第十一輪 紫 色 の マ リ オ ネ ッ ト
第十一輪 紫 色 の マ リ オ ネ ッ ト
1
底なし沼に突き落とされるような裏切りを経験した翌朝。右目の奥の痛みのせいで熟睡できなかったローゼの目覚めは最悪なものだった。
ヴァイスが手配してくれた使用人のおかげで、着替えや食事にローゼが不自由を感じることはない。ただ、ローゼ自身の腑が世界を裏返したように一変しただけ―――。
朝食を用意してもらったものの、紅茶しか喉が通りそうもなく、必死に目の痛みを堪えている時だった、如何にも上官の肩書きが書いてあるような敬服姿のベルムートが訪れたのは。
「食事中に失礼する。昨日頼まれていた剣と動きやすい衣服を用意してきた。錬金術師の戦闘服しか用意できなかったが、装飾の重い婦人服よりはマシであろう。念には念をと思い服には身を守る為の《守護陣》を描かせてもらった」
「仕事が早くて助かるわ」
ローゼは剣を受け取ろうと立ち上がったが、ぐらりと身体が揺れて倒れそうになる。咄嗟にベルムートが肩を支えた。
「目が痛むなら無理をするな、姫が倒れては元も子もないのだぞ」
「わかっているわよ、一々言われなくても……、剣の調子を見るから貸して」
ベルムートから剣を奪い取るとテーブルから離れて痛みに耐えながらも四方八方に振り始める。少し動いただけでも息が上がり、ローゼは壁に手をついて言う。
「……まずまずだけど、もう少し軽くならない?」
「《造形の陣》は専門分野ではないから強度が下がる可能性があるが……。とりあえず試してみよう。完成するまではその剣を置いていくが今日は目の痛みが引くまで寝ていた方がいいだろう。後でイェルクに薬を持ってくるよう頼んでおく」
「ええ、よろしく頼むわ………」
右目を押さえながら、ローゼは寝床に縋るように入った。
2
ベルムートが出て行った後、気を遣おうとする使用人たちも部屋の外へ追い出し、ローゼは一人きりになった。それを確認した上で直ぐに身体を起こし、ベルムートが持ってきた服に腕を通し始める。錬金術師の服には前開きのボタンがあり、コルセットも必要としないため一人でも容易に着替えられた。革製の胸当てを付け、黒い外套と軍靴を纏って最後に腰から剣を下げた。今まで着たこともない黒衣はカナリア色の髪を一際目立たせたが、ローゼは嫌いではないと思った。
そして姿見の前で威張るように笑ってやった。
「バカベルムート、私が大人しく寝てる訳がないでしょ――――」
と、朝食の紅茶をいっきに飲み乾して部屋を抜け出した。
痛みが引く様子はなかったが、何もせず時間を無駄にする余裕はなかった。
―――悪夢の中に閉じ込められた国民たちは今も戦い続けているのだ。
ローゼには行きたい場所があった。記憶が曖昧になる、その前に。
初めて地上にある本堂を下り、地下の通路へ足を踏み入れた。陽の光が入らないこともあり、石の壁にはずらりと燭台の行列が続く。昼夜が逆転してしまうほど通路は薄暗く、人影もなく、息を飲むほど地下内はしんとしていた。
時々目の当たりにする、消えては現れる扉の数々はヴァイスが言っていたトラップのことだろう。地下四階へ下りても一度も人には鉢合わせることはなかった。
そして、長い長い石畳の廊下を進むと、薄暗さは一層にして増した。
「…………」
足を止めて、睨め据える先にはタールが塗られた黒く重々しい扉が現れた。
一際、異様な空気を漂わせて、存在してはならぬような異物を連想させる、その扉の奥。
それはローゼが訪れたかった場所。
地図には記されていない、《空白の部屋》――――。
昨夜の会話でヴァイス達はローゼにこの部屋について口を噤んだ。毛嫌いでもするように顔を曇らしたヴァイスと、関わりを持ちたくないように忌避するベルムートとイェルク。
明らかに三人は何かに恐れ、必死に隠蔽していた。不審に感じざるを得なかったローゼはこうして自分の目で確かめる為に《空白の部屋》へ訪れたのだ。シュヴァルツとの因果関係があるのかも不明。本当に恐ろしいモノが潜んでいるのかも不明。
危険行為だと知っていても、この《空白の部屋》を確認する必要があった。いわゆる女の勘を頼りに怪我を覚悟してローゼは剣を抜き、漆黒のドアノブを捻った。
――――――――――。
固唾を呑む。
隙間から覗いた闇の空間。恐怖という冷気が漏れ出し、全身の肌を粟立てた。
扉の奥では昇華したような重々しい煙が充満していた。それが軍靴の足先まで溢れ出す。
それと同時に強い香水の臭いが目と鼻腔を貫いた。様々な種類が混ざり合っているようで特定することは難しい。しかしこの臭いに似たものをローゼは記憶している。
剣を握る手に力を込めて、足をゆっくりと動かす。
空白と呼ばれていた部屋だが、闇の中には幾つもの蝋燭が規律正しく一列に宙へ浮き出ていた。これらが壁に備わっているものならかなり狭い部屋だといえる。道しるべのように一糸乱れず連なった蝋燭たちに誘われるようにローゼは慎重に進んでいく。神経を尖らせ、心拍音を全身に響かせながら、息を殺して歩む。
ここまで来てしまった以上、危惧する感情は鈍っていた。
「…………んっ!」
香水が濃くなったのを感じた。服の袖で口元を覆わなければ意識が先に殺されてしまうほど臭いは行く手を阻んだ。噎せる思いを必死に堪えていた時だった。
―――蝋燭の灯りが途切れた。
「罠に嵌った……」まずその言葉が浮上した。
蝋燭がない、つまり行き止まり。
《空白の部屋》にあったものは暗闇と香水の香りと無数の蝋燭だけ―――。
そんなはずがない――、何もない場所をあの三人が無意味に拒むなんて。何かあるから、何か理由があるから恐れているに決まっている。何かがあるから。何かがいるから。
《空白》なのに何かがあると錯覚してしまうことこそが恐怖の罠だったのか…………?
嫌な汗と最悪の予感が頭を舐めまわす。
行き止まりの冷たい壁に触れ、必死に情報を得ようとした。何もないなど有り得ない。必ずなにかはあるはず。そう錯覚みたく、無我夢中で―――。
しかし真っ平らな壁に、目立った物はない。何も指先には触れない。
焦燥感は窮地へ向かいつつあった。この行き止まりの壁までずいぶんと長く歩いたと思う。もしもこれが罠ならば、もしもシュヴァルツの罠ならば、無様で最悪の結末が待ち受けている。
選択肢はひとつ。直ちに退室すること。そしてその選択したことを行動に移すこと。
しかし心の片隅で何かが引っかかっていた。この胸騒ぎは窮地に追い込まれているせいなのか、暗闇の恐怖に麻痺してしまったせいなのか……、これが正当な思考であるのか、判断力が鈍っていることは確かだった。
壁に背を預け、鳥肌を立たせるほどの冷気を服の上からでも得る。もう一度、暗闇とそこに浮かぶ蝋燭に向き合う―――――――――――、そんな、時だった。
「!」
指輪を嵌めた小指が壁に引っかかった。壁の低い位置にある縦長の凹み。
身を屈めて、その窪みに手を掛けたローゼは迷いなく横へ引いた。
「………………っ!」
瞬く間に夕陽のような閃光が漏れ出し、瞳孔の開いたローゼの目を眩ませる。
まさしくローゼは引き戸を見付けたのだった。
目を凝らした先には橙色の壁に囲まれた、小ぢんまりとした広さの部屋があった。角に配置された四つの壺からは桔梗色の煙が溢れ出し、部屋の中央には天蓋付きの大きなベッドが置かれてある。
羽毛布団を上下に揺らしながら、誰かが横たわっている―――。
ローゼは剣を持ち直すと、天蓋のレースに手を掛けた。
† 3 †
崖のような階段を登り終えた先には再び森が広がっていた。
夜明けたばかりのような、淀んだ暗さの森の中。
奴隷達は階段上で、へたれ座って、仮初めの疲労緩和と、乱れた呼吸を整える。
………………。
生気の象徴である大樹の中で、風もなく、空気は死んでいた。
静寂。
静寂だったが、しかし……
「ぎぃやあああああああああああああああああああああっ!」
雷鳴のような悲鳴が空気を引き裂く。
そして木の枝が連なって折れる音に似た、骨の音が鳴る――――、ばぎばぎばぎッ……!
音がした方には、いつしか黒い巨体の影がいた。
見たこともない獣の形。霊長類のような長い腕に、水牛の足を膨張させたような歪な四肢。
その太い足の下には、胴体が潰れた奴隷の姿。草木に飛び散った生々しい血の跡。
その、黒い毛をした動物が首を上げると、顔の中央にあるひとつの眼球で奴隷達を凝視した。
次の獲物を模索するような仕草で―――――。
咄嗟に、005209番の男の奴隷は近くにいた華奢な腕を掴んだ。
その胸元に描かれるのは009630番の数字。不思議と、相手の番号を見る微かな余裕があった。番の同じ番号ではなかったが、男は女の腕を引っ張って叫ぶ。
「走れっ!」
奴隷達は皆、地を蹴って、黒き魔物から逃げるように森の中へと散らばって行った。
***
死にもの狂いとはまさにこの事をいう。仮面の軍人が話していた《神の下僕》である、黒い獣の襲来から逃れるために一目散に駆け出した『Ⅲ』の奴隷達は見事に隊列を粉砕した。何人が黒き魔物の餌食になり、何人爆死をしたか検討もつかない状態だった。
005209番の男は009630番の女の腕を掴んでいた。二人は幾分走った後に水辺を見付け、その近くの石影で足を止めた。全身を襲う脱力感と倦怠感。全速力で走った末に乱れた息を整えるまでかなりの時間がかかり、話ができたのもその後だった。
「……怪我は?」
男の奴隷が訊くと、女奴隷は未だに息を切らしながら首を横へ振った。
茶髪の隙間から覗く琥珀色の瞳は潤み、恐怖を帯びた色をしていた。
「名前は………、あ」
男は考え込むように口篭った。自分の名前が思い出せない、と。
記憶が薄い。殴られた訳でもないのに、思い出そうとするだけで鈍く頭痛と化す。
「……私も、記憶が曖昧で……」
女奴隷も苦い顔をして言う。
「少し休んでから先へ進もう」
自然と身を寄せ合い、短い会話を何度か重ねて、互いに生き延びることを約束した。
絶望しか目の当たりにしないこの孤島で、少しでも希望を欲していたから―――――――
4
「―――――女の、子……?」
あんぐりと口が開いた。
《空白の部屋》の入口から奥へと進み、さらに隔離された、引き戸の奥の部屋。
ローゼが目の当たりにしたものは、ベッドに横たわる女の子の姿だった。
あまりにも細すぎる身体に、枝のような四肢。蝋燭の光が純粋に彩るほど透き通った肌。ローゼよりも随分と幼く、けれども端正な顔立ちで眠る少女の姿がそこにあった。とても気持ち良さそうに、幸せな夢でも見ているように安らかな表情で寝息を立てている。
なぜこんな所で寝ているのか訊ねようとしたが、ローゼには真似のできない愛らしい寝顔を起こすことはできない。寧ろ想像を越えた出来事に身動きできず、剣を持ち上げたまま固まってしまった。
先ほどの煙の発生源は部屋の角に備わる壺らしいが、この場は意識が飛ぶほど臭くはない。心地良いように鼻腔をくすぐる、シュヴァルツと同じ匂い………。
穏やかな寝顔に、川のように流れる漆黒の髪の少女。
その閉じた目を眺めると、妙な既視感が…………
「…………………んぅ……?」
ベッドが軋む。
ぱっ、と突然、躊躇なく少女の目が開く。
「ひ……………」
虚を突かれたローゼは小さな悲鳴を出して、顔を腕で庇うような格好で剣を持ち上げた。
目をぱちくりさせながら、日々の習慣であるようにゆっくりと身を起こして、顔だけ横に向けた。
「…………あなた、……誰?」
ひ弱な声がする。まだ寝たりないのか、ローゼを訝しんでいるのか、どっちつかずの表情をして、アメシストを連想させるような紫色の瞳で見上げる。
そして、ローゼの全身を上から下まで十分に眺めて、疑問を口にする。
「その剣であたしを切るつもり?」
「………いいえ」
「じゃあなんで持ってるの?」
「………身を、守る為よ」
元々はシュヴァルツに立ち向かう為に構えていたが、そう正直には言えない。
ローゼは剣を鞘へ仕舞うと、できるだけ優しい声を出してみた。
「誤解をさせてしまったことは謝るわ。あなたの名前を聞いてもいいかしら?」
「自分の名前から名乗るのが礼儀じゃないの?」
愛らしい……、ローゼは自分の感想を撤回したくなった。我ながら自分もなかなか生意気な性格をしているが、目上の人に接する態度はわきまえている。これほど酷くはないはずだ……。
「………それは失礼したわ。私はローゼ・F・ブレイラント、この国の姫よ。ご存知かしら?」
「知らないわ……」
少女は興味ないように欠伸をした。
「本当にお姫様なの? 本で見たお姫様はみんな綺麗な顔立ちをしていたわよ。それに可愛らしいドレスと大きな宝石を身につけていたわ」
明らかに見下されたローゼは内心苛立つ。片目を失う前の自分を見せてやりたかった。しかし頭に包帯を巻き、錬金術師の黒衣に剣を下げた姿では何を言っても信用性の欠片もない。
「あたしの名前はヴィオレットよ」
「名字は?」
「名前だけで十分でしょ?」
「私は名字も教えたわ。ここは公平に名乗るのが礼儀というものでしょう?」
仕返しをするようにローゼは唇を細めて言う。少しは牙を向けて怒りだすかと思ったが、予想外に少女は冷静だった。
「…………そこへ座って。上から話されるのは嫌いなの」
ヴィオレットと名乗った少女は近くの椅子に目を向け、ローゼを促した。
不法侵入者をあっさりと歓迎したことに驚きつつも、ベッドの傍へ椅子を寄せて座った。
「あたしはヴィオレット・B・ハイリンリヒト。ヴィオって呼ばれているの。本当はラストラーっていう名字らしいんだけど、お兄ちゃんがこの名前をって…………、どうかした?」
愕然とした。今となって思い返すと、あの既視感はどこかシュヴァルツに似ていたからだった。
「やっぱり、あなたシュヴァルツとヴァイスの妹さんなのね………」
と、信じられないローゼは頭を抱えた。
「驚くこと言ったかしら? 先に言っておくけど、その剣でお兄ちゃんを傷付けたら赦さないんだからね!」
大きな瞳で可愛らしくヴィオレットは睨んだ。シュヴァルツが企んでいることを知っているのかと思ったが、ローゼ自身を知らなかったのだから無知なのだろう。だとしたら―――
「ヴィオはシュヴァルツとヴァイスを大切に思っているのね……?」
「誤解しないでよ、シュヴァルツの方だけなんだからね……。お兄ちゃんだけがお世話してくれるんだから」
「え? ヴァイスや他の使用人たちは?」
「他人が来たのはあなたが初めてよ。それとヴァイスはあたしを毛嫌いしているもの。お兄ちゃんが忙しい時は食事を運んでくれるけど会話はほとんどしてくれないわ。だからヴァイスは兄だとは思ったことがないの」
ローゼはふと思う。昨夜、《空白の部屋》の話題が上がった時のヴァイスの素っ気ない態度。なぜヴィオレットがいるのに何もない部屋と呼ばれるのだろう。それに今まで他人が来たことがないとは、どういうことなのだろうか。
「シュヴァルツとは普段どんな話をするの?」
「あたしよく夢を見るから、その夢の話をお兄ちゃんは聞いてくれるわ」
「私もその夢のお話しを聞いてもいいかしら?」
「……さっきまではぁ………………、あなたが来た時に忘れちゃったみたい」
「前に見た夢でもいいわ」
シュヴァルツがローゼの瞳以外にも《夢》に執着をもっていることを知っただけでも情報は得られた。ヴィオレットならローゼが欲しい情報を素直に教えてくれるかもしれない。
が、しかし――――、
「夢はお兄ちゃんが瓶に入れて持って行っちゃうから、前に見たものは覚えていないの」
「え…………」
絶句して、耳を疑った。思わず前のめりになってヴィオレットに詰め寄る。
「なんで夢を持っていくのか知ってる? その夢を何に使っているのかもっ!」
ヴィオレットはそれを避けるように起き上がり、ベッドから下りた。ネグリジェの裾から覗く足は棒のように細く、成長期とは思えないほど身長は小さい。
「―――人が幸せになる為に……、あたしが幸せになってほしいから研究をしてるって言ってくれたの。その言葉の意味はよくわからなかった、でも優しく頭を撫でてくれたから、それがとても嬉しかったの」
テーブルの上に置かれた冷え切った紅茶を口に含んで、その華奢な少女は薄く笑っていた。
人が幸せになる為………?
それが嘘か本当か、少なくともこの部屋にいる者には知り得ない。
「今日ね、一度もお兄ちゃんが来てないの。夢が切れたら心配して来てくれ…る、のに………」
「! ここへ来るのっ――――」
―――ドサッ……と、突然ヴィオレットは床に倒れ込んだ。
「ヴィオ!?」
慌ててローゼが駆け寄り、彼女の肩を抱いた。ヴィオレットは長い睫毛を優に伸ばして、瞼を閉じていた。ぴくりとも動かず、子供にしては綺麗すぎる表情で眠っていた。
突然の出来事に困惑しながらもローゼはヴィオレットを寝台に寝かせ、安らかな寝顔を眺めた。
「…………シュヴァルツ、あなたの、本当の目的はなに?」
しょうもないことを呟いた後、ローゼは部屋を出た。