけれど、誰なのかはわかっていた。足元の影が雫の近くまで伸びてきた。

「啓輔!」思わず叫んでいた。が、声は嗚咽となり言葉とならない。

「やあ、雫。いろいろとありがとな」啓輔は、優しい瞳で雫を見つめる。

「なに言っているのよ!まだまだこれからじゃない!」雫は立ち上がろうとするが、うまく立てない。

「ごめんな、でも俺は雫が大好きだよ」

「私、あなたの記憶がなくなっても、私がそばにいる!いつまでも私が覚えていてあげるから!」

「もう、お別れなんだ……ごめんよ。でも、生まれ変わったら、今度は一緒だ。」

笑顔でそう言うと、啓輔は背を向けた。

「置いて行かないで!」立ち上がろうとするが、足腰が言うことをきかない。

「雫、さよならなんだ。俺の分まで、幸せになれよ。」啓輔の姿が遠ざかる。

「けいすけ~!」

遠く離れた啓輔が、一度立ち止まり、振り返る。

「しずく~!生まれ変わったら、またお前と俺は出会う。だから、悲しむな。俺が、必ず会いに行くから!それまでは、笑顔でお別れだ!」

啓輔は無邪気に笑った。

「けいすけ~!」

啓輔の陰に向かって叫ぶ。啓輔の姿が光に包まれると、辺りまでもがまぶしい光に包まれ、やがてなにも見えなくなった。


 目が覚めた。頬が濡れている。

いつのまにか部屋のベッドに寝ていた。

時計を見る。6時15分。カーテン越しに朝日が差し込み始めている。

ベッドから出ると、黄昏倶楽部に行ったときの服装のままだった。

携帯電話を取り出す。日付は4月17日になっていた。

「ずっと寝ていたの?」

コトン。

新聞受けになにかが落とされた。

いぶかしげに玄関に行く。新聞が差し込まれたせいで、先に入れられていたであろう手紙が押し出されたらしく、落ちていた。


[橘雫様]

送り主は北村大輔とある。啓輔の父親の名前だ。

急いで封を切る。

[橘雫様。

 あなたにはいろいろとご迷惑をかけてしまったこと、まず詫びさせてほしい。

啓輔は、アルツハイマー型認知症という病気にかかり、入院していました。

今さらになってはしまいましたが、啓輔は日をおうごとに記憶を失い、あなたとの家を出てからこの一年間で、ほとんどの記憶を失いました。

日常生活は一人では満足におこなえるわけもなく、ベッドに飾ったあなたとの写真だけをながめ過ごす毎日でした。

 時折蘇る記憶があったようで、そのたびにあなたの名前と結婚という言葉をつぶやき、『治したら迎えにいく』とうわ言のように言うこともありましたが、一昨日十五日未明、部屋から抜け出したところを車にはねられて、亡くなりました。

 治療もむなしく、啓輔は事故でなくなってしまったわけですが、啓輔の服がちゃんと着れていること、持ち物の中にあなたとの写真があったこと、そしてあなたへの想いを綴った手紙があったことから、啓輔の治療にあたったお医者様に、『記憶が戻っていたのかもしれない』と言われました。

 啓輔はあなたのことだけは忘れまいとし、あなたを迎えにいくことだけを想い、ベッドに二人の写真を飾って入院生活を送っておりましたが、啓輔が亡くなったこと、そして大変身勝手ながらあなたには啓輔のことを記憶のどこかに留めていただくことが私達夫婦としての啓輔への供養になるとも思い、彼の遺品となってしまった写真と手紙を送らせていただきます。

 アルツハイマー型認知症になってしまったことを伏せさせてもらったことで私達夫婦を恨みもしたでしょう。私達を恨んでも、どうか啓輔だけは許してやってほしい。

 重ね重ね身勝手ながらも、どうかよろしくお願い申し上げます。


 あなたには未来があります。

どうか啓輔の分まで幸せになってください。

いままで本当にありがとうございました。         北村大輔]


 手紙に同封されていたのは、便箋が一枚と写真。

便箋には、一言だけが汚い字で書かれてあった。

『愛している』

写真の中の啓輔と雫は、満面の笑みを浮かべている。

嗚咽する雫。



アパートの外、風が優しく頬をなでるようだ。男と女がいる。

「なんだか人の気持ちって、太陽の日差しみたいね。」

「どうしたんですか、突然に。」

「いつも降り注いでいるのに、雨が降ったり雲が覆うと気づけなくなるでしょう?」

「そうですねえ……。」

「彼女には幸せになってもらいたいなぁ。」

「きっと、彼女は大丈夫ですよ。」 


一陣の風が木ノ葉を舞わせ吹きさった。


[FIN]


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