身を引く覚悟はできています
――約束だよ。必ず迎えに行くから。
ふっと、記憶が頭によみがえります。
思い出しても仕方がないのに。胸が強く締め付けられました。
*
「おめでとう、エセル」。訪れた招待客のみなさんが、口々にそう言って祝ってくれています。
だけどわたしが彼らに返せるのは、弱々しい微笑みだけ。それが精いっぱいでした。
我が家では今、広い舞踏室を解放してダンスパーティーが開かれています。招かれた客はロンドン社交界を代表する名士たちで、晴れやかに着飾った貴婦人たちのドレスは、とても見事なものでした。
そんな招待客のうちの一組が、壁際にひっそりと立つわたしを見つけます。
「まあエセル、こんなところにいたの。そんな隅にいないで、真ん中に出て行けばいいでしょう。ほら、彼と踊っているところを私たちにも見せてちょうだい」
「そうだよ、エセル。今夜は君たち二人が主役なのだからな」
「リビー叔母様。ユージン叔父様も、来て下さってありがとうございます」
姪の婚約を祝うために来てくれたリビー叔母様と、その旦那様であるユージン叔父様。仲の良い叔母夫婦は幼いころから何かと可愛がってくれる、優しい人たちです。だからこそ心配かけたくなくて、わたしは嘘をつきます。さっきよりも努力して、しっかり微笑んでみせました。
「いいんです、わたしはここで」
「でも。そうだわ、彼はどうしたの?」
「どちらにいるんだい、僕らもご挨拶したいのだが」
「……ええ、叔母様たちもご覧になって。アーネスト様は今、イヴリン姉様と踊っているところですの。二人ともお上手だと思いません?」
最後の一言だけは本音でした。だから力を込めて言えます。
だけど。
見たくはありませんでした。見るのがあまりにも辛かったから、わたしは部屋の隅でひっそり立っていたのです。うつむいて。
自宅であるブラント男爵家の、広い舞踏室。そこには大勢の人が集まり、踊り、語り合っています。でもどれだけ人がいようとも、その一組の男女が見落とされることはないでしょう。人の目を集めずにはいられないほど、お似合いの二人なのですから。
舞踏室の一角で、ひときわ優雅におどる彼ら。見たくはなかったのですが、わたしの目は勝手に吸い寄せられてしまいます。カップルの片割れ、夜会服姿の男性に。
その瞬間、全ての音が消えました。
語り合う人々の声も、楽団が奏でる音楽も、足音も。もう私にはきこえません。目に入れた途端、わたしのすべては彼に集中してしまうのです。彼だけに。
冷たいアイスブルーの瞳に漆黒の髪。白皙のお顔は凛々しくて、生粋の英国貴族そのもの。
このアーネスト様は、いずれスターリング伯爵家を継ぐお方です。
「あら。イヴリンと踊っているの?」
「――はい。わたしがお願いしましたから」
叔母様の声で、わたしは現実に戻されました。今、アーネスト様と一緒に踊っている人の存在を思い出します。引き戻されてしまいました、逃げようのない現実に。
軽やかに舞うドレスの裾。ひるがえる長い金髪。今夜は後れ毛を美しい巻き毛にして、ひときわ華やかに装った一人の美女。エメラルドグリーンの瞳が印象的で、部屋中の紳士がたの目を集めるのは、美貌で名高いブラント男爵家の長女です。
彼女はわたしの姉、イヴリンです。小さい頃から仲の良い、最愛の姉でもあります。
視線を交わし、手を握り合い。アーネスト様の手でリードされて踊るイヴリン姉様の、あの美しさはどうでしょう。あまりに綺麗で、見ているのが辛いほどです。
金と黒。対照的な髪色を持つお二人ですが、それがまるで対のようです。
見交わす瞳はアイスブルーとエメラルドグリーン。宝石のような美しい取り合わせです。
結ばれるべく生まれた、運命の二人。まさしくそんな言葉が相応しい人たちです。口が動いているので、何かこっそり言葉でも交わしているのでしょうか。ときおり視線も合わせる二人の瞳は、特別な熱がこもっているかのようでした。しかし。
叔母が不思議そうに言いました。
「でもどうしてイヴリンと? アーネスト様はあなたの婚約者ではないの」
アーネスト様が結婚するのは、イヴリン姉様ではありません。
今夜はわたしの婚約パーティーです。イヴリン姉様の妹であるわたしと、アーネスト様の。
***
あの時のことは忘れません。
わたしがアーネスト様と再会したのもまた、婚約を祝うダンスパーティーでした。
『……君は、エセル・ブラント? 驚いた』
最初はそう、そんな風に声をかけられました。
イヴリン姉様の婚約を祝うパーティーでのことです。
『麗しのイヴリン』とも呼ばれ、社交界の華として有名なブラント男爵家の長女。そんなイヴリン姉様の婚約を祝うパーティーでした。そこにはこっそり涙を飲む、姉の取り巻きたちも混ざっていました。
しかしそんな彼らでも、妹であるわたしには目もくれません。大人の夜会が初めてであるわたしは、ダンスにも誘ってもらえず、ひとりでぽつんと立っていました。
『僕と踊ってくれますか』
だからアーネスト様がわたしをダンスに誘った時は、とても驚きました。
何故なら彼もまた、イヴリン姉様の婚約に胸を痛める男性の一人だったのです。実は幼いころ、わたしたち姉妹は一度だけアーネスト様に会ったことがあります。でもその一度きりの出会いの後、もともと実家同士があまり縁のない関係だったこともあり、付き合いも絶えていました。まさか再会するのがイヴリン姉様の婚約パーティーだなんて、皮肉なものですが。
姉が他の誰かに奪われたのなら、その妹で。アーネスト様がそんな風に考える人だったのかと驚きましたが、ダンスの誘いは嬉しいものでした。だからわたしは受けたのです。
後になって、わたしは何度もこう思ったものです。いっそ、あの時断っていたらよかったと。
これは彼にとって、何かの気まぐれなのでしょう。そう思っていたのですが、一曲目のダンスの後も、なぜかアーネスト様はわたしを離してくれませんでした。いつまでも同じ相手を独占するのは作法に反します。ですがアーネスト様は、わたしに声をかける別の男性を自ら断ってまで、何度も何度も続けて踊ってくれるのです。
踊りが苦手なわたしでしたが、アーネスト様の見事なリードのお陰もあり、その晩はとても楽しく過ごせました。義母がやんわり注意しに来るまでは。
『また会えるだろうか』
はい、またお会いしましょう。最後にそう約束して、その夢のような夜は終わったのです。
そして。
またも驚いたことに、アーネスト様が約束を叶えるまでに、数日とかかりませんでした。
『今日はエセルにプレゼントがあって』
『この本は読んだだろうか。興味深いからぜひエセルにもと思った』
『この前、エセルはなんだか顔色が悪くなかったか。元気かどうか心配で見に来た』
そうやって何かと口実を見つけては、アーネスト様はブラント家を訪問してくれました。数日おきに。どうしてだろうと首をかしげていたわたしですが、やがて理解しました。
――アーネスト様はイヴリン姉様をいまだに諦めきれていない。だから屋敷を訪ねる振りをして、姉様に会いに来ている。わたしを口実にしてでも会いたいんだわ。
そういうことかと腑に落ちると、すべてに納得がいったのです。
ずっと、人並み外れて麗しい姉を持つ妹として過ごしてきました。こう言っては何ですが、今までにも何度か同じことはありました。察せずにはいられないのです。気づかない振りはできませんでした。自分が口実に過ぎないということは。
悩みました。姉はすでに別の方と婚約中です。
ですが悩みに悩んだ末、わたしは彼に協力することにしました。アーネスト様が姉を好きなら好きでいいと思ったのです。
姉の婚約者は十五も年上のお人です。女性にだらしないとか、良くない評判もあったため、わたしはあまり好きではありません。そんな人が姉様のお相手だなんてと、内心でそう思っていたわたしは、姉とアーネスト様の間をこっそり取り持つことにしました。
ここでまた、わたしは失敗、というよりも計算違いをするのですが。
姉とアーネスト様の気持ちを慎重に見極めようとするあまり、己の心のことを忘れていたのです。
屋敷にいらっしゃるアーネスト様は、常にわたしのことまで気にかけてくれました。イヴリン姉様の妹だからという理由でしょうけれど、それは優しく接して下さいます。
想い人の妹だというだけで、そこまで気を遣ってくれるなんて。アーネスト様はなんて一途な人なのでしょうと思いました。そしてそんな彼を見ているうちに、わたしの心はいつの間にか変わっていったのです。こんな気持ちになってもむなしいだけだと、わかっていたはずなのですが。
だから、断れませんでした。とても拒否できなかった。
なかなか婚約破棄しない姉様に、恐らくアーネスト様は業を煮やしたのでしょう。
『頼みがあるんだ』
そう切り出された日。あの時の出来事も彼の言葉もまた、わたしの記憶に焼き付いています。彼はあの時、わたしの片手を取ってそう言いました。
想像もしていませんでした。姉を想うアーネスト様が、そこまで思い詰めていたなんて。
『エセル・ブラント男爵令嬢。僕と家族になってくれませんか』
とうとう思い余ったのでしょう。アーネスト様は、イヴリン姉様の義弟になる決心をしたのです。わたしを通して。
その妹と結婚してでもイヴリン姉様と家族になりたい。夫になれないなら、いっそ義弟にだなんて。おかしな考え方です、わたしも変だと思います。不自然な関係です。でもそんな彼の頼みを、わたしは拒否できませんでした。
だってわたしはその時すでに、彼を愛していましたから。
わたしの最愛の姉イヴリンを、熱愛するアーネスト様を。
***
わたしのものにはならない人だとわかっていて、恋してしまうなんて。
なんて馬鹿なのでしょう。見つめていても辛いだけなのに。
「エセル。おめでとう」
再会から婚約までの出来事を思い返していると、わたしの親友がやってきました。
「ありがとう、ベティ」
「わたくし、まさかエセルに先を越されるなんて信じられませんでしたわ……あら、どうかしましたの?」
黒髪の巻き毛が可愛らしい令嬢エリザベス、愛称ベティ。さる伯爵家の一人娘でもあるベティですが、振り向いたわたしを見て驚いた様子です。
「もうちょっと幸せそうな顔をしたほうがよくってよ。もともとイヴリン様よりも見劣りするのに、それじゃ誰の婚約パーティーだかわかりませんわ」
「そうかしら。でも仕方がないでしょう、だってイヴリン姉様ですもの」
「……またあなたの姉自慢? もう、本当に」
呆れたようにため息をついたベティが、わたしの腕を取りました。
「あっちで皆様に紹介してちょうだい、わたくしを。アーネスト様のお友達とか、いらっしゃらないの?」
「お友達? そうね――」
舞踏室を離れ、別室へ行こうと誘われました。そこにはパーティーの最中につまめるように、軽食を用意してあります。
このまま部屋の隅からイヴリン姉様とアーネスト様を見ていても辛いだけでしょう。わたしはベティの頼みにうなずきました。
だけど呼ばれました。あの声。恋しいあの声に。
「エセル!」
アーネスト様の声。その声で一言名前を呼ばれたとたん、わたしの心臓はドキリと大きく騒ぎました。呼ばれただけで甘い気持ちが胸を満たします。
大好きな婚約者に呼ばれて振り返ったわたしですが、しかしそこにはやはり見たくない光景がありました。
ふたり並ぶ金と黒。エメラルドグリーンとアイスブルー。
運命によって結ばれた、美しい恋人同士のような彼ら。
すでに曲は終わったのか、アーネスト様はイヴリン姉様と向き合ったまま、顔だけこちらを振り向いています。そして同時に目に入りました。自分を見ていないアーネスト様の、その視線を追うイヴリン姉様の表情が。
ときめきで弾んだわたしの心臓に、何かが深く突き刺さります。
アーネスト様を見つめる姉様、その目に籠った強い感情。熱情――嫉妬と憎しみ。
――どうして?
姉の目には声にならない問いかけがこもっていました。
その目に、やはりわたしは、身を引くしかないのだと悟りました。
イヴリン姉様は幼いころからわたしを可愛がってくれました。不思議と喧嘩したこともなく、いつまでも変わらず優しいイヴリン姉様が、わたしは大好きです。
大好きなイヴリン姉様。大好きなアーネスト様。
大好きな二人が想い合っているのに、結ばれずに苦しんでいる。そう思うとたまりません。このままでは二人だけではなく、わたしにとっても不幸です。だから。
「アーネスト様」
精いっぱい、優しく見えますように。『たとえ何があっても、わたしはあなたを許します』。そんな気持ちが伝わるように、わたしはアーネスト様に微笑みかけました。
「どこへ行っていたんだ、エセル。こっちへ来てくれ」
ああ、やっぱり。とうとうこの時が来たようです。こんなことになるのではと、わたしはずっと怯えていました。幸せそうに笑ってみせる気力もないほど。
婚約を破棄してほしい。きっと、アーネスト様はそう言います。今のダンスで、彼と姉様はお互いの想いを確かめ合っていたでしょうから。
でもいいんです。身を引く覚悟はできています。わたしは笑って彼を許します、だって。
舞踏室に戻ったわたしは、ゆっくり歩み寄って行きます。アーネスト様と、イヴリン姉様の前に進み出ます。舞踏室の真ん中へ。大好きな婚約者から、婚約破棄を言い渡されるために。
すると。いつもは表情に乏しいアーネスト様が、珍しく笑顔になりました。
「エセル。君に渡したい物があるんだ」
「え……?」
予想もしていない言葉に、わたしは少し戸惑います。渡したい物? 離縁状でしょうか、まだ式も挙げないうちから。
「ステイプリー、あれを」
アーネスト様に呼ばれた彼の従者が、どこからか現れました。ステイプリーはワゴンを押しています。そこには何か大きな物が、掛け布をかけて置かれていました。
「デヴォン州の発掘現場で発見したんだ。気に入るといいが」
従者が絹の掛け布をめくると、現れたのは大きな石の塊でした。いいえ、違います。石かと思えば、何か、生物の化石のようです。大きなカタツムリのような形をしています。
「『アンモナイト』と言うんだ。白亜紀の地層から出て来たんだが、これだけ大きな物も珍しい。運が良かった。だから発掘現場で見つけた時、ぜひエセルに、これを婚約の贈り物にしようと思った」
「……」
ざーっと、招待客たちが引いていくのがわかりました。皆さま目を点にしておられます。
貴族であるアーネスト様ですが、大学では古生物学を専攻しておられました。今も研究室に身をおく彼は、みずから発掘現場にも行かれます。だからわたしは驚きません、婚約の贈り物が化石でも。いいえむしろ。
「嬉しい……!」
「エセル? 本気ですの!?」
後ろでベティが驚いています。他の方々も。もうそちらに構ってはいられませんが。
「アーネスト様が発掘なさったのですか?」
「そうなんだ。これを掘り出した瞬間に、君の顔が浮かんだ」
「まあ」
嬉しそうに話してくれるアーネスト様は、なんて素敵なのでしょう。仕事中にも思い出してくれたのだと、わたしは幸福感に包まれました。名ばかりの婚約者でも思い出してくれるだなんて、やはり彼は優しい人です。
わかっています。婚約の贈り物に化石は変でしょう、普通は宝飾品や花を贈るのが常識というものです。
ですがもともとアーネスト様は少し変わった人で、今まで贈られたプレゼントも、恐竜の歯だったり、古生物学の本だったりしました。女性に贈るには少々不似合いだと、わたしも思います。
少しずれた感覚を持つ人。実はそんなアーネスト様だからこそ、わたしは惹かれました。
今もそうです。学者でもなんでもない若い娘に、これを贈って喜ばれると本気で思っているなんて。なんてズレた人なのでしょう。ああ、なんて愛おしい。
なんて、なんて愛おしい人。愛しいアーネスト様。
こんな小さな一瞬一瞬を積み重ねて、わたしはアーネスト様をどんどん好きになっていきました。
乏しい表情も、化石以外には話題がない不器用さも。わたしはそんな彼だからこそ好きにならずにはいられません。どうしたらいいのでしょう、この想いは。姉を愛するアーネスト様をわたしは心から慕っています。彼と結婚できるなら、わたしはそれでもいいと思っていました。
「せめてイヴリンの家族になりたい」。これはそんな、彼の切ない気持ちを叶えてあげる、そのためだけの結婚なのですから。名ばかりの妻でもいいと、そう決意していたのです。
それでも。いいえ、大切に想うからこそ彼を不幸にはしたくありません。
身を引く覚悟はできていました。
こんな不自然な結婚はやめましょうと、わたしから言わなければ。
アンモナイトを見ました。こんな贈り物をもらえて、本当に幸福でした。しかしこれをもらうべきはイヴリン姉様です。わたしじゃない。
「アーネスト様。わたし――」
覚悟していたはず。それなのにどうして。
「エセル!?」
どうしてわたしの口からは、続きの言葉が出ないのでしょう。出ない言葉の代わりに、涙だけが零れてしまうのでしょうか。涙でゆがんでしまうアーネスト様の顔を見つめるばかりです。
「どうして泣いて……。エセル、こっちへ」
泣くばかりのわたしの背に、アーネスト様の手が伸びてきます。彼に優しくながされるまま、わたしは舞踏室を退出しました。気まずく顔を見合わせる招待客を残して。
***
求婚されてから今夜まで。不安ではありましたが、彼の婚約者でいられるのは幸せでした。でもそれももう終わりです。手に入ることのない、儚い夢だったのです。
わたしの涙が収まるのを待って、アーネスト様が言いました。
「――エセル、どうしたんだ? 何か嫌なことでもあったのか」
他人のいない、客間のうちの一部屋。アーネスト様がわたしを連れて来たのは、そんな場所でした。燭台ひとつが灯りです。ソファにかけたわたしの前で、彼がひざまずきました。
「僕は君の婚約者だ。話してくれないか」
「はい……はい」
大好きな彼から「話してくれ」と乞われて、言わずにいられるでしょうか?
身を切るように辛い思いをしながらも、わたしはとうとう打ち明けます。すべてわかっていることを。
「わたしは……いいんです。どれだけ恥をかいても」
「恥?」
「だからアーネスト様、どうかお願いです、自分に正直になって下さい。あなたが何をなさっても、わたしは受け入れますから。だって」
最後に告げてもいいでしょうか。こんな告白をして、彼を苦しめるだけかもしれないのに。でもこの機会を逃したら、わたしは一生言えないかもしれません。
伝えたい、一度だけでいいから。
「あなたを愛しています。心から」
「……」
「それでアーネスト様がお幸せになるなら、わたしは今すぐ身を」
「本当に?」
わたしは今すぐ身を引きますから、どうかイヴリン姉様を諦めないで。
聞き返されたせいで途切れてしまいましたが、続きは伝わっていたのでしょうか。
一瞬目を見開いた彼は、驚いたようでした。そのアイスブルーの瞳が、ゆらめく蝋燭の灯りを宿します。なぜだか妖しいその輝きに、わたしは思わず見惚れました。振られる直前だというのに。
「驚いた、君からそんな話が出るとは。エセルはまだ十七だから……いや、僕が子ども扱いしていたのか。悪かった」
「いえ……あの?」
思っていた反応と違うので、わたしは少し戸惑います。
わたしの前にひざまずいていたアーネスト様が、身を起こし、手を伸ばしました。わたしの頬に。涙を拭いてくれるのかと思い、とっさに目を閉じたのですが。
「――」
頬に触れたのは、指よりもっとやわらかいものでした。同じものがくちびるにも押し付けられ、やがてそれは、わたしの息まで奪っていきました。エセル、と、どこか焦ったような声がわたしを呼びます。くちづけの合間に。
そう、口づけを交わしてします。アーネスト様と、わたしが。受け入れるのがやっとで、しばらくは何も考えられません。でも。
「ま、待って」
どうしてそうなるのかが全くわかりません。婚約破棄とは、キスして行うものだったのでしょうか?
切なげに目を細めたアーネスト様が言います。
「……怖いか? しかし君が望んだんだ。僕に拒めるはずがない」
「の、望んだ?」
「心配しなくていい。結婚前から求めるような真似はしない。ただ、もっと触れたいとは思っていた、こうして」
そう言うとアーネスト様はわたしの横に腰を下ろしました。有無を言わさぬ力で引き寄せられます。わたしは彼の脚の間に座り、そのわたしを彼の腕が抱えています。背後から。
「あ、あの」
アーネスト様のぬくもりがわたしをくるみます。軽いパニックに陥りました。男性とこれほど密着したことはありません。焦って逃げようとしても、腰に回った彼の腕はそれを許してくれません。
手の甲への軽いキスしかされたことがないのに、それがいきなり。
耳に息が触れました。続いて触れたのは、彼の唇ではないでしょうか。もともと大好きな彼の声に、これまで聞いたことがないような甘さが混じります。
「不安になって泣いたのか? それだけが理由じゃない気がする」
「あ、アーネスト様」
「他にもあるだろう、話してくれ。話さないならもっと――」
ぎゅっと、わたしを抱き寄せる彼の腕がいっそう強くなりました。さらに片方の手がわたしの顎をとらえ、後ろを向かせます。話せと言っておきながら、彼はまたもわたしの唇を奪うのです。
それじゃ話せません。そう言いたいのですが、拒むのも不可能。どうしたらいいのでしょうか。
「……っ、エセル。そんな顔をしたらだめだ」
「え?」
「結婚式が待てなくなる……」
そう呟いて口づけをやめたアーネスト様は、わたしの肩に顔を埋めました。そのまましばらく黙ってしまわれます。腕は相変わらず、わたしを離してくれる気配はありませんが。
お陰でやっと、わたしは口を開けました。
「アーネスト様は」
「うん?」
「い、イヴリン姉様と」
色々と混乱しています。自分の確信にも自信が持てなくなってきました。それでも。
「イヴリン姉様と愛し合っておられるんじゃありませんの!?」
一気に言います。
「だから、わたし、婚約をなかったことにしたほうが、いいと」
「エセル」
息をのむ気配がします、心底驚いたような。肩が軽くなったので、わたしは少し彼から身を離して、振り返りました。
「イヴリン姉様が好きなのでしょう? だからわたしは身を引こうと」
「やめてくれ、冗談ではない」
「え?」
アーネスト様はやけにきっぱり否定しました。ずいぶん固い声です。
「なんでそんな風に思うんだ。僕がいつそんなことを。それにイヴリンが僕を? まさか、絶対あり得ない。それだけは金輪際ない」
「そ、そんなに? ……でも。さっき、二人であんなに楽しそうに踊って」
「君の頼みだからだ。たぶんイヴリンのほうでも同じだろう。あのイヴリンと、仲良くしてほしいと君が望むから。そうじゃなかったら誰があんな恐ろしい……あ、いや」
まずいことを言った。彼はそんな風に口を押えました。
でもそんなアーネスト様の戸惑いも、わたしほどではないでしょう。
「違うんですか? じゃあどうしてわたしに求婚を? アーネスト様は、イヴリン姉様の義弟になりたいから、わたしと結婚するのかと」
「イヴリンの義弟になりたい? それこそ冗談じゃない、それさえなければどれだけいいかと僕が何度思ったことか……!」
ここまで本気で嫌そうな顔をするアーネスト様は見たことがありません。演技ではないかしらと、それでも疑うわたしの心をなだめていきます。
では、ということは。
「それじゃあ……アーネスト様、本当にわたしと」
「エセルと結婚したいから求婚した。――約束しただろう、迎えに行くと」
わたしの涙腺はまたもゆるんでしまいます。今度は意味がまるで違いますが。
「覚えて、いて」
「うん。……引かないでくれると嬉しい」
「そんな」
小さい頃、一度だけ会ったわたしと彼。その時アーネスト様は言いました。大人になったら必ず迎えに行く、と。彼もそれを覚えてくれていたなんて。もう忘れてしまったのだと思っていました。
「嬉しい」
「ずっと勘違いしていたのか? どうしてまた」
今度はわたしから寄り添っていきました。自分から振り返り、アーネスト様の胸に頬を寄せます。そんなわたしを優しい腕が抱き寄せてくれました。
この腕に抱き締められることを、わたしは素直に喜んでいいのです。この腕の中はわたしのための場所で、他の誰かの身代わりなんかじゃない。そう思うと幸せでたまりません。また涙がこぼれます。
「だって。誰でもイヴリン姉様ばかり好きだから。わたしには誰も目もくれないもの」
「それはイヴリンが。それに関しては僕も感謝しないでも……、いや、なんでもない」
「アーネスト様もです。……家族になりたいとおっしゃっただけだわ。本当にそれだけなんですもの」
例えば、好き、とか。アーネスト様がはっきりそうおっしゃってくれたことがないせいです。そうです、今だってまだわかりません。彼の心にある想いは。
すると彼は言いました。寄り添うわたしの頭の上に、自分の顎を載せながら。
「苦手なんだ。歯の浮くような口説き文句は」
「……」
「しかしこれだけは言える。――僕がイヴリンを好きだとか、君がそんな恐ろしい勘違いをしたままなら。この気持ちが通じていないとしたら、僕にとってはとてつもなく不幸だ。なぜなら」
続いてアーネスト様がくれた言葉は、わたしだけの秘密です。不器用で甘い口説き文句が苦手な彼が、初めてくれた愛の言葉は。
******
それにしても恐ろしい勘違いをしていたものだ、とアーネストは内心でゴクリと息をのんだ。そして彼の最愛の少女の誤解には、いまだ解けていない部分がある。
腕に抱いたエセルはアーネストの宝物だ、出会った時から。
雷に打たれたような衝撃があった。自分が十二で、彼女が六つだったことは問題ではない。以来、アーネストにはエセルほど愛おしい娘はいない。そしてこれほど純真で素直で可憐な彼女の姉が、何故イヴリンなのか。姉妹でこれほど違うのか、アーネストはいまだに納得できない。
はた目には優雅だったかもしれないが、舞踏室でのダンスは果し合いも同然だった。とんでもない握力で手を握りしめられ、いつ足を踏まれるか、引っ掛けられるかわからない。イヴリンがアーネストの耳元でささやいていたのは怨嗟の言葉だ。イヴリンから最愛の妹エセルを奪っていく男への呪いと憎悪。それを延々と聞かされていた。
社交界の華。そう呼ばれるブラント男爵家の長女は、己の美貌と人気を最大限に利用しながら社交界で勢力を伸ばしつつある。その手管も見上げたもので、遊び人だった十五も年上の公爵がイヴリンに首ったけになり、完全に言いなりになっているともっぱらの噂だ。
そしてイヴリンは、その権力を己の最愛の妹に対しても使った。彼女の妹であるエセルとて、充分うるわしい娘なのだ。しかし男はイヴリンの許しなくエセルに近づけない。妹を溺愛するあまり、自分の結婚まで延ばしているらしい。まだ家を出たくないからだが、その身勝手に婚約者の公爵は一も二もなく従っているそうだ。
再会したあのダンスパーティーまで、アーネストがエセルと会えなかったのもそのせいだった。約束させられていた。社交界デビューするまで近づくな、と。そしてエセルにはあの日が初めての夜会で、そのためだけにアーネストはダンスの猛特訓を受けた。
エセルはアーネストが驚くほど美しい娘に育っていたが、妨害はその後も続いた。アーネストがエセルに会うため男爵邸を訪問しても、必ず妹より先に姉が現われて二人きりの時間を邪魔してくれる。とはいえ、どこかでお眼鏡にかなったお陰でこうして婚約までこぎつけたのだが。
「果たして無事に結婚式までいけるのか……」
「アーネスト様?」
「いや、なんでもない。そろそろ戻ろう、怒鳴り込んでくるかもしれない」
「まあ、怒鳴り込む? ふふ、いったいどなたがそこまでなさるのかしら。わたしたちは婚約していますのに」
姉の正体をいまだ知らない(イヴリンがひた隠しにするせいだが)エセルは無邪気に笑う。そんな彼女にアーネストの心も癒された。
何があろうとエセルを諦めない、と彼は改めて誓った。それでも恐ろしい。これから先もどんな妨害をされるか。未練たっぷりだったイヴリンの様子からして、やっぱり自分も妹も独身のまま、二人だけで一生過ごすとか言い出しかねないとアーネストは思う。
イヴリンの執着は常識を遥かに超える。アーネストは狂気すら感じていた。
妹狂いの義姉となど、切れるものなら縁を切ってしまいたい。だがそう思う一方で、アーネストにはわかっていた。何も知らない婚約者は姉を慕っている。ならば自分は一生耐えるだろう、何よりも愛しいエセルのため。死が二人を分かつとも。
化石になるまで一緒にいよう。アーネストの贈り物のアンモナイトには、そういう意味がこもっているので。
姉のイヴリンの話を『嫌われ令嬢の偽装婚約』として連載開始しました。
よろしければそちらもおねがいします! 1/30