その背に輝く翅を
その日、キューイと向かい合ったディルスは先に五輝を活性化した。全身から吹き上がる瑠璃の炎が背中に収束し、大きな一対の翼を形作る。その目がまっすぐにキューイを捕らえた。
「全力で来い。俺を捕らえてみろ」
キューイは言葉ではなく剣で答えた。萌黄の光の粒を湧き立たせ、宙を蹴って斬り込む。この修行を始めて以来、キューイは一切手加減していない。この十日ですっかりなじみ、楽に発動できるようになった「一閃」に載せ、ディルスを両断する勢いで剣を振り下ろした。
沈黙が術学を支配していた。平然としているのは当事者のディルスと、彼の実力を知るセランだけである。
剣が空を切った。それは昨日までと変わらない。違うのはディルスの動きがまったく見えなかったことである。剣が彼を捕らえたように見えて、それなのに、手ごたえもなく、剣の届かないところに彼は立っていた。
「どこを切っている。俺はここだぜ」
挑発的な声は右後ろからだった。振り向きざまに薙ぎ払う。だが、ディルスの姿は剣の届かない距離に移っている。
「だから、届く距離で剣を振れよな」
萌黄の輝きを伴って剣が三度閃いた。しかし、どれひとつとしてディルスに迫ることさえできない。しかもディルスは剣を鞘ごと持っているだけで、抜こうとさえしない。
-足りない-その思いがキューイを満たした。ディルスを追う速さが足りない。ディルスを捕らえる鋭さが足りない。ディルスの動きを見抜く視力と読みが足りない。
剣を薙ぎ払う。ディルスの姿はその剣の向こう。-もっと遠く!-
下から切り上げる。ディルスの姿は剣よりも上。-もっと高く!-
まっすぐに突く。ディルスの姿は遠くに逃げる。-もっと速く!-
術剣士としての資質であるとどまることのない思考が-もっと-という一言に塗りつぶされ、ただディルスに追い付くことだけにすべての力と思考がつぎ込まれる。
彼女の全身から萌黄の光の粒があふれ出し、一振りごとに剣は鋭さと速さを増す。軽やかに宙を舞い、身をかわすディルスを追い、キューイは真っ青な空に駆け上った。
歓声が上がる。だが、彼女の耳には届かない。そんなものを聞いている暇はない。ディルスに追い付くことしかその目にはない。
「見事だ」
キューイが動きを止めたのはディルスのその声が聞こえてからだった。
「何がですか」
「その翅さ」
言われて自分に注意を向けた彼女の視界の隅に萌黄に輝く薄く透明な翅が見えた。それは彼女の背から伸びている。ディルスの獣相が大きな鳥の羽ならば、彼女が持つのは虫が持つような薄く繊細な翅だった。
それと同時に彼女は自分が今まで来たことのない高い空に浮かんでいることに気づいた。術学の建物ははるか下に小さく見え、こちらを見上げているであろう術学の仲間たちの表情はもはや見極められない。
しかし、この時の驚きが致命的だった。ディルスに導かれるまま、熱狂の中で獣相を解放し、高空へ上った彼女は自分の状況に驚くと同時に熱狂から覚めた。
解放したばかりの獣相は萌黄の光の粒となって散った。キューイの体が支えを無くし、真っ逆さまに地面へ向かって落ちる。「飛翔」を近相としてつかんで以来以来無縁だった落下の恐怖が彼女を襲い、恐怖に縛られて動けなくなる。強烈にぶつかってくる風がさらに恐怖をあおり、ますます動けなくなる。
「風をつかめ!」
ディルスの声が聞こえる。だが、どうやっていたかがわからない。-どうしよう、わからない、飛べない―焦りが募る。目を向ければ術学の建物はさっきよりだいぶ大きくなっている。
「命じろ! 風はお前に従う!」
だが、風は虚しく彼女の指の間を抜けていく。風を掴み、空を踏んで駆けるのはキューイの得意技だったはずなのに、今はなすすべもなく落ちていく。
恐怖の叫びは地上でも起きていた。
全員の目の前でキューイの背に萌黄の翅が開き、それに乗って彼女は空へ駆け上がった。瑠璃の大翼を広げるディルスに導かれ、見る見るうちにその姿は小さくなっていった。
上を向いて高空を眺める彼らの前でキューイの影が急に大きくなり始めた。獣相を解放したことに満足して降りてくるのかと思ったときだった。
「翅がない!」
その叫びは異口同音におきた。そしてキューイの姿は逆さまであること、降下ではなく落下であることが見て取れた瞬間、悲鳴が術学を満たした。
瑠璃の大翼を広げたディルスの姿はキューイの傍らにある。だが、手を貸そうとはしない。
やがて、恐怖に引きつり、取り乱したキューイの顔までが見えてきた。そのとき、男たちが動いた。
ヴォアンはキューイの落下点に走りこんだ。無茶ではあるが、彼にできる精一杯である。
ディルスは両手に瑠璃の炎を沸き立たせ、セランの眼前では朱色の雷が陣を描く。無論、受け止めるための術である。だが、ここでキューイが自分で対処できなければ、彼女の術剣士としての可能性は極めて小さいものとなる。苦渋の選択だった。
地面が近づく。一瞬ごとに恐怖が募り、思考さえままならない。
恐怖の表情でこちらを見ている術学の仲間たちの顔がはっきり見えた。その瞬間、キューイの中で恐怖が限界を超えた。
「風よ!」
破れかぶれの叫び声。恐怖が限界を超えた反動の絶叫だった。
しかし、彼女の獣相はそれに応えた。
ドクンとキューイの中で脈動する何かがあった。自らの中で五輝が加速を始めたのを知覚する。その瞬間、近相である「飛翔」の術の手ごたえに落下の恐怖は消えた。そして、内在する五輝を彼女自身の意思で加速させる。
萌黄の光の粒が彼女の全身から激しく噴き出す。その時、彼女は時の隙間を見た。
すべてが静止して見えた。目を見開き、口に手を当ててキューイを見つめているレイジーの顔がはっきり見える。思わず手を差し伸べて駆け寄り、無謀にも彼女を受け止めようとしてくれているヴォアンの手の開き具合まで見える。真っ白になっている眉に険しい表情を浮かべ、セランが朱色の雷で描きかけた陣すら止まって見える。傍らで、受け止めることと手を出さないこととの葛藤にゆれるディルスの目が見えた。それが、安堵に変わり、彼が静かにうなずいたとき、キューイに時が戻ってきた。
そして彼女は身を起こした。すぐ横に術学で一番大きい建物である講堂の屋根が見える。地上に立つと同じほど自然に宙に立ち、身の内に感じる大量の五輝を背中から吐き出し、そして形作る。
薄く透明な萌黄の翅が一対、その背中に広がった。キューイの獣相の解放だった。
キューイが地上に降り立つと、真っ先にレイジーが駆け寄り、そして抱きついた。レイエン、カーク、フィルアなどの子供たちがそれに続く。
「やれやれ。一時はどうなるかと思ったぞ」
「勢いに乗せて解放させるのはこの失敗と紙一重ですからね。それにしても、ヴォアン、あの状況で受け止めようとするとは」
「いや、それこそ勢いみたいなものさ。実際、俺が受け止めようとしただけでどうにかなるものっじゃないしな」
抱き合って喜ぶ趣味はない男たち、セラン、ヴォアン、ディルスの会話である。
「さて、残りを終わらせてきます」
そういうとディルスは声を上げた。
「キューイ!」
静まり返った中、全員の注目を受けて彼は右の親指で空を指す。
「まだ話すことがある。ついて来い」
そう言って返事も待たずに空に舞い上がった。




