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紅き箱庭のフィロソフィア  作者: 高柳神羅
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平穏の代価

「ピュクシスの女?」

 畑に水を撒いていたネイティオは、ニコルの言葉に小首を傾げて作業の手を止めた。

「そんな本当にいるのかも分からないもののことを訊いてどうするんスか?」

「個人的に気になったもので」

 ニコルはぼさぼさの髪を引っ張って整えるような仕草をしながら、ネイティオの問いに答えた。

「不老不死の女性……という話でしたが、不老不死なんて、本当に存在するんですかね」

 ニコルが長年の研究の末に実現させた不老長寿の技術ですら、途方もない苦労の末に世に出されたものだというのに。

 500年という時の隔たりがあるとはいえ、そう簡単に形になるものなのだろうか。

「不老不死、要は老いず死なずってことなんスから、そういう意味では不老不死は存在はしてるんスけどね」

 親指の先で、自らの胸元をとんとんと叩くネイティオ。

 あ、とニコルは口を丸く開いた。

 ネイティオは屍人アンデッドだ。老いず死にもしない存在、という意味では、確かに彼は一種の不老不死であると言えよう。

 しかしネイティオはかぶりを振って、言葉を続けた。

「けど、そういう不老不死じゃないんスよね。ピュクシスの女は、生きながらにして老いず死なずの存在って言われてるんスよ」

「命題の答を知っている存在、というのは……?」

「それは単純に皆がそう思い込んでるだけっス。何の根拠があってそういう話になったのかは、謎っスね」

「……そうですか」

「っス」

 ネイティオはさっと右手を畑に対して振った。

 手が描いた軌跡から水がバブルのように現れて、作物に降り注ぐ。

 それで畑の世話はひと段落したのだろう。彼は足下に置いていた桶を拾うと、工房のある方に向けて歩き出した。

「この話、アノンさんの前ではあんまりしない方がいいっスよ。いい顔しないんで」

「……そういえば、パンドラの箱だって言ってました。知らない方が平和だって」

「──例えば本当にピュクシスの女がいたとして、その存在が世に知られたらどうなると思うっスか?」

 隣に並んで歩くニコルに、謎かけをする。

 ニコルはしばし考えた後に、分からないと首を振った。

「どうなるんですか?」

「争奪戦、つまり新しい争いの火種になるんスよ。先に手中に収めた方が戦争の勝者になるって信じて疑われてないっスからね」

 既に戦争が繰り広げられている中で、更なる戦争が勃発する。

 つまり、それは。

「最終兵器が持ち出されて、世界は今以上の戦渦に飲まれることになる──そうなったら、此処も無事じゃあ済まないっスよ」

 今は平穏無事で済んでいる工房の敷地までもが、戦火に晒されることになるのだ。

 世は核の冬が訪れ、もはや兵器としか呼べなくなった人間であった者たちが闊歩し、血肉が撒き散らされる地獄と化すだろう。

 そんな世界の中で、果たして人間は生きていけるのだろうか。

「アノンさんは、此処を守るために戦っているんス。それを手助けするのが、おれたちの役目」

 ぽふ、とネイティオの掌がニコルの肩に優しく触れた。

「ニコルさんも、どうかその辺りの事情は分かってあげてほしいっス」

「ちょっと! 店番すっぽかして何してるのよ!」

 遠くでアルティマの大声が響いている。

 あっ、とニコルは思わず口元に手を持っていった。

「すっかり忘れてました。僕、店番の最中だったんでした……」

「それは早く戻った方がいいっスね。アルティマさんに蹴られないためにも」

 ネイティオは苦笑する。

「おれが相手だとすぐに蹴るんスから。全く、おれのことを壊れない何かとでも思ってるんスかね? 勘弁してほしいっスよ」

「先に戻ってますね」

 ぺこ、と頭を下げて、ニコルはぱたぱたと駆けて行った。

 ──こうしていられるのも、守るべき者がそれぞれの役割を果たして平穏を保たせているからなのだ。

 一歩間違えばこの平穏すらすぐに消えてなくなってしまうことを、彼はまだ実感していない。

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