第九輪 黄 色 の 眼
第九輪 黄 色 の 眼
† 1 †
物語はまだ続いていた。生存者達は森の端まで辿り着いたようだ。
目の前に聳え立つ門が現れたと同時に先頭に立つ男が足を止める。
――――――― 『 Ⅲ 』
と、アーチ型の鉄製の門の中央には、その番号が刻まれていた。両側には黒豹のような石像が向き合うように鎮座し、通れと言わんばかりにこちらを睨め下げる。
鉄格子の外へ出た時や、武器を背負って船へ乗り込んだ時は始まりではなく、ただの序章だったように。この門が本編の始まりを表しているようだ……、そう感じた。
門の先には急斜面に強引な造りをした石の階段があった。所々に罅や削れた形跡があり、植物の根が足元を掬うように張り巡らせている。足を一歩踏み外し落下でもすれば、ただの怪我では済まないだろう。だが、先へ進む道に選択肢などない。
「……どうかしましたか?」
佇み続ける先頭の男が横へ視線を落とすと、細身の女が男の顔色を窺うように見上げていた。
男は話し掛けられて少し驚いた顔をしていたが、
「いや、なんでもない」と口先を曲げて、『Ⅲ』の門をくぐる。
2
「―――――――――」
………まだ、生きている。
いつの日かの既視感のように、単純な感想しか述べられないほど頭が錯乱していた。
薄ら瞼を開けた先は灯りが乏しく、やけに視界が悪く思う。ローゼは床のように固くて幅の狭い台の上に仰向けのまま寝ていた。何時間この姿勢を続けていたのか検討もつかないが、体に痛みは少なく際立って寒さを感じるわけでもない。ただ倦怠感を強く感じた。この場所に人影や物音はなく、ほんのり薬品と鉄の臭いだけが鈍った五感に触った。
顔に違和感がある………………、悪夢から目覚めて数分後、不意にそう思った。
まだ意識もぼうっとした状態で、未だ視界も不自然に狭い。
重石が纏わり付いたように重たい腕を持ち上げて、違和感を覚えた右顔面に触れてみる。
やけに頬の皮膚が固く、眉毛の下にテープが貼ってある。
「………?」
指の先が違和感に触れた。自身に触れているのに間接的な感触。湿っぽい物が癒着した指先を顔から遠ざけて、狭い視界内に映してみると―――、シュヴァルツの一言を思い出す。
あの薬品庫の場景が脳内で呼び起こされて、それは確信へと満ちた。
「……嘘っ…………いや……………なんでっ…………………」
半信半疑のまま唇を震わせて絶句するローゼ。再び顔面に触れて、眼窩の中に押し詰められた血濡れたガーゼを引っ張りだす。まだ健在している左目から映る、体内から異物が引き釣り出される光景に、戦慄と悪寒で身動ぎできない身体に鳥肌が走った。べったりと血を吸ったガーゼを取り除き現れたのは、
―――――穴。
指が一本入ってしまう穴。あるはずがない場所に存在する穴。
ローゼの顔から、既に眼球が取り除かれていた。
欠陥品と化したローゼのぽっかりと空いた穴。思考が停止しそうだったが、本能的に逃げなければと衝動が鉛のような身体を突き動かす。此処から一刻も早く逃げなければ……!
「きゃあ!」
どしん! と悲鳴を上げてローゼは台の上から転げ落ちる。強打した痛みと、ずきんっと響く頭痛に呻く。無防備な右目の穴からはコップを引っくり返したように血が滴った。
苦痛と恐怖。呼吸が一気に加速した。
壁の向こうから足音が聞こえた。きっと悲鳴と物音を聞きつけたのだろう。
扉が軋みながら開く音、それから誰かが近寄ってくる音……。
あいつだ、あいつがやって来た。来ないでっ、来ないで、嫌だ、私に触らないでっ………!
ローゼは必死に祈った。それと同時に足掻くようにして地を張った。
「ローゼ様! それ以上動かないで!」
――――誰?
初めて聞く声。若そうな、声だった。
しかし、ローゼの頭上に現れた顔は―――――――
「――っ!」
白銀の髪色、切れ長の双眸、見慣れたは、その姿―――――……
「いや! いやだっ!」
「ローゼ様! 違います! 落ち着いてください!」
「や――――――」
残り僅かの力がすっと消え、全身が重力に負けたようにして脱力した。
どうやら束縛する魔術を流し込められたらしく、肩から指先がびくともしない。
現れた彼はローゼの身を仰向けにひっくり返すと、戸惑った様子で言う。
「手荒な真似をしたことお許しください。けれど気付いてほしかったのです………」
もう成す術がないローゼは懸命に平常心を取り戻そうと、浅い呼吸を繰り返す。
嫌な汗がじんわりと流れる中、再度、彼の顔を眺めた。
「………シュヴァルツ………じゃ、ない?」
硝子玉のように黄色く光る二つの瞳。白銀の髪の長さは同じだが、前髪の分け目は中央だった。
「気付いて頂けて助かります」
その言葉と同時にローゼの身体は空気を入れたように軽くなった。
「はじめまして。私はヴァイス・J・ハイリンリヒトと申します。シュヴァルツの弟です」
「………弟!?」
「はい、二歳違いですがよく双子と間違えられるほど似ているようで……、このような場では望ましくないですね。怖がらせてしまい、すみませんでした」
ヴァイスと名乗った彼は当時のシュヴァルツと同じような笑みを浮かべていた。
「私こそ……、間違えてしまい申し訳ないわ………」
「お気になさらず。今は傷の手当ての途中なのですが台の上に戻れますか? 色々と落ち着いてから状況をお話し致します」
「今でいいわ………。私の眼はシュヴァルツに奪われたのね」
ヴァイスは無言で頷いた。この沈んだ表情は明らかに兄に似つかない箇所である。喜怒哀楽が少しはあり、それを顔に出せる人なのだろう。ローゼは寝台へ戻りながら思う。
「今までこの国で起きていた怪奇現象。それはローゼ様に秘められた《眼の魔力》が引き起こしてきたものなのです」
聞き覚えのある解説内容だった。つまり、それは確信的な事なのだろう。
「兄は幼い頃からこの城の後継者ということが決まっていました。誰よりも魔術師の才能を携え、天才と悪才の両方に恵まれていた。その為、ローゼ様の実現能力が発覚した時から綿密にこの計画を企んでいたと思われます。………残念ながら私が気付いた頃には手遅れでした」
「……あなたを責めるつもりはないわ」
「少々厄介な物を見つけたのですが………。もしかして、これは兄からですか?」
と、ヴァイスは仰向けになるローゼの頭上に丸く、光るものを向けた。
そして、ローゼは息を呑む。丸いもの―――シュヴァルツから贈られた蒼石の指輪。
「この宝石に異様な魔力を感じたので、調べさせてもらいましたが………案の定、嫌なことになっていましたね」
ヴァイスの説明は、その後も続いた。
「兄の目的はこの世の神が持つほどの強大な力を手に入れること。そして、この世界をすべて思いのままに……と。この指輪には存在し得ない《神の宝石》を実在すると過程した物語の断片がいくつも埋め込まれていました。それから夥しい兄の魔力量も。一度、見た夢は記憶に残りますから、おそらくローゼ様の実現能力を利用して、この悪夢を実現させてしまったのでしょう………」
ローゼは確証した。明け方、目覚める寸前に見ていた悪夢は古時計の前で見ていたことを。
そして、悪夢は現実と化し、《神の宝石》がある世界が誕生してしまった。その舞台がお膳立てされるのをシュヴァルツはずっと待っていたのだ。嘘の仮面を被って、歯車が動き出すと同時に、ローゼの《眼の魔力》を奪った。―――もはやローゼは用済みも同然ということだ。
「………………嗚呼。……見たわ、その悪夢。頭が痛くなるくらいはっきり覚えてる」
片方の瞼を閉じるとローゼはうな垂れる。
自分の不甲斐なさを、無知さを、取り返しのつかない過ちを、ぐっと噛み締めた。
……あの悪夢を、断片的に脳内で描く。シュヴァルツにしか話さなかった、秘密にしていた悪夢の内容。決して夢の中の、古時計の前で見てはならない、決定的な理由があった。
あの奴隷たちは、間違いなく、ブレイラント領土の国民達だった―――――
「罪のない国民が………………」
心臓が痛む。全身が押し潰されていくような思いだ。
人が銃殺された。自害する者もいた。対の番号の者の首が吹き飛んで死んだ―――
あってはならない、実現してはならない、自分はなんて重罪を犯してしまったんだ……
ヴァイスが、その重たい空気に憚りながらも割って入る。
「………おそらく、術師を除く帝国全土の国民が悪夢の中へ引きずり込まれたのだと思います」
「国民達を一時的に眠らせているのはクラウス・R・ハイリンリヒトと聞いたけど、ハイリンリヒト卿がこれらを目論んでいるの? もちろん同じ名字を持つあなたにも問うわ」
「確かに国民の反乱を防ぐ為に《魔睡》させたのはクラウス様ですが、まだ現状を知らないでしょう。兄が動きを見せたのはほんの数時間前ですから情報はそう広く伝わっていないはずです。国民が眠っていることを知った兄が、運悪く利用したんだと思います。―――もちろん、私がこの状況を把握できたのも、つい先ほどでした」
ヴァイスは両掌をはたはた振りながら、無罪を証明した。
「眠っている国民達はどうなるの?」
「夢の中の夢は現実の世界と繋がっています。夢の中で怪我を負えば、眠っている体に傷が生じ、命を落とせば現実の世界に還って来られないでしょう」
溜め息まじりに話すヴァイスは蒼白の光を手の中に溜めると、指先を揃えて水を注ぐかのように、ローゼの眼球があったはずの穴へ流し込んだ。そして、内部の血管を止血と同時に縫製していき、最後に身震いするほど冷たい義眼が嵌め込まれた。
「私の魔術で治療を行いました。兄よりも魔術治療は得意だと言い切れますが完治は当分先になると思います。くれぐれも無茶はしないでください」
と、ローゼの身を起こし、ガーゼと包帯と馴れた手付きで巻きながらヴァイスは言う。
「間に合えばの話ですが、もしも兄がローゼ様の眼球に支障を与えていなかったら元に戻すことは可能です。―――しかし、もう誰にも止めることはできない………」
処置をしている間に、何度ヴァイスの嘆きを聞いただろうか。
終わりました、という終止符を伝えるとヴァイスは蒼石の指輪をローゼの掌へ置いた。
「……魔力は抜き取っておきました」
何もかもを剥奪された姫君に、唯一残った私物。
ローゼは気遣うヴァイスを押し退けて台から下りた。
指輪を見ると、望んでもないのに思い出してしまう。
―――その日はとても寒く、雪が降り止まぬ薄暗い朝。
悪夢から目覚めた時、見上げた先にはシュウァルツの姿があった。
心配そうに見つめてくるその表情を見て、ローゼは涙を溢れ出たせた。
「……悪い夢?」
ローゼを起き上がらせると、カナリア色の髪を整えて涙を拭ってくれた。
「大丈夫だよ………、」
と言って、雨に濡れた子猫を宥めるようにローゼを優しく抱いた。
しかし微かに彼の肩も震えていた。
寒さのせいだろうか、同情心によるものなのだろうか、それは定かではない。
でも、彼の両腕に熱を感じた。
顔を歪ませて、痛みを分かち合うように、囁き、
「傍にいるから」
嘲笑って、
「愛してるよローゼ、――――――――――――――」
「―――――――腹立たしい!」
血が滲んだガウンを脱ぎ、床に叩き捨てるとローゼは忌々しい回想を自ら打ち砕く。
鉛を纏ったように重たい身体を無理に動かしたせいで息切れを起こし、それでもなお、腸が煮え繰り返りそうなほど傷口の奥が暑くなった。
指輪を握った拳も頭上に持ち上げるが、どうにも捨てることができず、空気を切るように虚しく腕を振り下ろした。
そして抑揚のない声で、後方にいるヴァイスへ問う。
「シュヴァルツは今どこに?」
「……わかりません。ですがこの城にいることは確かです」
「そう――、先に訊くべきだったことだけど、どうして私を助けたの? 理由を聞かせて」
血塗れたガウンの下は、華奢な肩を露わにしたネグリジェ姿だった。しかし身を震わせることなくローゼは振り向いた。それほどまでに腹の内側では怒りが沸騰していたのだ。変貌した紅い眼光にヴァイスは一瞬だけ動揺をみせた。
「……私と兄はそもそも思考回路が違いますから………。今、兄が行おうとしていることは間違っています、決してあってはなりません。あなたを助けたのは、そんな兄に逆らう意味を持ちます」
「ならば、私がシュヴァルツを止める為に殺すという手段を選んでも、異論はないと?」
「文句を述べたり、報復したりする義理はありません」
静かに言うヴァイスは、穏やかそのものだった。
「なら、私は心置きなくシュヴァルツを止めるわ。でも一人で牙を向けてもそれは無能に過ぎない。奴をよく知る者の力を借りたい」
ヴァイスは薄ら口角を上げた。
「私でお役に立てるなら使ってください。ただし、これでは不利益です。条件を提示してもよろしいですか? 術師の世界では何をするにも因果応報が基準です」
「私にできる範囲であれば構わない」
「望む物は――、ローゼ様の今の望みが叶った後にお話ししたいと思います。今はあなたの望みを優先させましょう」
「……いいでしょう。では一刻も早くシュヴァルツを探し出して」
――――結局、蒼石の指輪は、元の定位置に帰ってきてしまった。