5
後輩の、告白。
――いいんじゃ、ないのか?
誰かが、そう囁いた。
何時まで、死んだ恋人を想い続けているのか?
そうやって、ずっとひきずって生きていて。
この先も、そうやって生きていって。
誰が、喜ぶんだろう。
きっと琴海だって、そんなことは望まない。
新しい恋を見つけられるのだとしたら。
それでも――
「ごめん」
その誰かの囁きなど無視して、俺の口はそう答えていた。
「そう……ですか」
彼女は、震える声でそう言った。
「あはは……振られちゃいましたね」
その顔は、見えない。
俺は、やっぱり卑怯だったから。
彼女の目を真っ直ぐに見ながら、答えるなんてできなかったから。
きっと、泣きそうな顔をしているんだろう。
無理して、笑おうとしているんだろう。
「その……ごめんなさい。変なこと言っちゃって……兄さんとは、仲良くしてあげてください。わたしのせいで、兄さんとまで気まずくなってほしくはないから……」
彼女は謝って。
自分を振った相手に謝って。
自分の兄のことを、口にして。
「あの、それじゃあ……」
声が、遠くなる。
俺は迷って。
顔を上げて、引き止めようとして。
だけど、迷っていたから遅かった。
そもそも、どんな言葉を言えばいい。
都合のいい言葉なんて、俺には見つけられなかった。
顔を上げた時には、もう彼女の姿はなかった。
「…………」
ふと、彼女の立っていた場所に何かが零れた跡があることに気が付く。
ほんの一滴。
だけど、それはとても、痛い。
痛い?
俺に、ではない。
それは、彼女の痛みだ。
俺が与えてしまった、彼女の心の痛みだ。
目頭が熱くなる。
込み上げてくるものが、あった。
だけど、俺は押し殺した。
俺は、泣けない。
泣くのは、彼女だから。
泣かせてしまうのは、俺だから。
そんな俺が――泣くわけにはいかなかったから。
◇
自宅についた時には、すでに夜になっていた。
あれからまっすぐ帰ることも出来ず、怠惰に時間をつぶしていた結果だった。
見慣れたアパートが、その薄暗い影が、不気味な姿に見えた。
気持ちは沈んでいた。
昼間感じた楽しさなど、きれいさっぱり消えてしまっていた。
全ては、自業自得。俺は、仕方がない。
だけど、この感情を彼女にも押し付けてしまっただろう事実が重くのしかかる。
このままベッドにもぐりこみたかった。
何もかも投げ出したかった。
けれど、そうもいかなかい。
今日は、月の最初の日曜日。その日の夜には、自宅に連絡を入れる約束をしている。
それが――俺が独り暮らしを許される条件だったから。
『……これは?』
――それは、まだ俺が中学生の時。
琴海を事故で失い、その失意からろくに学校に行かなかった日々のことだった。
父さんに呼ばれて、俺はリビングに来ていた。
昼間に父さんが自宅にいたということは、その日は休日だったのだろうか。
その頃は曜日の感覚すらあいまいだったせいで、よく覚えてはいない。
差し出してきたのは、いくつかの冊子だった。見れば、どれも高校の案内。時期を考えれば、当然に進学の話だということか。
進学なんて考えられもしない俺だったけれど、一応は目を通す。
父さんには、素直に感謝していたからだ。
その当時、周囲の人間は俺にとって疎ましいものでしかなかった。
必要以上に干渉してくる奴らとか。腫れ物に触るように、扱う奴らだとか。
突然の事故で恋人を失った俺に――善人面して、うるさく言ってくる奴らとか。
やれ、死んだ恋人を何時まで思っていても仕方ない、とか。前向きに生きるべきだとか。どこかで聞いたような、どこかから借りてきたような、歯の浮く正論を翳してくる奴ら。 鬱陶しくて、眩暈がして、吐き気がした。
そうだったら、いっそ放っておいてくれればいい。
その方がまだましだった。
でも。
父さんは――
父さんだけは違った。
ごく自然に俺に接してくれていた。
もちろん琴海のことには触れずに、それでも決して白々しくなくごく当然といった感じで。
学校を休みがちになった俺にも、無理はしないでいいと言ってくれた。
ただ、俺が一度だけ自分の手首を切り、病院に運ばれた時だけは――
殴られた。
言葉もなく、ただ一発。
下手な責めの言葉はなく、ただ殴った。
だから、その一発はとても痛かった。
殴られたのは、後にも先にもその一回だけだった。
それ以外は、本当にごく自然に。それが、どれだけ難しいことで。それで、どれだけ俺が救われたか、わからない。
だから、義理もあってか俺は学校案内に目を通した。
「……?」
そこで、あることに気が付いた。
どの学校も、地元から通う者のいない学校だった。通うのだとしたら、その近くに住むしかない場所にある高校ばかり。
つまり、自宅から通うのはどれも無理だった。
「……父さん?」
「独り暮らしをしてみる気は……あるか?」
そう静かに言われた時には、軽い失望を覚えた。
いや、本当は軽くなんてなかったけれど――その頃の磨耗していた心ではそのくらいにしか感じられなかったんだろう。
つまり、家を出ろということだった。
父さんも、ついには俺に愛想がつきたってことか……。
無理もない。何時までも死んだ恋人を女々しく引きずっているような俺と、一緒にこれ以上はいられないってことなんだろう。
「勘違いはするな、これは強制じゃない」
「……え?」
「しばらく現状から離れて、新しい環境に身を置くのも選択のひとつと思っただけだ」
「…………」
「選ぶなら、手配は全部わたしがする。おまえは試験に受かるだけでいい。ただ、条件がある」
「……条件?」
「ふたつだ。ひとつ、定期的に連絡は入れること。何がなくてもだ。声だけでも、聞かせろ。もうひとつは、時々は様子を見せに行かせてもらう」
「……あ」
何だ。
父さんは、俺を見捨てたわけじゃないんだ。
そんなことを一瞬でも考えた俺自身を、恥じた。
父さんは、本当に俺のことを考えていてくれる。
今更ながらに思い知って、ほんの少しだけど救われた。
「……わかった」
俺は冊子を手に取り、立ち上がった。
「ちょっと、考えてみる……」
…………。
「……父さん」
「ああ、友成か」
記憶に残るそのままの父の声が、受話器から聞こえる。
そっけなく、ぶっきらぼうな声だった。
それは、いつものことだった。
だけど、その声にはたった一度の呼び出しでつながった。
それも、いつものことだった。
壁にかかった時計を見る。時間は、ちょうど八時を回ったところだった。
第一日曜日の、午後八時。
その時間に、連絡を入れることが約束だった。
おそらく俺から電話がかかってくるのを、電話の前で待っていたに違いない。そんなこと、一度だって、おくびにも出さないけれども。
「何かあったか?」
「え?」
どきり、とした。
短い言葉で。会話と呼ぶには程遠いやりとりだけで――父さんは、そう言ってきた。
「何でも……」
「無理はするな」
取り繕うとする前に、静かな声が遮る。
「…………」
「何かあったんだろう?」
「……父さん」
ただ、それだけで。
たったそれだけの言葉で。
俺の虚勢は、あっさりと砕け散る。
父さんには、かなわない。
父さんには、誤魔化せない。
――だから。
気が付くと、俺は全てを話していた。女々しい感情を、あふれるままに垂れ流す。無様に、不恰好にさらけ出していた。
……ああ。
何だろう。
俺は、本当に何なんだろう。
いつまでもひきずって。女々しく、取り縋って。いつまでも、いつまでも。いつまで――こうやっているつもりなんだろうか。
その結果、誰かを傷つける。
自分自身も、追い詰める。
「……ごめん」
そうして、またそんな言葉を吐いている。
「ごめん……父さん。本当、ごめん……」
その声は、震えている。
――こんな息子で、本当にごめん。
受話器を握る手に、ぽたりぽたりと雫が落ちていく。
今更になって、自分が泣いているのだと気が付く。今頃になって、自分がみっともなく泣いていることを知る。
「――どうして、謝る?」
俺の謝罪に、父さんが疑問で返す。
「…………だって」
俺は――
「おまえは、頑張っている」
静かな声が、心に突き刺さる。
「……父さん?」
「友成、おまえは頑張っている」
『頑張っている』その言葉を、もう一度繰り返して。
「だから、あまり自分を追い詰めるな」
「だけど……今日は……」
ひとりの少女を傷つけたんだ。俺自身の身勝手な執着で、その想いを踏みにじったんだ。「何かも、すぐにうまくいくわけじゃない」
「…………」
「今日はうまくいかなかったかもしれない。だけど、だからこそ明日があるんだろう? 大丈夫だ友成。おまえは頑張っている。一歩ずつでも、確かに前へ進んでいる。だから――無理をしなくていい」
「…………」
俺は、その言葉をかみ締める。
『ごめん』と言いかけて、
「……いや、ありがとう」
――言い直す。
「……ああ」
父さんの声が、少しだけど満足そうだった。
「……明日、か」
受話器を置いてから、つぶやく。
先ほどまで心を覆っていた靄は、完全に消えたわけじゃない。
それでも、幾分は楽になっていた。明日は、樋山と会って……今日のことを話さないといけないな……そう、考えられるくらいには。
本当、父さんにはいつも世話をかけてばかりだ。
すまなく、思う。
そんなことを言ったら、また眉をひそめられるに違いないだろうけれども。
ずっと。
もう、ずっと――
ふと、思い当たる。
今更ながらに。
それとも、今だからこそ……
俺は、恋人を失った。
本当に大好きだった彼女ともう会えなくなってしまった。
それはとても辛かった。
生きながらに、死んでいるような感覚。
かっらぽになって送る日々の、どうしようもないやるせなさ。
でも、それは父さんも同じじゃないか。
幼い頃に死んだ母。
それは、父さんにとってはかけがえのない人だったはずで。
俺は、まだほんの子供だったから。ふと思い返すくらいの、思い出とも言えない記憶しか残っていないけれども。
父さんは――どんな想いだったのだろう。
俺は、一度も父さんの泣き言を聞いたことはない。
毎年その命日には花を手向ける父さんが、母さんのことを忘れていないのは当然だ。
再婚もせずに、ずっとひとりで俺を育ててきた父さんは――どんな想いを抱えてきたのだろうか。
「……頑張っている、か」
ベッドに身体を投げ出しながら、先ほどの父さんの言葉を繰り返す。
それは、父さん自身にこそ相応しい言葉じゃないのか。
俺が、ずっと前に送るべき言葉だったのではないか。
(……やっぱり、情けねえよな)
今は、そんな余裕なんてない。
自分ことで精一杯だ。
一日一日をやりすごすだけで、心も身体も限界だ。
でも。
何時かは――
『父さんも、頑張っているよ』
そんな言葉を、心の底から送れる日が来るのだろうか。
そんなことを考えながら。
とりあえず、明日は友人に一発くらいは殴られる覚悟を決めながら――
……俺は、眠りに落ちた。