風の娘・激怒
数日後の昼過ぎ、キューイは再び町まで来ていた。セランの術学は歴史こそ古いが、何度かの移転を繰り返しており、今の場所に移ってからは6年ほどにしかならない。帰ってくる弟子はそれ以前に術学を出たので出迎えを頼まれたのだ。晴天に明るく太陽が輝き、暖かな日差しに気持ちが高ぶる。その背にお気に入りの桃色のマントがなびいた。
ラアスの町は小さい。人口千人あまりでは村といってもいいかもしれないが、農村ではない。細い街道沿いの宿場町なのだ。それゆえに小さな町のわりに人の出入りは多く、物流も盛んである。
いつもどおり、飛翔の術でやってきたキューイは地面に降りて周りを見渡した。宿場町であるラアスではいつもさまざまな旅人の姿を見ることができる。定期的に訪れる行商人から、街中とさほど変わらない軽装の者、一目で遠くから来たとわかる重装備の者、そのどれもがラアスに来ては通り過ぎていく者たちであり、キューイも相応の注意しか払っていなかった。
しかし、今は違う。旅姿を見かけると気持ちが高ぶる。何しろ、念願の術剣士の師である。セランという優秀な師につけたことは嬉しいし、感謝もしているが、老年にある事実は覆らない。そこにやってくる術剣士である。興奮するなというほうが無理だった。今日あたり着くだろうというセランの予想にいやでも気持ちが浮き立つ。
「おじさん、先生を尋ねてきた人はいない?」
町に二軒しかない酒場に飛び込むなり聞く。
「いや。来てねえな。どうしたんだい。昨日も似たようなこと聞いていたな。大事な客なのか?」
「うん。ちょっとね。来たら教えて」
それだけを言って飛び出す。もう一軒の酒場へ行こうと踏み出しかけた足が止まり、視線が一箇所に吸い寄せられた。
町を貫く街道はそれなりの幅があり、馬車がすれ違う程度の余裕はある。その道を隔てた向こう側、軽食と飲み物を提供する露天の前に一人の旅人の姿があった。
日に焼けた浅黒い顔はまだ若く、経験より熱意と勢いを感じさせる。今日の気候では少し暑そうななめし皮のマントは風雨に晒されたことが明らかであり、左後ろが大きく突き出しているのは剣を身につけているからだろう。
名はディルス、彼女より十歳年上の二十六歳。六年前の移転と同時に術学を出ている。神は焦げ茶で瞳は藍色。
キューイが聞いていた情報はそれほど多くないし、若くして旅慣れた者も、剣を持って旅をする者も決して珍しくない。髪が焦げ茶で情報と同じなのはただの偶然かもしれない。その旅人が待っていた人だという確証は何もない。それでも、キューイには何か感じるものがあったのだ。
その旅人だけを見て街道を半ばまで渡ったとき、旅人の声が聞こえた。
「この辺にセランって術士がいると聞いたんだが」
「いますよ。ああ、ちょうどそこに先生の弟子のキューイが来てますよ」
先に彼女に気付いた露天の店主の声で男が振り向く。その顔を見たとき、キューイの足は止まった。
瞳は藍色、なのに睨み付けるような目つき、両側が鋭く上がった眉、固く結ばれた口、久しぶりに古巣に帰るような表情ではない。外見は聞いていた話と一致するのに雰囲気が違う。
「お前、セランの弟子か」
低い声音での問いかけも友好的とはいえない。視線や口調だけではない。全身から放たれる圧力も尋常ではない。何より、セランを呼び捨てにした。
「先生に何の用? あんたの名は?」
キューイの返答も棘のあるものになる。
「セランのところまで案内して欲しいのさ。奴に礼をしたくてな」
この表情、この口調で礼という言葉を素直に取ることはできない。キューイのその予想を裏付けるように男はにやりと笑って続けた。
「ま、こいつを使った礼だがな」
マントが動き、男の右手が現れる。その手には抜き身の短剣が握られている。
一瞬でキューイの意識は沸騰した。変わらず男から放たれている圧力など無視し、柳眉を逆立てて剣を抜く。
「貴様! そんなの許さない!」
幸い、彼女の身につけているマントは六分の一円という小さなもので、両肩に乗ってはいるがその布地は背に流れ、動きを阻害することはほとんどない。それに対し、男のマントは少なくても二分の一円、場合によっては三分の二円という大きなものであり、全身をすっぽりと覆っている。しかも皮でできたマントはその重さゆえにも動きに制限を受ける。
沸騰する激情のままに剣を抜いたキューイだったが、思考の一部が冷静にそんな判断を下していたのは彼女の術剣士としての適性を示していたのかもしれない。
とはいえ、その冷静な思考は無駄に終わる。というのも、相手の男との技量の差がありすぎたからである。
あきれたことに、男は跳ねるマントさえも攻防一体の武器として用い、時にはその陰から短剣を振るい、時にはマントそのものを鞭のように叩きつけ、キューイを翻弄した。
男の戦い方を見事といえば、キューイの決断は驚異的でさえあった。何しろ、彼女に実戦経験はほとんどない。にもかかわらず、数回の攻防で相手の実力が自分を上回ることを知るや、ためらいなく後ろに飛んで間を開け、全身の五輝を目いっぱい活性化したのである。
彼我の戦力差を理解し、最も良い戦法をためらいなく選択できる、得がたい資質だった。
活性化した五輝は萌黄の光の粒の形で彼女の手にした剣に流れ込む。師によって剣に打ち込まれた紋様が力を得、キューイの脳裏で明確に形を成し、発動の命を受ける。これが剣を一振りする刹那に起きた。
「は!」
気迫とともに剣から萌黄の雷撃がほとばしった。剣から術に切り替えての一撃。術の雷撃を防ぐには術を用いるしかない。剣士である男にこれを防ぐ手はない。
「うそ……」
呆然とキューイがつぶやく。彼女の放った雷撃は男の掲げた短剣に触れるや、一瞬で消えてしまったのである。
可能な説明は一つしかない。この男は術剣士なのだ。それも、キューイの放った雷撃を一瞬で消し去ることのできるほどの。術による攻撃を防ぐのではなく、消滅させてしまうことは見た目ほど簡単ではないことを彼女は良く知っている。それが意味する男の実力は彼女のはるかに上。
剣においても術においてもキューイは男にかなわない。それを認識した瞬間、彼女の全身に冷たい汗が溢れた。その相手の放つ敵意、その相手と剣を持って向かい合っている事実、それらがさっきまで思いもしなかった覚悟を迫ってくる。すなわち、死。
だが、キューイはただ呆然と迫り来る死を待っていたのではない。むしろ、その逆である。全身は恐怖に縛られ、手足はわなないていても、彼女の思考の一番深いところだけは必死に意識を保ち、今彼女ができること、今彼女がすべきことを必死に探っていた。
そして、たどり着いた答え。
目的とすべきこと:セランを含め術学のみんなをこの男から守ること。
男が倒せるか:不可能。
誰がその力を有するか:セラン先生。
今何をすべきか:先生に知らせ、さらに迎撃の用意ができるまで男を引き止めること。
男と引き止めることができるのは誰か:私自身。
先生に知らせることができるのは誰か:誰でも可能。
思考がそこに達したとき、キューイの意思は固まった。
「ハーゼルンさん! 先生に知らせて!」
視界の隅に見えた馬具屋の店員に叫ぶ。彼は仕事柄馬の扱いに慣れており、若さもあって今まで何度となく町から術学までの連絡役を務めてくれたのだ。
「おう!」
セランの経歴ゆえ、こうしたことがあり得ると理解しているハーゼルンの反応は早い。たのもしい返事を背中に受けてキューイはありったけの五輝を剣に打ち込み、師が与えてくれたもう一つの術を発動する。
術の効果が彼女の全身を包み、肉体的な鍛錬だけでは不可能な速度で男に迫る。そしてなぎ払われる剣。剣が男の首をとらえた。いや、とらえたのはその残像のみ。
キューイの目が男を追う。かわされた、そう思うことさえ停滞。
もてる技量のすべてを持って剣を振るい、下から切り上げる。そこで、止まった。
男の顔が驚くほど近くにある。短剣が彼女の剣を鍔のすぐ上のところで押さえつけている。
息がかかるほどの距離で見上げた男の顔は、意外にもさっきまでの殺意はまったく感じられない、それどころか嬉しそうな表情をしていた。
「あんた! 先生に知らせる必要はないぞ! 俺は敵ではない!」
ちょうど鞍を置いた馬がいたのだろう。馬を引き出したハーゼルンが驚いたように見ている。
それを見ながら男はキューイから離れ、剣を留めていた短剣はマントの内側に消える。
「すまなかったな。俺はディルス。キューイといったな、先生から預かっているものはないか?」
さっきはあれほど鋭く働いたキューイの頭脳が今はまったく動かない。状況の急変についていけない。それを解いたのは昨日、出がけにセランから言われた一言だった。-気をつけなさい。いたずらの好きな奴だったからな。刺客のまねぐらいはするかも知れんぞ。
「あんた、ディルス……さん?」
「そうだ」
「セラン先生のところに戻ってきた術剣士?」
「そうだ。確認しなくていいのか?」
「いまするわよ!」
声を荒げて、キューイは腰につけた小物入れから掌に収まるほどの大きさをした、棒状の透明な結晶を取り出した。結晶の中心では瑠璃色をした炎が揺らめいている。
男がマントの合わせ目から右手を差し出した。その人差し指の先に同じような瑠璃色の炎が突然出現した。キューイが結晶を差し出すと男も自分の炎を結晶に触れるように近づける。瑠璃色の炎が結晶に触れるかどうかというところで、炎は結晶の中に吸い込まれ、結晶内の炎が大きくなった。
それを確認し、キューイは大きく息を吐いた。
「間違いないみたいね。お帰りなさい。ディルスさん」
この炎は力の顕現、または単に顕現と呼ばれるもので、人に内在する五輝を活性化したものである。力の顕現は水、風、火、土、雷のいずれかの形をとり-風の場合は光の粒で現れるが-個人に特有の色を持つ。つまり、キューイの顕現は萌黄の風であり、ディルスの場合は瑠璃の火である。まったく同じ顕現はほとんど存在しないため、簡単な身分証明に良く用いられるのだ。
今回キューイがセランからあずかった結晶体はセランの元に残されたディルスの顕現が封じられており、ディルスの顕現以外では結晶内の炎は消えるよう術が込められている。
これがキューイが男の名乗りを信用できた理由なのだ。
とはいえ、例え先輩術剣士でも許せないことがある。改めてディルスを見上げたキューイの目つきの剣呑さにディルスが軽くおののいた。
「あれは、冗談ですか?」
「おう……」
「冗談で、刺客のまねをしたんですか?」
「ああ……」
「私、死んでも足留めする覚悟をしたんですよ?」
「悪かった」
「本気で、死ぬ気だったんですよ?」
「だから、すまなかった」
結局、ディルスを案内して術学につくまでキューイは決して彼のほうを見ようともしなかったし、その後は一言も話そうとしなかった。