第十四輪 瞼 の 母
第十四輪 瞼 の 母
1
「………………眠れないのか?」
深夜を過ぎた頃、急に寝床から起き上がったローゼにベルムートが声を掛けた。
「姫? 悪い夢でも見たのか?」
「そうじゃない……、胸騒ぎがするの………」
「異変があるかどうかヴァイスに確認させるか?」
寝室の隅に置かれた椅子に凭れながらベルムートは顔を引き締めた。
……――――――。
ひとつの名前がローゼの頭の中で過ぎった。
「ヴァイスには伝えなくていい、少し部屋を出るわ。ベルムートはここに………」
上着と剣を手にすると、長身の彼も立ち上がった。
「同行させてもらう」
拒みに拒みきったが、結局ベルムートは野良犬のようについて来た。
「どうしてヴァイスに隠すんだ? イェルクとの契約の時もそうだった……。昼間の一件のせいか?」
静寂とした地下通路を進んでいると、声を低くしてベルムートが問うた。
「………ええ、少し警戒対象になったもの。でもそれ以外にヴァイスに知らせては問題になる所へ行こうとしているから」
「問題だと?」
無駄に多いベルムートの問い掛けを無視してローゼは足を速めた。手にしていた燭台の灯が消えないように、今朝と同じ経路で。そして、薄気味悪い黒い扉の前へ――――
さすがのベルムートも何かを察したようだ。寄生生物でもみつけたように目を丸くしている。
「ここは、まさか………」
「《空白の部屋》よ」
迷いなくさっそうと進もうとするローゼに比べ、ベルムートは戸惑っている面持ちだ。忽ち床へ流れ出す紫煙を眺めながら慄然と立っている。
「私はこの部屋に用があるの。入るか待っているかは自由にして」
そう言い残したものの、ベルムートは息を整えた後、忠犬のように忠実にローゼを追った。
昼間と同じように、軽い足取りで進み、引き戸の前で一度ノックをした。
「―――――ヴィオ、入るわね」
今朝と変わらぬオレンジ色の灯りと蝋燭の輝き。ベルムートはいつしか剣を剥き出しにして警戒する。目を凝らした先は紫煙に包まれた空虚の寝室。
「いない………」
「……何がいないんだ? 状況を説明してもらおうか」
緊張感と威嚇を募らせるベルムートは目を細めてローゼの隣に立つ。
ガタっ―――
と、クローゼットの戸が呻いた。
素早い動作でベルムートはローゼの腕を引っ張った。己の君主を片腕で抱き締めるような体勢をとり、大振りの剣を構える護衛役は物音がしたクローゼットを睨んで殺気立つ。息の根を押し殺す彼の空気感からローゼ自身も体が強張る。
ぎぎぎ―――、古いクローゼットの蝶番が鈍く鳴く。その隙間から聞こえたのは、
「………ローゼ?」
ひどく弱々しい声。華奢な指先が扉内の暗がりから覗く。そして頬を濡らし目と鼻を真っ赤にしたヴィオレットが顔を出した。
ローゼはベルムートの手を振り払うと、クローゼットの中の彼女に駆け寄った。
「ヴィオ、どうしてそんな所に……?」
「………怖い、夢を見たの……。お兄ちゃんが殺されちゃう怖い夢を見たの………」
「誰に?」
極めて冷静にローゼは問うた。
「知らない人……、男の人だった。お兄ちゃんと同じ雪の紋章が描かれた服を着てたけど……」
子供をあやすようにローゼはヴィオレットを抱きしめ、優しく背中を擦ってあげた。
もしもローゼ自身がシュヴァルツを殺す夢だったら、その夢を利用できないかと考えてしまった。それはシュヴァルツと同じように、この無罪な少女に嘘をつき利用することになってしまうが。
「どおしてお兄ちゃんが来ないの? こんな日は一度もなかった……。ローゼ、お兄ちゃんを見なかった? もしかして本当に殺されたんじゃ――――――――」
「ごめんなさい、知らないわ………」と、ヴィオレットの耳元で静かな声が流れた。
「………………後ろの人は誰?」
ただ呆然と立ち尽くしたベルムートをヴィオレットは泣き目で凝視した。
「安心して、私の護衛をしている人だから。―――ベルムート、ここで危害は起きないわ。剣をしまって」
「本当に悪い人じゃない?」
「ええ、大丈夫よ。ヴィオ、もう寝ましょう。眠れるまで傍にいてあげるから」
「……夢の中で見た、母親みたい」
ヴィオレットが母親に会ったことがないのをローゼは思い出した。ハイリンリヒトとの契約、賭け事のような契約に殉じることができなかった為に追放されてしまった彼女の母親。もしローゼが同じ立場に立ったのなら、報われない運命を恨み、自分自身に腹が立ち、最愛の夫との仲を引き裂いた我が子までもを憎悪して見てしまうかもしれない。
子供を産まなければ夫と二人で幸せになれたはずだろうに。
こんな結末にはならなかっただろうに―――――。
「………ヴィオは、知らないのよね。私がお母さんの代わりになってもいいのよ」
「歳が近すぎるよ?」
「そんなもの案外関係ないのよ。ほらベッドに入って」
同情かと訊かれれば、そうなのかもしれない。ただ、ローゼは知っているのだ。母親の偉大さと、存在の大きさを。それはローゼの母親がクライン・ダート帝国王妃だったからではない。血統を受け繋ぎ、見えない糸で繋がっているような温かい絆で紡がれる安心感。自分の帰る場所を与えてくれて、自分の在り方を教えてくれる人物だと―――。ローゼはヴィオレットにも、それを感じてもらいたいと切に願っていた。
「……おやすみなさい、ヴィオレット」
手を繋いでいることに安心したらしい。泣き疲れた少女の寝つきは早かった。
石膏のように静止し、その経緯を見守っていたベルムートが息を吹き返したように動いた。
「ヴィオレット・ラストラー……、本当に実在していたとは………」
「当たり前でしょ。誰が世話していたと思っているの?」
「……ああ、愚問だったな」
ベルムートは納得したように溜め息を漏らす。
「どうしてヴィオがいる此処を《空白の部屋》と呼んで恐れていたの?」
「別に恐れていた訳ではない……。ヴァイスからハイリンリヒト家の血統を聞いたなら知っているだろう。望まれずして生まれてきた子には災いが付き纏うと言われる。それに、歯車が狂ったように一族が揺らぐ事件が多発したんだ……、あんなこと類を見ない。だから誰も関わりを持とうとしなかったんだ。
ハイリンリヒトはその子を処分できず、一族の歴史の中から抹消することを選んだ。生きていても何もないと言うように、《空白という名の部屋》へ閉ざした。それ以降シュヴァルツは《氷の結界》を固めて来る者を拒んだ………」
「………結界?」
「! ……そういえば昼間に来た時はなんともなかったのか?」
「特に……、鍵も掛かってなかったし、気になることは何も………」
ローゼはきょとんとした。何度思い返しても取り立てて行く手を阻むものはなかったと思う。
ハイリンリヒト家特有の《氷の結界》は他者が解くことは難しく、厄介な場合は知らずに触れて《氷呪》という呪いに蝕まれることがあるという。右眼を奪われた時、ローゼに襲いかかってきた氷も同種のものらしい。
シュヴァルツのことだから、妹の部屋には最高ランクの結界を張っていただろうが――。
ベルムートとローゼは、互いに怪訝そうな顔を見合った。
「………シュヴァルツが来ないと言っていたな。動いた、ということか」
予測は最悪の窮地へと向かっていく。
ローゼは歯を軋ませて、目の色を変えた。
「……ヴァイスは何をやってるのっ!」
「《探索魔術》を使っても奴の気配を感じないと言う。万が一、既にこの城から出ていたら……」
「その仕事はヴァイスに一任しているけど、彼が熱心に働いているのか不安なところね……。私も一睡したら城を回ろうと思う。ヴァイスには範囲を広げて城外を探すように伝えて」
母親のような柔らかい口調から一変し、ひとりの主権者たる声でローゼは命ずる。ヴィオレットの手を握り、優しく見守りながら。
「ところで、あなたの知り合いで子供好きはいない? できれば錬金術師の」
「? …………いなくは、ないが?」
「ヴィオの世話役を頼みたい。シュヴァルツがいなくても寂しく泣かないように」
「人伝えの噂でしか知られていない子だからな……、難しいだろうが交渉はしてみよう」
ローゼは頷くと、愛らしい寝顔の冷たい頬へ、そっと触れた。
遠い日の実母を思い出すかの如く。
2
翌朝は雪原を照らすかのように朝陽が煌煌と姿を現した。
何日ぶりかの外出。
厚手の黒い外套を羽織り、襟巻きを鼻先まで覆ったベルムートは馬に跨り雪道を進んでいた。
馬の蹄には《軽重力の印》を描いておいたこともあり、雪に沈む深さを最低限に抑えられる。城を出て幾分経ったが絶え間なく白く続く道に不便を覚えることはなかった。
ただ、雪の重みにより崩落した民家の屋根や、吹雪で飛ばされた店舗の看板などが行く手を拒むように邪魔をする。
雪が積もりに積もった銀色の街中では彼の黒衣だけが不自然に浮いていた。
ブレイラント国王とハイリンリヒト卿が共に領土を分かつ為に交わした条約の中に、『許可なくして互いの領土の境界線を越え、地に足を踏み入れてはならない』というものがあった。一般国民がハイリンリヒト領土へ訪れることはまず有り得ないが、術師は必需品などを調達する為に街へ出向かねばならない。その為、雪の紋章が刻まれた馬車での移動のみを許されたのだ。ベルムートも馬車で境界線を越えたことは幾度かあったが、術師自体が狂気として扱われていたから必要以上に出かける者は少なかった。
雪晴れした日だというのに、ブレイラント領土の街は世界が一変したように静寂としていた。
襟巻きの隙間から白い息を漏らしながらベルムートは辺りを凝視する。今、馬車ではなく生身で移動できるのも全国民が眠りについているからだった―――。
樹木に被さった新雪が風に煽られてはらはらと散る姿は、まるで火の粉が飛ぶように輝いて見える。その美しさを観賞する余裕などはなかったが、取り立てて急ぐ気配もなく、ベルムートはとうとう目的地へ辿り着く。
雪の紋章が描かれた防寒服で身を包んだ門番に名前と用件を伝えると、予想していたよりもあっさりと門の施錠が解かれる。
こうして、ベルムートは初めてブレイラント宮殿の中へ足を踏み入れた。
***
「ベルムート、朝から呼び立てて悪かったな」
宮殿内は術師の本堂とは比にしてはならないほど広大で、入口の扉からずいぶんと歩かされた果てに案内されたのは目に毒な豪奢なつくりの部屋だった。これが貴族でいう歓迎の意味する煌びやかな応接間なのだろう。―――まったく吐き気がする。
対面に並ぶソファーにはベルムートと同じ雪の紋章が描かれた軍服を来た初老の男がひとり。
「ご無沙汰しております、総督」
言って、ベルムートは深々と頭を下げた。
総督、つまり錬金術師の長であり、軍の総合司令官。
「雪道など久しく大変なものだっただろう」
「いえ、北陸へ攻め入った時に比べれば苦とも思えませんでした」
総督は向かい側の席に着くよう手で促す。ベルムートは軽く会釈してからソファーに座るがあまりにも柔らかすぎるクッションに違和感しか覚えなかった。
「総督に馬車を使わぬよう提案して頂いたおかげで助かりました。………少し、お疲れのご様子で?」
「まあな、日々目まぐるしい有り様だ。城を離れてから十日以上も経つ。城の様子を訊かせてくれないか?」
疲労が垣間見えるせいだろうか、今日の総督はいつになく穏やか過ぎる。
ベルムートは言葉を選びながら、加えて総督を窺った。
「ブレイラント国王亡命はあまりに突然の出来事でしたから、初めは城内も混乱していました。他国へ移住した者や祖国へ戻った者は複数名いますが、残った術師たちは今まで通りの仕事をしています。自分が見る限り、大きな変化はありません。あとは―――」
素知らぬ顔をしてベルムートは窓の方を見据える。
「随分と街が静かでしたね……」
「だろうな―――、だがもう暫らくすれば元通り活気づくであろう」
総督はこれ以上、深く話すつもりはないのだろう。少しだけ前のめりに身体を傾け、瞳の色を濃くさせた。
「私も暇ではない。呼び立てた理由を端的に話そう」
「………」
「時期に、軍の再編成を行う。使える術師たちを選抜しておいてくれ」
ベルムートは顔を顰め、唇を固く引き締めた。
「お前には第一防衛軍の指揮を委ねようと思っている。今までの功績を見た上でハイリンリヒト様と話し合った結果だ。昇格によって報酬も増えるのだから不利益にはならんはずだ」
「しかし私は第四防衛軍所属です。突然、第一軍に昇格するのはっ……」
「ベルムート、世代交代というものは迅速に対応すべき事柄だ。お前は若い、最前線で活躍できる能力も持ち得ている。勝利の風上を生めるお前にハイリンリヒト様もご期待している」
不味いな―――。
それが先立って思ったこと。ハイリンリヒト卿とローゼの双方と契約を結んでしまった現状で、何を優先すべきか。軍構成をしていればローゼの護衛は疎かになり、彼女自身に危険が及ぶ。ローゼの護衛をしていれば軍構成は不可能だ。いずれは双方どちらかを裏切る結末になる……そうベルムートは察する。
「………少し、時間を頂いてもよろしいですか? 錬金術師の中には他国へ移住した者も多いので、それらを確認することから始め、慎重に検討したいと思います」
「七日間で良いか? それまでに名簿を提出してくれ。そしてその時に契約を成そう」
「―――御意」
短い会談を済ませると、ベルムートは早々に席を立った。
だが世間話をするかのように総督は彼を呼び止める。
「ところで、ブレイラントのお姫様には会ったか?」
3
朝を迎えた、ハイリンリヒトの城。
ローゼは早朝より動き出した。しかし、薄暗い正午へと近付きつつある。
「姫様っ、この通路は三回目になります!」
朝でも夜でも構わず薄暗い地下二階。後ろから耳障りな声がした。
地下通路は歪に混じり合い、騙し絵や隠し扉などが行く手を阻んだ。ネズミのように試行錯誤を繰り返してはみるが、音信不通に過ぎゆく時間にローゼは焦りを感じ、頭を掻き毟りたくなるほど苛立たせる原因が後ろにいた。
「その先は行き止まりです!」
後ろから、黄色い声が響く。何度も、何度も、何度も……。
「姫様! 何回言わせるんですかっ? このライウェルにご案内させてください!」
「何回断れば何処かへ消えてくれるのかしら? 小さなお嬢さん」
ローゼは飽き飽きしながら腕を組む。この碌でもない会話はずいぶん前から始まっていた。ローゼが目を覚ました時、普段はベルムートが座っている指定席に彼の姿はなく、代わりにライウェルと名乗る少女が背中を丸めて眠っていたのだ。
見た目からして歳は十歳未満だろうか。小柄な背丈に寸法の合っていない錬金術師の服を纏いる。短い黒髪を隠すように長いスカーフをゆるく頭に巻いた少女は、その声色を聞かなければ少年に見間違えそうな身なりだった。
ライウェル曰く、ベルムートの代行を頼まれたらしい。本当かは知らないが。ベルムートと同じくお節介な性格をしたこの少女にローゼは嫌気を感じていた。
「………ところで小さなお嬢さん、ベルムートは何処で何をしているか知っているかしら?」
「先生は急用だと言っておりました。その他は聞いていません!」
「先生?」
「はい、私は先生の弟子ですから」
「ふぅん………、性格の悪いアイツにも師匠は務まるものなのね。弱身でも握ってやろうかしらね」
厭味ったらしく尊敬して、ローゼは悪戯っぽくほくそ笑む。
昨日、泣き顔を見られたことをローゼは少なからず後悔していたからだ。
「ライウェル、私は自室へ戻るわ。最短ルートで案内してもらえる?」
「はい、喜んで!」
「それとベルムートのことを教えてくれない? 知り合って間もないからよくわからなくて」
「先生は第四防衛軍の大佐で、素晴らしい功績を持つお方です! 私の尊敬する人です!」
「………そうじゃなくって」
素晴らしいやら、尊敬しているやらは、知ったことではないが経歴は本人から簡単に聞いている。性格や、価値観といった内面的なものや、これまでのエピソードを訊きたいとローゼは告げた。しかし、ライウェルは困ってしまったようで、足を止めて表情を濁らせた。
悩んだ末に搾り出した答えは、「先生は、私の命の恩人です」――だった。
今、生きていられるのは先生のお陰なんです、と、まるで祈るように少女は言う。
それ以上の深い関係を聞けない――、聞いてはならないとローゼは察した。他者が踏み入ってはならない領域だと。頭を掻くように髪の毛を弄ると、長い溜め息をつく。
「人のことは言えないけど……、どうして術師は全うに進めないのかしらね………」
理由ありが多すぎて嫌気が刺す、という皮肉の意味で言った呟きだった。
ローゼはライウェルの手をそっと繋いで、横に並んで歩みを始めた。ライウェルはベルムートが抱える欠点を、ライウェルなりの解釈で話した。彼が、優しすぎる、という欠落的な問題点を。
「先生は誰にでも優しく接する方で、責任感も強くて人望も厚いです。だから第四軍の大佐にも昇格できて、先生の《風》属性も戦場の最前線で使われます。軍の人というのは狂人の集まりで、戦闘技術に優れた分、他の術師から偏見されることもあります。でも戦場に出れば感情が鈍る人もいれば、精神的外傷となって壊れる人もいるから、仕方がないと先生は言っていました。………でも、私は思うんです、そうやって平然と語れること自体が狂ってるって。
先生は大きな戦争から帰還した直後から普段通りの先生に戻っていました。最初はすごいなって思いましたけど、戦争後の先生を何度か見て、自分のせいだって気付いたんです。私に気遣って〝ただいま〟って笑顔で言ってくれるんです。自分のことは二の次にする人だから――、他人に優しすぎる人だから―――――」
だから己の存在が申し訳なくて、いつしか大切な人と想えるようになった恩人が心配なのだ………と語るライウェルの声は徐々にしぼんでいった。
ローゼはベルムートとの契約条件を思い浮かべていた。あれは彼自身の願望ではなく、いま手を繋いで歩く少女の為の哀願だったのだと推し量れる。
しばしの沈黙に居たたまれなくなったライウェルは焦って続ける。
「も、申し訳ございませんっ、私が生意気に先生のことを語ってしまい………」
「ええ、まったく生意気すぎるわっ」
繋いでいた手がぱっと絶たれる。ローゼは一歩前へ出て、ライウェルと対面する。
「あなたねぇ、私が子供の時よりもよっぽど生意気だわ。子供が大人を心配するなんて、舐められたものね……」
温度のない罵倒のような言葉にライウェルは肩を丸めてひどく縮こまる。
「ライウェル、私を見なさい」
少女は腕を組んで仁王立ちするローゼをおずおずと見上げた。少女にとってカナリア色の長く艶やかな髪は羨ましく、右目を包帯で覆う姿がとても怒っているように見えた。ローゼの年齢は十六歳。大人とも子供とも呼べる中途半端な立場だったが、ライウェルは彼女から説教を受けても仕方がないと思い全身の筋肉がこわばった、のだが―――。
「……ライウェル、私はベルムートと契約を結んだわ。あいつがハイリンリヒトとどういう契約を結んでいるかは知らないけど、今は私が奴の主権者よ。私が奴に命令を下す権限がある。今の時点では護衛を一任しているけれども、私はそれ以上無駄に働いてもらうつもりはない、ましてや無駄な闘争、無駄な戦争を起こすつもりもない。ブレイラントの血を受け継ぐ者として、平和を望み、求め、築くことが役目だと心に刻んでいる。だから、もうライウェルがベルムートの心配をする必要はないのよ。――――わかった?」
茨を連想する刺々しい口調に、紅い眼光は鋭く、小さな少女を置き去りにするように背を向けて歩き始めた。ローゼの部屋までは、あと少しだった。しかしライウェルは唖然として、足が前へ動かない。
「………ライウェル、返事は?」
「! ………あっ……は、はいっ!」
びくっと肩を跳ね上げるとライウェルは反射的に返事をする。そして自分を待っているローゼの元へ走り寄ると、頼まれてもいないのに部屋の扉を開けてあげた。
今の自分は子供なりに笑えているだろうか……。そう自問しながらも、ライウェルはこの美しい君主に付いて行きたいと、心の中でお祈りした。
部屋へ戻るなりローゼは上着を脱いでソファーの端へ投げ捨てると、自身もソファーの背凭れに身を預けて大きく息を漏らす。思った以上に城内を練り歩くことが身に染みて疲れたようだ。そして、目の前のテーブルに無造作に積まれた紙の束を見て言う。
「少し書類の確認をしたいから、ライウェルも休んでていいわ」
「わかりました、では温かい飲み物でも頼んできますねっ」
気遣ってか、ライウェルは近くの部屋に控えている使用人の所へ向かって行く。
テーブルの上の紙の束とは、施術師の研究レポート。一昨日、イェルクに素人でも理解できるように記述しろと言ったが、こんなにも早く提出されるのはローゼにとって想定外だった。優先順位を考えれば書類の確認は後回しでも十分間に合うのだが、ローゼの身体は鉛が纏い付いたように倦怠疲労し、ほんの少しだけ休養を欲していた。だから座って休んでいるついでに書類に手を伸ばしたのだが。
「あ………」
やっぱりね……。案の定、無造作に山積みにされていた紙は雪崩るように滑り落ちた。一息吐いて、ローゼは席を立つと床に散らばってしまった文字で埋め尽くされた書類を「読むのが億劫になりそう……」と呟きつつも拾い集める。そして一瞬、手が止まった。目の前には年季を感じる少し黄ばんだ一枚の紙。
「姫様、ライウェル只今もどりましたー。紅茶と一緒にお茶菓子も用意してもらえます……よ?」
ライウェルが戻ると、上着を羽織り直そうとするローゼ。
「……………あ、れ?」
「ライウェル、また案内を頼みたいのだけど」
4
ぼやけた空の下、正午よりはまだ少し時間がある。
外出の途中から降り出した粉雪を、羽織り物にくっつけながらイェルクは城の横にある林道を歩いていた。林道の中を巡る煉瓦道は何度か除雪作業が行われたが、早くも白い世界と同化し始めていた。氷を帯びていないからいいものの、歩きにくいことに変わりはない。
不安定な道のりを越えて、ひと仕事終えたイェルクはやっとの思いで帰宅をした。
煉瓦道の左右には古民家のような建物がいくつも建っていて、そのうちの一軒がイェルク宅だった。林道の奥先には施術師専用の研究施設と厩舎や鳥小屋も備わっている。その中にも宿泊施設が整い、城の地下に住まう術師が多い中でこのような小さな家に住む術師はもの好きな奴と扱われやすい。イェルクはここで住むと共に、個人の研究も自宅で行っているのだから、もの好きな人間と言われても否定できなかった。
玄関先で肩に積もった雪を払い落として、その後すぐに暖炉に火を灯した。
徐々に鮮やかさが増していく炎を見つめ、長い溜め息を漏らす。
――――どう、伝えればいいのろうか………。
早朝より、イェルクは数名の施術師に協力を頼み、国民達が眠る市街地へ出向いてみたのだった。昨夜のお茶会でローゼに頼まれた国民の安否調査をするために。その結果を報告することが億劫に感じてしまったのだ。
「あなたなら、どう伝えるんでしょうね………」
独り言を囁くように、誰かに問いかけるように声を漏らすと本棚から一冊の本を取り出した。何度も読み返された跡が黄ばんで映るその本は、精神学や心理学など、術師ではない一般人を対象にした学問が書き綴られていた。著者は異国の学者で、知名度は低いものの興味深い内容が記述されている為、彼自身も愛読した本だ。
その最後のページには写真が一枚挿んである。記念に撮ろうと薦めたのはイェルクだった。
この本を譲ってくれた人であり、思わず問いかけてしまった相手。彼に初めて出会ったのは九年も前の話だ。移住してきた彼は術師ではないのに医学に詳しく経験も豊富だったことにイェルクは度肝を抜かれた。それまで術師以外に医者が務まるとは知らなかったから尚更だ。
国王亡命後、本を譲ってくれた彼には会ってない。他国へ行ってしまったのか、それとも眠りに付いてしまっているのか。イェルクは彼の家へ行かなかったことを今更になって後悔した。
もしも悪夢の中にいるのならば、生存を祈るばかりだ。
―――コン、コン………
ふとドアが鳴った。
先ほど別れたばかりの施術師だろうか、来客は滅多にないこと。
本を元の場所へ戻すと、ドアノブを捻った。
「おや? ライウェルちゃんどうしたの?」
訪問者は意外なことに、ベルムートの大切な愛弟子であるライウェルだった。
「ベルムートなら来てないけど?」
「突然、ごめんなさい、あのっ………」
沈んだ顔をした少女の後ろにはもうひとつ人影が。その顔を見て苦汁を飲まされたようにイェルクの口元が歪んだ。
「ローゼ姫―――、こんな所に……どうしたんですか?」
古民家の門を越えてきたのはローゼだった。姫は案内役のライウェルに先に戻るよう命令すると、イェルクを見上げて単刀直入に切り出した。
「イェルク、話があるわ」
昨夜と比べてあまり穏やかな顔ではなかった。よく表情を変える人だと思ってはいたが、簡単に説明すると今は不機嫌なお姫様といえる。寒風が降り続く中、これ以上機嫌を損なわないように家の中へ招いた。
「姫の方から出向いて頂かなくても呼べば僕から伺いましたのに。………僕も後ほど報告したいことがありましたし。寒かったでしょう、直ぐに紅茶を用意しますね」
丁重な素振りで椅子席へ手招いたつもりだったが、ローゼは羽織り物すら脱がずに扉の前で佇んだ。
「ゆっくり話をする気はないの。あなたの報告から聞くわ」
棘のある声に困惑しながらもイェルクは暖炉に薪をさらに積んだ。あまり目を合わせたいと思わなかったからだ。つい数分前まで報告に相応しい言葉を考えていたというのに、その言葉が未完成で繋がっていないのだから慎重に話さなければならなかった。
「……昨日、姫から頼まれたことですが、今朝ほど手の空いている施術師たちと街へ行って調査してきました。それについての報告ですが、やはりハイリンリヒト様の術の上にシュヴァルツ君の魔術が覆い被さっていましたので、両者の魔術供給を停止させる必要がありました。でも幸いなことに赤ん坊や幼い子供たちにはシュヴァルツ君の魔術反応はなく、ただ《魔睡》しているだけだったので無害といってもいいでしょう」
最後に口にした事柄が何よりも喜べたのはイェルク自身だった。けれども喜びに浸る間もなく、姫は傷口に的を射抜く。
「子供以外の生存者の数は?」
火燧を暖炉へ落とすと、イェルクは一瞬口篭った。
「……今朝は二十軒ぐらいしか見ていませんが生存者はいませんでした。寝台に就いているというのに身体中に外傷が多くて……、正直あんな死に方は見たことがありませんでした。雪が降り続いているおかげで腐敗は進んでいませんが、不環境には変わりはありません………」
これでも濁して伝えたつもりだった。職業柄、死体や血には見慣れているため、調査をしている時はとりわけ動揺心というものはなかったが、できることならあの悲惨な場景をまだ若いローゼに見てもらいたくはないとイェルクは思う。責任感の強すぎる彼女が見てしまえば罪悪感に押し潰ぶされてしまうと思ったから。だが、
「―――首が切断されている死体が多かったんじゃない?」
あまりにも、さりげなく、酷薄な一言だった。
イェルクは耳を疑って、静止する。
「悪夢の中の人は首に爆薬が詰まった枷を付けられているわ。一人が死ぬと番号が対になっているもう一人の枷が爆発する仕組み。爆薬は首が宙を舞う程の威力だから皆、即死していたわ」
だから、胴体と頭が切り離されているのだと彼女は涼しい顔をして説明した。
「―――では、今後も生存者捜しを頼むわ」
報告を聞いた若き君主は顔色を変える素振りもなく、命令を指し示すだけだった。
それに御意と言うようにイェルクは頭を下げるしかなかった。
「イェルク」
テーブルの上に叩くように置かれたのは紙の束だった。その重たい音にびくっと肩を上げたイェルクは微かに慄く。
「私の訊きたいことに答えてくれるかしら?」
紙束の一番上の用紙をローゼは摘み上げた。走り書きをしたように起承転結のない坦々とした文章。イェルクは目を細めてその紙を凝視する。その紙は―――――
「………………っ!」
その紙をローゼから奪い取ると、焦ったようにくしゃくしゃにする。
温厚な彼とは思えないほど乱暴な動作から、弁解の言葉はない。
それに比べ、ローゼは一ミリも動かず無表情を保つ。
「年号は確か七年前の冬頃だったかしら?」
そして、歌うように綴った。
「―――夢の中で見る夢は実現する能力と見なされているが、
有りはしないものを実現することは根源に反し、また俗世界の秩序を乱す。
夢が実現する時にだけ見るという時計。
同じ夢を何度もみるということは対象に何らかの精神障害が関わっている可能性がある。
もしくは時計がある空間に魔術的な作用がある可能性も考えられる。
しかし、対象は魔術の知らぬ一般人であるため、
古から伝わる未来を読む予言者と同様のものを夢の中で見る可能性が大いに高い………」
―――でしたっけ? と、最後は疑問形で終える。目の前にいるイェルクに問う為に。
「……………読まれたのですか」
白状するように、イェルクは唾を飲む。
不作法にしまい込んでいた未完成の研究資料。決して『対象』には見られてはならないもの。それが不幸にも研究レポートの中に紛れて彼女の手元へ行ってしまったということ。
「その様子だと読まれて困るものだったのね。私も疑ったわ、その紙以外はすべて医学に関する書類だったから、別の誰かが碌でもない事を書いて、あなたのサインを真似て書いたというのなら疑いを晴らすつもりだったけど――、その焦り具合をみると書いたのはあなた本人ね?」
彼の慌てふためいた表情は、自分が犯人ですと宣言しているようなものだった。ローゼの感情は氷水に身を投げ入れたようにひしひしと冷めていった。
「別に怒ってはいないわ。ただ、説明をしてほしいの。研究対象者の名前は書かれてなかったけど私のことでしょう、その内容は」
「………説明するまでもないでしょう。ここに書いたとおりですから」
イェルクが思い出すのは過去の記憶だった。
あの頃は、雪は降らなかったものの北風が吹雪く陰鬱とした季節。
「ローゼ姫が初めて実現能力を発揮した時を覚えていますか? どんなに優秀な学者でさえ解明できず、実現能力は神の力を分け与えられたモノとあやふやな事を謳って済まされた。僕が尊敬していた学者でさえ研究を断念して素晴らしい能力だと絶賛した。それが許せなかった、学者の誇りを捨てたようで………」
その学者のひとりに、あの本の贈り主も入っていた。イェルクの中では本をくれた彼の褒め称える姿が一番、心を痛めたことを覚えている。どれだけ悔しかったか。
「……でも、悪夢の中に閉じ込められた国民達の様子をあなたは自分の目で確かめたのでしょう? これが予知されたことと言うのなら国民の腹を裂き、手足を切断して、爆破したように首をもいだ犯人が実在するということになるわ。どれだけの手数があればそんな行為を実現できるのかしら? もしもその殺人鬼を捕まえたのなら、私は夢見の実現能力者ではなく予知夢をみていたことになる。それはそれは大発見ね! 今まで誰も解明できなかったことをあなたは解析できたのだから世界中からイェルク様々って称賛されることでしょう。私も自分の能力のせいで、国民を死なせていたのではないと大声を上げて喜ぶことができるわ!」
イェルクの言い分に勝る勢いで、ローゼは声を荒らげた。
人を信用することには共感ができるという安堵感を得ることができ、いつ裏切られるかわからないという恐怖感の両方が付き纏うことをローゼは誰よりも屈辱の感情と共に味わった。己の感情が信用した相手にどれほど傾いてしまうかによって、傷跡の深さも傾く。転んで傷を負ったとしても自力で立て直せるか、暗闇の穴の底まで落ちて這い上がることすらできなくなるか、それらが変わってくる。人間というものはとても小さく愚かな存在だ。一人ではあまりに無力で他人に力を借りなければ長くは生きていけない。
それを知ってしまったから、ローゼは思うのだ。
なんて……、皮肉な生き物なのだろう――――――、と。
イェルクは口を開けたまま血の気を失って佇んだ。豹変してしまった君主を前にして。
「残念ね、あなたは信頼できる人だと思っていたのに。―――イェルク、その紙は暖炉の中へ捨てなさい、これ以上の研究は無意味よ」
もう話すことはないというように、ローゼは踵を返すように動いた。
「待ってください、ローゼ姫!」
焦燥感を露わにしたイェルクは弁明しようとローゼの両肩を掴んだ。その勢いでローゼの背中は壁に強く打ち付けられる。
「無断で調べたことはお詫びします。ですがお願いです、あなたの夢について研究させてください。もちろん、今の契約が済んだ後で構いません。僕はただ事実を解明したいだけでっ」
「放して」
「ローゼ姫、お願いです!」
「叩き斬られたくなければ手をどけなさいっ!」
いつしかローゼは剣を半分ほど鞘から抜いていた。それを見たイェルクは一歩後退るしかなかった。ローゼの左眼は火が灯ったように紅く、麗しい唇からは怒声が溢れる。
ローゼにもう迷いはなかった。
「契約を思い出しなさいイェルク! 確かに私は研究を続けることを許可したわ。でも人の役に立ちたいという意志があったから私は承諾したの。あなたの気高い誇りと欲望を満たす為に研究したいのなら、私の前から消えなさい。私の配下に相応しくないわ―――――」
静かに剣を仕舞うと、ローゼはその場を後にする。
5
屋外へ出たローゼは、強い眼光のまま立ち止まる。
雪は止み、冬風もおさまり、雲間からは陽が覗いていた。
そして、目の前にはベルムート、その後ろに隠れるようにしてライウェルがローゼを待ち受けた。口元から足先まで全身を烏のように黒衣で包んだ彼は用心深く剣を握っている。
「あら、ベルムート。お弟子さんを連れて盗み聞きかしら? ずいぶん悪趣味なのね」
「姫様っ違うんです! 私が勝手に待っていたんです。帰り道に迷われたらって、思って……。そしたら先生がちょうどお帰りになられただけです。盗み聞きなんてしていません!」
ライウェルはベルムートの外套を手で握り締めて冤罪を必死に訴えた。
「あらそう、ならどうして剣を抜いているのかしら? ベルムート」
「俺は護衛役だ、いつどの時に剣を構えようが俺の自由だろう」
ベルムートは振り返り、ライウェルの頭を撫でながら「急に頼んで悪かったな」と謝って、先に戻るように促した。
それを見届けた後、ローゼは腕を組んで言う。
「どうして、ここへ来てるとわかったの? ライウェルが告げ口したかと思ったけど」
「姫が着ている服には《守護印》を描いてある。自分の魔力の痕跡を探すことは容易なことだ」
「へぇ、意外と便利なのね」
その場で長居をする気もなかったローゼはすたすた煉瓦道を歩き出す。その後ろをベルムートが追った。
「ところで、どういうつもり? あんな子供に護衛代行させるなんて」
「……ライウェルは記憶力が良いから城内の地図や隠し扉などパターンを把握している。《守護術》も十分に覚えているから頼んだ。他の無骨な錬金術師よりかは適役だろう」
「ずいぶんと買いかぶっているようね。だからお節介なところまで似るのよ……」
「……愛弟子、だからな」
かけがえのない人を愛おしむような言い方はこの男には不似合いで、少々癇に触った。
けれども、それ以上の話しはせず、師弟関係には口を噤む。
「―――で? 今まで何処ほっつき歩いていたの?」
「野暮用だ。姫が気にすることでない」
「それは私との契約よりも大切な野暮用なの? 私には質問攻めしてくるくせに、自分事は秘密にするのねー」
くるりと身を飜えすと、ずるーい人ねー、と付け足す。
厭味ったらしくローゼは腕を組んで彼を見上げた。本当なら見下げてやりたい気分だったが。
「はぁ………突然、宮殿にいる軍総司令官に呼び出されたんだ、現状報告の為に」
「他には? 軍の大佐が呼ばれたのだから秘事の一つくらいあったでしょうに?」+
ほぼほぼローゼの勘に過ぎなかったが、的は命中していた。
言い逃れできないと察したベルムートは、打ち明けるまで時間を要さなかった。
「軍の再編成を知らされた。残った錬金術師に通達しておくようにと―――」
「……あちらが動き始めると厄介ね………。まさか何か契約してないでしょうね?」
「一週間待つと言われた。だからそれまでにシュヴァルツを止めないと色々と面倒になるな。
宮殿にいる者もシュヴァルツと連絡が途絶えているらしい」
「そう。ならハイリンリヒト卿はこの一件に関して何も携わっていないと言ってもいいわね」
念には念を入れて「持ち帰った情報はそれで全部?」と問い詰めるローゼ。我ながら心配性になったと自覚する。
そして、一瞬の沈黙と、息を吸う間を経て。
「…………姫、人から訊いた話しだから信憑性に欠けるんだが、」
白黒はっきり付けたがる生真面目なベルムートにしては珍しい逡巡。それから口篭るように言った内容は呆れてしまうほど意外で、小もない質問だった。
「シュヴァルツと、婚約していたのか………?」
「………………!」
絶句するローゼ。数ヶ月しか経っていないというのに婚約話が懐かしいと思う。まだ、国王は御健在だった頃だ。国王は次期頭首である二名の仲を円満にしようと必死だった。思い返せば、自身の終期末を気にしていたからかもしれない。だから焦っていたのかもしれない。ローゼの憶測に過ぎないのだけれど、そう思わずにはいられなかった。
あの時、父親の言いつけを守って結婚していたら、今はどうなっていたのだろうか――。
ローゼは小さく身震いする。考えても仕方がない。遅かれ早かれシュヴァルツの企みに変わりはないのだ。この状況下でローゼに賛同して協力してくれる者に感謝をしなくてはならない。
だから、小もない質問でも惑わすような返答は避けるべきだった。
「婚約は、………国王とハイリンリヒト卿が勝手に決めたことよ。それに、初めて会った日から関係は破綻していたわ。私と相性が合わなかったから―――――でも、」
薄い紅色の唇を噛み、歯がゆさが噴火してしまいそうな気持ちを押し殺して続けて言う。
「シュヴァルツ(あいつ)は最後まで〝愛している〟と言ったわ。そう嘘の台詞を口にする最低な奴だった」
銀世界の中、千枝の間に積もった雪がぼたぼた雪崩落ちる音がローゼの声を打ち消すように響き鳴る。むしゃくしゃしているのに、心の奥から底冷えしそうだ。
「婚約していたからってなんだというの? 奴に対して好意は一切持っていないわ」
今はね……、と頭で思っても決して言えない。ローゼが最後まで打ち明けられなかった淡い恋心。今思うと打ち明ける必要性もなく、言わなかったことに安堵していた。
***
ベルムートはローゼの背中を見つめたまま思い出す。最後に総督が言ったことを。
『長年、ハイリンリヒト様が築き上げてきた血筋がやっと安定期を迎えられるのだ。これほど嬉しいことはない―――』と。
ベルムートはその意味を帰路の途中ずっと考えていた。
『シュヴァルツ君はハイリンリヒト様に進言して、お姫様を城まで連れ帰ったそうだ。それを聞いた時は驚いたものだ。それほどお姫様に好意があったのだろう―――』
ハイリンリヒト卿配下の術師の中で《契約》に殉じる者は晩を抜いてシュヴァルツ・B・ハイリンリヒトだ。そう断言しても過言ではない。この世に生を受けた時からハイリンリヒト卿の手の物となり、魔術以外を教わることはなく、機械のように命令通りに動き、感情を示したことがないと噂されるほどだった。そのような凌駕した男がハイリンリヒト卿に進言したことの信憑性にベルムートは疑念を抱いた。夢見の力を利用したいという強い意志でローゼを欲したのだろうか。それとも本当に好意があり、色欲だけが無欲な人間を突き動かしたのか。
だが、その真意をローゼ本人に訊ける訳にもいかず、黙するしか手段がなかった。
「――? ベルムート、急にどうしたの?」
突然足を止めた黒衣の大男に、ローゼは振り返る。
顔半面に包帯を巻きながらも、きょとんとして見上げてくる目はどこか幼さを含んでいた。
すると、ベルムートは片膝を雪の上に置き、白い地面を睨むように頭を下げた。
「……済まない、雑念が湧いたことを詫びさせてくれ」
言って、自分の剣を捧げるように前へ手向けた。
契約を思い直すこと。それは己なりの日課であり、掟でもあった。
契約に殉じることこそが彼の動力となり、揺らがぬ意志を築いてきたのだ。守る者がいれば強くなれると言う者もいたがそれは戯れ言に過ぎない。過酷な戦場に赴けば、神経を尖らせて目の前にいる敵に立ち向かう。ベルムートは戦場の最中、愛弟子であるライウェルのことを思い出したことは一度もなく、それ以外の感情、思考を持てたことが未だかつてなかった。
ローゼは黙したまま、跪くベルムートの姿を見下ろす。
彼は言う。捧げた剣を固く握り締めて。
「己の責務はローゼ姫の命、片腕、両足を守るため護衛すること。その契約を全うする時まで姫に忠誠を誓うことを宣言する。どうか、邪な迷いが生じたことお許しください」
屈服の意を表すベルムート。それを前にして、彼の君主はあろう事か、雪の上に膝を置き、捧げられた剣にふんわり手を添えた。
ローゼはこういった正式な儀式を知らなかった。だから、これが彼女なりのやり方なのだ。
目線を合わせたローゼは、驚きに目を丸くする彼に言う。
「ベルムート、私はあなたの良き主権者になれるよう努力を重ねるわ。それと、あなたが望み続ける限り、護衛を続けてもらうと同時に、あなたの居場所を提供する。悪事や自分の利益の為だけに、この剣を使わせることはないと誓います」
「………姫が跪いてどうするんだ?」
「だってー、術師のやり方なんて知らないもの………ただ、」
十六歳の娘は綺麗な顔で、子供のような笑みを浮かべると、
「裏切ったら容赦なくブッタ斬るから、覚悟しておいてね」
「…………」
一国の姫君だったとはいえ、ローゼはそんなことを平然と言ってみせた。
冬の空模様は変わりやすく、灰色の雲が被さると再び雪時雨が落ちてきた。
「道が雪で埋まる前に戻ろう」
先に立ち上がったベルムートはローゼに手を差し出し、ローゼも立とうとするが――――、
「…………いっ」
ぐらっ――――――、と視界が宙を舞い、ローゼの身体はよろける。
幸い彼の手に掴まっていたおかげで、煉瓦道への転倒は避けられた。
包帯が巻かれた右目の奥が疼くように痛み、左目の視界は霧っぽく霞んでいた。
「おい、姫……、大丈夫か?」
「……ちょっと、目眩がしただけ………だから、」
「疲れが溜まっているのだろ、腕を貸せ」
ローゼが断りを言う前に、彼はひょいっとローゼを抱え上げた。
「頼むから少しは休んでくれ……」
「……ごめんなさい、手間かけて―――」