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軽く頭を叩かれて、我に返った。
「あ……」
意識をそちらに向けると、数学教師が不機嫌そうに立っていた。
今は、授業中だった。
場所は、当然に教室。
クラスメイトの視線が集まっているのを、他人事のように感じる。
「志麻君……授業は聞いてましたか?」
「あ……いえ、まったく」
頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めていた俺――志麻友成は、正直にそう答える。
神経質そうな、三十歳ほどの男性教師は軽く溜め息をついてから、
「まあ、その正直さに免じて……いいでしょう。今からは、きちんと授業を受けるように」
「はい」
返事通り、残りの授業時間は真面目に過ごした。
その数学の授業が、本日最期の科目だった。
次に、担任のおざなりのホームルームを終えて、ようやく放課後になる。
部活に精を出す生徒。友人と連れ立って遊びに繰り出す生徒。次々に、教室を出ていく。
俺はそのどれにも該当しないので、さっさと帰宅だ。
教室に残って駄弁っている数人を残して、鞄を肩にかけ、教室を出た。
「志麻」
一階への階段を降りかけたところで、声をかけられた。
「ん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、見覚えのある男子の姿があった。
清潔そうに整えられた黒髪。割と二枚目。背は、俺より少し低い。
まあ、それでも平均よりは高いだろう。
俺は、割かし長身の部類だった。
「樋山か、何だよ?」
樋山俊之。この高校に入学してから、知り合った友人だった。
もっとも、俺には中学以来からの知り合いなどいるはずもないのだが……。
それなりに付き合いのある友人だったが、二年では別のクラスになっていた。
「たまには一緒に帰ろうぜ?」
そう言って寄って来る。
「部活は?」
確か、樋山はサッカー部に属していたはずだった。時折グラウンドで活躍しているそいつを横目に、放課後帰宅することも、少なからずあった。
「何言ってんだよ、昨日からテスト休みだろ」
「……あ、そうか」
うっかりしていた。我ながら、周囲に無関心すぎるかもしれない。
「昨日は、さっさと帰っちまって……迎えに行ったんだぜ?」
樋山は、少し口を尖らせた。
「わりー、バイトがちょっと早めだったんでな」
そんな会話を交わしながら、俺達は歩いていく。通り過ぎた教師に頭を下げながら、玄関に辿りつき、下足に履き替え、校舎を出た。
「そう言えば……ゆかりちゃんは? 一緒じゃないのか」
樋山には、同じ学校に通うひとつ下の妹がいた。樋山ゆかり。つまり、俺の後輩でもあるわけで。樋山を挟んで、それなりに面識はあった。
「お、何だ? 妹が気になるのか」
どこか嬉しそうに、樋山。
「ああ……おまえら、よく一緒にいるからな」
「何だ、そういうことか」
もっと色のある答えでも期待していたのだろうか。
俺のそっけない返事に、樋山は肩透かしを食らったようだった。
しかし、すぐに立ち直り、
「そうだ、テスト勉強やってんのか? って……やってるわけねえか。テスト休みすら、忘れてたんだから」
「まだ二週あるしな。来週からでも、平気だって」
「かーっ、余裕だなあ」
樋山はがしがしと頭を掻いた。
「そんなんで、毎回俺よりも成績いいから腹立つ」
そう言う樋山も、決してそれほど成績が悪いわけじゃない。
「それなりに、復習くらいやってるからな……バイト以外、暇だし」
他に、用事があるわけでもない。
一年の時は、それでも休日は時々樋山と遊びに行っていたからそれなりに時間はつぶしていたのだが……。
二年に上がってからは、クラスの違う樋山とは疎遠になり……新しいクラスで他に友人を作ることもなかったので――割と時間を持て余していたのだ。
「あ、それじゃあよ……今度の日曜、暇か?」
「日曜? ちょっと待て」
ちょうど校門を出たあたりで、俺は携帯電話を取り出す。スマートフォン、アンドロイドなんていうしゃれたものじゃない。古びた旧式の、いわゆるガラケー。
それでも、俺には充分だ。
親指でボタン操作。スケジュールを呼び出し、確認する。
その日は、うまい具合にシフトが入っていなかった。
「ああ、ちょうど休みだな」
「お、グッドタイミングって奴だな。じゃあよ、ふたりで映画でも行く気はないか?」
「は……?」
「いや……だから、映画」
「まあ、いいけどさ」
俺が一瞬戸惑ったのは、樋山が微妙な言い回しをしたからだった。
「よし……じゃあ、十時に校門前でどうだ?」
「めんどくせーよ。俺が直接おまえの家に行く」
「……いや、それはちょっと……困る」
「何言ってんの? おまえ」
「はは……まあ、いいじゃないか」
訝しげに言う俺に、樋山はどこか白々しい態度になる。
「それで……十時な? たまにはいいだろ、外で待ち合わせもさ」
何度か樋山と約束したこともあったが、一度も外で待ち合わせをしたことはなかった。
多分、俺自身が避けていたんだろう。思い当たる節は、ある。
「わかったよ。日曜に、十時な」
まあ、たまには。友人の提案を、聞くのもいいだろう。
人付き合いの悪い俺なんかに、こうやって接してくれるのは、正直ありがたい。
恥ずかしいので口に出したくはないけれど、結構感謝もしている。
樋山の態度にはどこか裏がありそうだったが、追及はしなかった。
単純にめんどくさかっただけなのだが……。
実際、樋山との約束には裏があった。
それを、俺が知るのは三日後の日曜日になってからだった。
◇
駅前近くのコンビニでのバイトを終えて、帰宅。
高校から徒歩で三十分ほどの距離にあるアパートの一室が、俺の自宅だった。少し古いけれども、不便はない。家賃はそこそこで、助かっている。
「ただいま」
返事は、なかった。
玄関の電気をつけて、中に入る。ひとけのない部屋は、物寂しかった。
俺は、とある事情からひとり暮らしをしていた。
母親は、物心がついた頃にはいなかった。
たったひとりの家族である父親とは、離れて暮らしていることになる。
高校はわざと地元から遠い場所を選んだ。仕事で実家を離れられない父親と離れるのは、当然のことだった。
手早く夕食を取り、風呂に入る。
時間は、十時を少し回ったところだった。まだ、一日はそれなりにあった。
リビングで、テーブルに肘をつきながら、何となくテレビをつける。適当にチャンネルをいじってみるけれど、興味を引く番組もなかった。
視線を向けた先の本棚に、昨日買ったばかりのマンガ雑誌があったけれど、読む気にもなれなかった。コンビニのビニール袋に入ったまま、そんざいに詰め込まれている。
俺は、また時間を持て余す。
(……あの頃は、そんなこと考えもしなかったな)
ふと、思う。
彼女がとなりにいた時間はとても早く過ぎて行って……一日があんなにも短かったのに。
今は――こんなにも長かった。