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紅き箱庭のフィロソフィア  作者: 高柳神羅
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終わりを望む者

 ピュクシスの箱庭。

 そう名付けられた工房地下の庭に、ニコルは訪れていた。

「……何が始まるんです?」

 アルティマとネイティオが外に出て行った理由も、一緒に此処に来るように言われる理由も聞かされず、ただアノンの言葉通りに此処に足を運んだニコルは、先に庭にいたアノンを前に眉間に皺を寄せた顔を向けるばかりだった。

 車椅子に乗ったままどうやってあの細い階段通路を往来しているのかと、そんな些細な疑問を胸中に浮かべながらアノンの返答を待つ。

 アノンの言葉は、酷く短かった。

「始まりはしない」

 それだけ言って、彼は車椅子を転がしていく。

 エルピスが寝床にしていた鳥籠のような建造物の前まで行き、止まる。

 揺り籠の中で静かに眠っているエルピスにじっと注目し、再度開口した。

「終わるんだ」

 きっぱりと言い切って、アノンは車椅子に備え付けられていた小さなナイフを取り出した。

 彼は、その刃を迷わず己の腕に──

 右の手首にあてがい、滑らかに滑らせた。

「!」

 まるで自分が斬られたかのように身をびくりと縮み込ませるニコルの前で、アノンは右手を前方に差し出すような形に掲げる。

 肌を伝って流れる血は、全く下には落ちず、小さな蛇のようにゆらりとうねりながら虚空に向かって広がっていく。

 複雑な軌跡を描きながら形を作っていくそれは、まるで白い鳥籠を覆う黒い鎖の網のような形状へと成長を遂げた。

「箱庭は無へと沈む。希望は災厄へ転じ、箱庭の外に溢れし存在ものが地上の全てを滅ぼす」

 魔術の呪文のような謎の言葉を呟いて、彼は右手を静かに下ろした。

 ──庭全体が暗く陰ったような。そんな微細な変化を、ニコルは肌で感じ取った。

 思わず辺りを見回すと、その反応を待っていたかのように、アノンが振り返ってくる。

「ピュクシスの箱庭は封印した。希望エルピスと一緒にな」

「……封印?」

 意味が全く分からない、とニコルはアノンを見る。

 アノンはナイフを元の位置に戻し、肩越しに巨大な鳥籠を見やった。

「希望を失った箱庭は、絶望の入れ物だ。溢れ出した災厄が地上を飲み込み、そこにある全てのものは滅びを迎える。戦火すら飲み込んで、等しく全てを終わらせるんだ」


 ず……と大地が低く唸る。

 肉薄していた兵士の頭を撃ち抜いたアルティマは、後方に大きく飛び退いた。

 ぶつぶつと魔術のしゅを呟いていたネイティオの背に自らの背をぴたりと付けて、言う。

「……始まったわね」

「まだまだ、これからっスよ」

 ネイティオの動作は何処となくぎこちない。

 敵兵を屠る度に浴びてきた返り血で真紅を通り越し漆黒に染まった法衣は、屠った相手の多さを物語っている。その反動が身体に表れ始めているな、とアルティマは背から伝わる感覚で何となく察知した。

「……あんた、平気なの」

「……ちょーっと、思ってた以上に大変っスね。甘く見てたっス」

「狂うなら全部が片付いてからにしなさいよ」

 足の裏に伝わる震動が、徐々に大きくなってきている。それを感じ取りながら、アルティマは右腕の大砲をガトリング砲へと形状変化させた。


「つまり、それは──」

 アノンの言葉を脳内で繰り返し、ニコルは問うた。

「世界ごと、戦争をなかったことにするということなんですか?」

 何も知らずに眠るエルピスの存在と引き換えに。

 魔術の鎖で縛られた鳥籠を見つめて、小さくかぶりを振る。

「……そんなの、間違ってます。間違ってると、僕は思います」

「あんたにこの世界の何が分かる」

「分からないですよ。分からないけど……これだけは分かるんです。そんなのは、根本的な解決方法じゃないって」

 ニコルはアノンに歩み寄った。

「受け入れられないからって、ないことにはできないんです。戦争も、憎しみも──僕の研究だって」

 彼は血塗れになったアノンの右手を労わるように手に取り、持っていたハンカチで簡単な止血を施した。

「ただなくしただけじゃ、本当の意味で解決したことにはならない。いつまでも、心の中に残り続けることになるんです。それをずっと背負っていくつもりなんですか?」

「背負っていくつもりもない」

 ニコルの手を振り解くように右手を引っ込めて、アノンは目線を僅かに伏せた。

 ゆっくりと箱庭の出口に向けて車椅子を漕ぎ、彼は呟く。

「……全部、終わるからだ。俺の存在も含めて、な」

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