7
……そうして、日々は過ぎていく。
俺は、少し変わったのかもしれない。
アルバイトに費やす時間は少し減った。
その代わり、樋山と遊びに行く時間が少し増えた。
それまで関わりを持たなかったクラスメイト達とも、少しは言葉を交わすようになった。名前を覚えて、他愛もない話題を話すくらいの友人ならば出来ていた。
ゆかりちゃんとは……
正直、気まずい日々が続いたけれども。何時の間にか、元の関係に戻りつつあった。
樋山の家に遊びに行った時に、飲み物を持ってくる。ちょうど盛り上がっていた格闘ゲームに、彼女も巻き込んで一緒に遊んだ。樋山がひとりだけボロ負けしていて、悔しそうだった。
ゆかりちゃんが、からかうように笑って。
樋山が苦笑して。俺も、少しだけ笑った。
少しずつ、少しずつだけど……歩いている気がする。
あの日から、一歩でも。
琴海を失って、立ち止まっていた日々から一歩でも。
でも、忘れたわけじゃない。
忘れられるわけじゃない。
時折ふと、どうしようもなく思い出してしまって。
そんな夜は夢に見て。
朝目覚めた時には、目元が濡れていることもあった。
◇
「……おい」
「…………」
「おい、志麻」
「……え? ああ、何だ」
「何、ぼ~っとしてんだよ?」
どうやら、何度か呼びかけられたらしい。
樋山は眉をしかめてから、心配そうな顔になった。
とある休日。
樋山と出かけた帰りだった。
「このところ、少し変だぜ? 何かあったのか」
「ああ……いや、ちょっとな」
あいまいに、俺は返す。
「そうか? まあ、何かあったら言えよ。大したことはできねえと思うけどさ」
「そんなことないさ……」
「おまえさ……」
樋山は何か言いかけてから――
「いや、何でもない。まあ、何かあったらな」
その先を飲み込んで、また繰り返した。
「じゃあな、また明日」
「ああ、またな」
そうして、俺達は別れる。
日が短くなっている。
この季節、夕暮れから夜まではそれほど長くはない。
俺は、家路を急いだ。
確かに、このところ俺は変かもしれない。
心が不安定になっているのは確かだろう。
隠しているつもりだったけれども、見抜かれていた。
樋山、ゆかりちゃん、クラスの友人。
一度、担任の織本先生にも指摘されたことがある。
少し前だったら鬱陶しく思うだけだったけれども、今では悪い気はしない。
普段は女子生徒にからかわれている印象で、あまり頼りない若い男の先生に――ちょっとだけ、目頭が熱くなってしまった。
だからといって、話すつもりにはなれない。
もう少しすれば、落ち着くだろう。
また、周期が来ただけだ。ひどく思い出す――時々は、そんな時期がある。
やりすごして、見送ればいい。
いつものように。これまでのように。
俺は、少し走るペースを上げた。
夕暮れ時は、あまり好きじゃない。
物悲しくて、切なくて。
心を揺さぶり、かき鳴らすから。
建物の影法師は、ひどく不気味に見えるから。
だから、早く家に帰ろう。
帰って、風呂に入って、夕飯を食べて。
それからは……ゲームでもしよう。
ああ……そうだ、ゆかりちゃんから借りたゲームはまだ途中だったけ。樋山が難しくて投げ出したと言うから、少しムキになってクリアしてしまおう。
そうしたら、ゆかりちゃんとふたりで樋山をからかって――
誤魔化すように、他愛もない思いをめぐらす。
そんな風に浮かんでくる考えは、しかし、
「…………!」
次の瞬間、そんなものは、あっさりとかき消えた――
「…………」
俺は、立ち尽くす。
自分でもどうしてかわからないままで、呆然と立ち尽くす。
俺の住むアパートの入り口の前。
佇むひとりの少女がいた。中学生くらい……あるいは、もっと下かもしれない。黒髪を長く伸ばした、ひとりの少女。どこか古びたセーラー服。
夕焼けを背に、長く伸びた影を足もとに、俺の前に立つその少女は――どこか、現実離れしていた。
その大きな黒い瞳が、まるで俺の心を見透かすようだった。
「……あの、すいません」
涼やかな、声。
一瞬遅れて、それが目の前の少女から発せられたものだと知った。
その幼い外見にはそぐわない、それでいてこれ以上はないというほど似合う声だった。
「あの、あなたはここに住んでいる人ですか?」
「……え? ああ、そうだけど」
「それでは、聞きたいことがあるのですが……ここに志麻友成さんという人は住んでますか?」
「…………」
俺は、胸が高鳴った。
得体の知れない何かに、心臓が早鐘を打ち始める。
「そいつが……どうしたんです?」
渇く喉を飲み込む唾で湿らしながら、言う。
「わたしは、咲楽市から来ました」
「――!」
また、鼓動が跳ね上がる。
咲楽市。
それは、遠く離れた俺の故郷の地名だった。
「咲楽市の友人に頼まれて、志麻友成という人を捜しています」
そう言われて、咄嗟に浮かんだのは――
(……琴海)
絶対にありえない、名前だった。
そんなこと、あるわけない。
あるわけない、じゃないか――
「知りませんか?」
「あ……ああ、ちょっと知らないね」
声は、上ずっていなかっただろうか。
「そうですか……失礼しました」
少女はそれ以上の追求はせずに、軽く頭を下げると背を向けた。
長い髪が、夕日に映えてひるがえる。
「……は、は――」
少しの間、呼吸を忘れていたらしい。
俺は息を切らし、その場でよろめいてしまう。
塀に背中を預けて、息を整える。
「は、あ……」
自分でもわけがわからないほどに、心臓が早鐘を打っている。
奇妙な感覚。恐怖にも似ていて、だけどそうじゃない。あえて言うならば――不意に、隠していた本心を的確に指摘された驚きとでも言えばいいのだろうか。
それも、違う気がする。
「……何だったんだろう」
俺の故郷から、俺を訪ねてきた見知らぬ少女。
俺にとってどういう意味をもつ出来事だったのだろうか。
その日の夜は――明け方まで寝付けなかった。
『むらさきひめ』を読んでくださった方、ここいらからちょっとだけリンクします。本編を読んでくださった方への、ちょっとしたお遊びです。