伝説の原点
その翌日、キューイはいつもどおり、日の出前に起きた。
夜着を着替え、寝癖のついた淡い金髪に簡単にくしを通して頭の後ろでひとつにまとめる。机の上には細い銀の鎖を金の指輪に通したものがある。それをとって首にかける。これを肌身離さず身につけている理由だけはセランにも話していない。
簡単に身支度を整えた彼女は前庭に出た。戸を開けたとき、ちょうど朝日の最初の輝きが彼女の身を照らし、その紫の瞳を鮮やかに輝かせた。早朝のさわやかな空気をいっぱいに吸い、毎朝の仕事である正門を開けに行こうとして、その足が止まった。
前庭の中央に人影がある。彼女に左の横顔を見せた形で立つ、ディルスだった。彼は両腕を軽く広げ、人差し指と中指をそろえて伸ばし、ほかの三本の指を握りこむ。するとその両手が瑠璃の炎に包まれた。術士が陣を描くときによく見る体勢である。ディルスが何らかの術を使おうとしているのは明らかだった。
おもむろにディルスは両腕を上げ、正面に指先で大きく紋様を描いた。指先の動きのとおりに瑠璃の炎が残り、陣を視覚化する。
正式な形の炎の紋様だった。見習いであるキューイでさえ、久しぶりに見る。正式な形の紋様は力はあるものの、複雑に過ぎ、何らかの陣に組み込むには効率が悪い。一番初めの修行で使った後は知識以外はほとんど必要ないと思っていた。
そんなキューイの驚きをよそにディルスは炎の紋様から瑠璃の炎を一筋引き延ばした。そしてそのまま右を向いて描いたのは正式な土の紋様だった。
「炎はすべてを大地に返す」
キューイの口から自然と五輝の連なりを教える一節がこぼれた。
ディルスはさらに体を右へひねり、土の紋様のさらに右、炎の紋様の正面に今度は水の紋様を描く。
「大地より水は出でる」
湧き上がる強力な五輝の気配に気づいた弟子たちが建物のあちこちから顔をのぞかせている。
さらにディルスは体を回し、土の紋様の正面に今度は風の紋様を描いている。
「水は風の現身なり」
そして風の紋様から瑠璃の炎を引き炎の紋様につなげる。
「風によりて炎は猛る」
瑠璃の炎で描かれた炎、土、水、風の四つの紋様が一筋の炎でそれぞれつながれ、ディルスの周囲に円環をなす。そしてディルスがぴしりと指を鳴らしたとき、土、水、風の紋様が顕現の形を変えた。
瑠璃色はそのままに、宙に浮かぶ岩の塊、不完全な球形を取って揺らめく水、輝く光の粒の集合にその形を変えている。炎も紋様は消え、ただ猛り、燃え盛る炎の塊となっている。そして、四つの顕現をつないでいた炎の筋は瑠璃色の雷に変化していた。
「雷は輝きの道となる」
ここに世界を構成する五つの輝きがそろった。
これからディルスが何をするかキューイにはわかった。以前の講義で教えられたことがある。だが、わかっていて信じられない。そんなキューイの相反する期待など歯牙にもかけず、ディルスは予想通りの行動に出た。
右手にさらに一塊の炎の顕現を表すと、それを炎に叩き込んだ。追加された顕現を飲み込み、炎が一回り大きくなる。それが炎と土をつなぐ雷の道を刺激し、小さな雷が走ると同時に一回り太くなる。今度はそれが土の顕現を大きくし、連鎖反応は水、風へと続く。そして、風から炎への道が大きくなった次の瞬間、起点であった炎の顕現がさらに大きくなった。
後は留まることのない円環の連鎖である。四つの顕現とそれらをつなぐ雷の道が次々と大きくなり、互いを強めていく。わずかでも平衡が欠ければすべての顕現がばらばらになる不安定な陣をディルスは維持し、加速させていく。
そして、変化の時が訪れる。猛々しく成長した炎の顕現が限界を超えてあふれるかのように、雷を伝って炎のまま土の顕現のほうに流れ始める。わずかに遅れて土、水、風でも同じ現象が起き、そして、炎が土に触れた瞬間だった。円環上の顕現がすべて一体化した。
五つがひとつに溶けあい、光となった。いまや、ディルスの周囲には瑠璃色の光の輪が浮かんでいる。五輝の流れを感じれば、それがディルスの周りを高速で回転しているのがわかる。しかも、それは刻々と力を強めていく。回転はすなわち加速でもあった。
「あれが五輝だ」
キューイの後ろから枯れた声がした。
「五つの輝きを内包し、一体化した光、本来はあれをこそ五輝と呼ぶべきなのだ。もっとも、普段では五輝も顕現もそれほど使い分けを意識していないだろうがな」
独り言にも近いセランの補足を聞きながら、キューイの目はディルスと五輝の輪から離れない。内在する五輝の加速はたやすい。だが、加速できる量には限界がある。一方、体外に顕現として現れた力を光の形にまで戻すのは難しいが、加速できる量に理論上の限界はない。光の輪はますます強く輝き、明らかにその密度を高くしていく。瑠璃色の光がディルスの全身を照らし青く染める。
キューイが見たのはその目だった。スニウスとの戦いのときにも起きていたであろうが、そのときは見落としていたもの。藍色の瞳が瑠璃の光に照らされ、真っ青に輝いていた。”青の目”という彼の二つ名の由来はこれだった。
このときには、異変を感じて起きてきた者も、起こされ、目をこすりながら来た子供たちも、術学の全員が彼の様子に注目していた。
唐突にそれはおきた。瑠璃色の光の輪が、一瞬で収束し、中央にいたディルスの体の中に消えたのだ。そして、呼吸半分ほどの間を置いて、すさまじいほどの瑠璃の炎がディルスから吹き上がった。瑠璃の炎は彼の背中に集まり、ひとつの形を作った。
そこには一対の大きな翼が現れていた。身の丈を肥える大きな翼が、失われていた右も、スニウスとの戦いで切り離した左も、そこに現れていた。
ディルスの獣相、その回復の瞬間だった。セランを除く全員にとって圧倒的な力の象徴、目指すべき目標点、それが痛いほどの迫力と瑠璃色の炎をまとい、両眼を青く輝かせて立っていた。
キューイの体に細波が走った。恐怖ではない。畏怖、尊敬、羨望、憧憬のそれだった。-いつかこの人に追い付く。並べるところまで行く-明確な言葉をなした思いと、彼女自身すらまだ気づかないほどのかすかな思い。すべてが一体となってキューイの内に形を成した。
ラシュヴォーグの双剣、そしてそれに続くファルクの和、これらの伝説の原点はここにあるのだ。