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一条琴海。
……彼女と知り合ったのは、中学に入学してからだった。
確か、半ば無理矢理に押し付けられた文化祭の実行委員の仕事で知り合ったはずだ。
一緒に仕事をしているうちに(……と、いうよりも彼女に仕事を手伝わされた気がするのだが)気が合うようになり、学年の終わる頃には付き合うようになった。
実際、正式に恋人宣言をしたのは二年の夏になってからではあったが……一年の春休みからは、ちょくちょく遊びに行ったりする間柄にはなっていた。
彼女と過ごす時間は楽しかった。
別に、将来は結婚したいとか。
ずっと一緒にいたいとか。
そこまで、考えていたわけでもなかった。
それでも――あんな終わりは、予想もしていなかった。
「ねえ、トモ君。桜の伝説って知ってる?」
「桜……?」
「そう……この公園の桜には伝説があるんだよ」
その日。
俺と彼女は、自転車で小一時間かけて花見に来ていた。大きな公園。そこに立ち並ぶたくさんの桜の木。
その日は天気も良く、温かく、吹いていく風も心地よかった。子連れの夫婦や、仲よさそうなカップル連れ、気の置けない友人同士のグループ。平和な花見の光景で、俺も無性に気分がよかった。
きっと、幸せってそういうものだったんだ。
どれもこれも満開の中で――ただ一本だけ、花を咲かせていない桜があった。
ひときわ大きなその木だけが、取り残されたように立っていた。
彼女はその老木をそっと撫でながら、俺にそんな話をしてみせた。
その横顔は寂しそうで、もしかして予感でもあったのだろうか。
後になって思えば、だ。
それから、二ヵ月。
それは、よくある事故の、たったひとつだった。
この国でも日常のように起こり、大半の人間にとっては自分とは関係のないこととして過ぎていくありふれた交通事故のひとつ。
だけど。
その日のひとつには、俺の恋人の名前があった……。
彼女の葬式に、俺は参列しなかった。
その日はちょうど彼女とデートの約束をしていた日だった。
信じたくなかったからか。彼女の死を。
それとも、信じたかったからか。ありもしない奇跡を。
俺は、待ち合わせの場所にいた。
クラスメイトのほとんどが彼女の自宅に集まる中で、俺はひとり駅前のベンチに座っていた。
きっとみんなが泣いている中で、俺はただぼんやりと時間を過ごしていた。
約束の時間は午前十時。
通り過ぎていく人々も、投げかけられている声も、俺には全くの無関係でしかなかった。
ひどく現実味がなく、出来の悪い映画でも、流されているようだった。
俺は興味もなく、見流していた。
三十分過ぎて、空耳に振り返った。
誰もいない。
一時間を過ぎたところで、聞き覚えのある声を聞く。
咄嗟に振り返ると、その声の少女は俺ではない他の誰かのもとへ向かっていた。もう一度聞くその声は、似ても似つかない別人のものだった。
二時間が過ぎて。
三時間が過ぎて。
来ない相手を待ち続けて……気が付けば、夕暮れを迎えていた。
投げかけられる陽射しが、毒々しく染め上げる。
痛いほどに、瞳に突き刺さってくる。
紅い。
赤く染まる世界。
不気味で。
物悲しく。
まるで、どこか遠い世界に連れて行かれそうな気がするほどに。
それが――彼女の世界だったとしたら、俺はそれを望んだかもしれない。
ふと、声をかけられる。
うなだれていた俺は、ゆっくりと顔を上げようとして――
気が付くと、地面を転がっていた。
遠くから、怒鳴り声が聞こえる。
遅れて、頬に痛みが走る。
――誰かに、殴られたらしい。
顔を上げると、誰かが俺を見下ろしていた。
そいつは、クラスメイトの友人だった。
声を荒げて、俺に何かを言ってくる。何を言っているのか、よくわからなかった。
別に、それでも構わなかった。
どうせ、どんな言葉だって、その時の俺には無意味だったろうから。
返事をしない俺に苛立ったのか、もう一度そいつは拳を振り上げてきた。
他人事のようにそれを見る俺に――拳は、届かなかった。
飛び出してきた少女が飛びつくようにして、そいつを止めたんだ。
その少女も、顔見知りだった。
何のことはない。
琴海と仲のいい友人の少女だった。
少女はそいつに向かって何か言い、次に俺を見た。
どうしようもない程に哀しい表情をしていた。
何か俺にも言葉をかけて、ハンカチを差し出してくる。
受け取ろうとしない俺に、半ば無理矢理押し付けてから、少女は友人を連れて行ってしまった。
俺は転げ落ちたベンチに戻り、また待ち続ける。
日が沈んで、夜になる。冷え込んできた。
いい加減に、身体も冷えてくる。それすらも、他人事だった。
しばらくたって、やがて――俺の名前を呼ぶ声がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは父さんだった。
後から思えば――
友人は、俺が葬式にも参加せずに駅前のベンチに座っていたのに腹を立てたんだろう。
彼女の友人は、そんな俺でも許してくれたのかもしれない。来るはずがない恋人を、それでもずっと待ち続けていた俺のことを……少しは分かってくれたのかもしれない。
父さんは、ただ一言。
「……帰ろう」
とだけ言った。
たった一言。
それだけだった。
うなだれる俺に、そっと手を差し伸べて。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
静かに、ただの一言。
だけど。
それでも。
それが、その日初めて意味をもって俺の耳に届いた言葉だったんだ……。