かの者、かくの如し
術学の朝は早い。日の出と同時にキューイが正門を開け、一方で厨房では朝食の準備が始まる。食事の用意をするのは住み込みの家政婦であるナイリースである。すでに30年近く術学の運営を助けてきた彼女は弟子たちにとってセランと同じほど頭の上がらない存在だった。そして、それはディルスも同じである。
獣相の修復がなった日の朝食の後だった。
「え? 俺も昼飯の準備、手伝うの?」
「あたりまえじゃないか。弟子はみんな手伝うもの。あんただってそうだったろ」
「いや、俺はもう一人前……」
「何言ってんだい。ひよっこのくせに。それともあんたが12でまだ寝小便垂れていたことでもばらそうか?」
「馬鹿野郎! 関係ねえだろ!」
どっと笑いが起きる。全員の目の前で汚点を暴露され、不貞腐れてそっぽを向く彼の前に野菜の詰まった籠が置かれた。
「ほれ、さっさと皮をむいておくんだよ」
反論を許さないナイリースの言葉にディルスは舌打ちし、右の腰に吊った短剣を抜いた。左手に取ったのは大きな玉ねぎである。玉ねぎに右手の短剣の先を突き刺し、そしてゆっくりと息を吐きつつ、意識を集中させる。短剣を持つ右手の周りに瑠璃の炎が現れ、瞳が青く輝く。
次の瞬間、左手に持った玉ねぎの皮が粉々にちぎれ飛び、きれいに皮をむいた玉ねぎが手に残された。玉ねぎの皮と皮の間で風の術を発動させ、外側の皮を吹き飛ばしたのである。
一瞬で皮をむく術を披露し、得意げな顔をする彼の頭で二重に音が鳴った。
「くだらんことに術を使うでない!」
後頭部にセランの杖と怒号が。
「皮を散らかすんじゃない!」
額にナイリースのげんこつと怒号が。
「痛てえな。これでも結構高度な術なんだぜ」
不満げにつぶやく彼の頭で再び二重に音が鳴った。
「くだらん術を自慢するな!」
後頭部にセランの杖と怒号が。
「さっさと散らかした皮を片付けなさい!」
額にナイリースのげんこつと怒号が。
結局、ディルスはナイフで仕事をすることにした。
だが、物事はそう単純に進まなかった。しばらくして、数人の男の子がイモの皮をむく彼のもとに現れた。
「ディルス、さっきの術を教えてくれよ」
「さっきの?」
ディルスは皮をむく手を止めようともせず、顔を上げようともしない。
「とぼけんなよ。玉ねぎの皮を吹き飛ばしたあれだよ」
「ああ、あれか。だめ」
あまりにも滑らかに伝えられた拒絶の言葉に彼らはその意図を取り損ねた。
「え、え?」
「だから、ダメ」
「いや、そんな。いいじゃん。誰かを傷つける術じゃないんだし。ちょっとぐらい」
「じゃあ、聞くが、どうしてお前たちはあの術を使いたい?」
「そんなの決まってるじゃん。楽だからだよ」
「だろうな。だから、ダメ」
「なんでだよ!」
ようやくディルスは手を止め、彼らのほうを見上げた。その眼光の鋭さは少年たちの意気を萎えさせるには十分なものだった。
「俺が苦労して組んだ術を、ただで教えてもらおうってのか?」
少年たちは反論する言葉を失った。
「そもそも楽をするために教えてもらおうって根性が気に入らねえな」
「じゃあ、何だったらいいのさ」
「これを踏み台にしてもっと優れた術を目指すなら」
芋の皮むきに戻りつつ、静かに、そしてゆるぎない意志を感じさせる口調で放たれたその言葉に少年たちは一言も返せず、退散した。
師が弟子に術を教えるのは、単にそれを使わせるためにではなく、そこから先、まだ誰も到達していない領域へ踏み込むための用意である、という意図を感じ取ったからである。
「ずいぶん良いことを言うようになったな」
少年たちからはちょうど死角になる位置にある揺り椅子で書物に目を落としていたセランの声だった。
「うるさい」
次に来ることが分かっている分、ディルスの物言いが乱暴になる。
「“刃”の術を教えろと大騒ぎしてげんこつと半日の説教を食らった奴とも思えん」
ディルスは何も言い返さない。過去の汚点は汚点である。
「失敗から学び、改善を続けることを成長と呼ぶ。6年前、わしのもとを出た時のお前ではさっきのように教えることはできなかったろう。お前もよい成長を遂げてきたようだな」
セランはやはりディルスの師だった。教えを与えるだけが師の務めではない。自らの力で道を切り開き、高みを目指していくようになった弟子でも、その様子を見守り、成長を認めるのは師の務めなのだ。たとえ、野菜の皮むきに術を使うような弟子でも、成長は成長である。そして精神的な成長は、技術的なそれよりずっと貴重なものなのだ。
「まだまださ」
「うむ。野菜の皮むきに術を使うようではな」
冗談めかした皮肉にディルスの顔が渋いものとなった。