11
たまらずに、俺は駆け出していた。
「琴海! 琴海! 琴海……!」
無我夢中に、何度も名前を呼んで。駆け寄って、抱きしめる。
強く。
強く。
抱きしめた
――つもりだった。
「……琴海?」
彼女を抱きしめたはずなのに、俺が抱きしめたのは俺自身だった。
琴海は、変わらずにそこに立っている。
俺をすりぬけて、そこに立っていた。
「あはは……ごめん」
泣きそうな声で、琴海が笑った。
「ああ……」
急速に意識が冷える。
「……そうか」
俺は乾いた頭で理解して、彼女から離れた。
「……もう、死んでいたんだよな?」
「うん……」
それでも笑う彼女を前に、俺はどんな顔をしていたのだろうか。
きっと、泣いてはいなかったはずだ。
我慢して、押さえ込んでいたはずだ。
泣くのは、かっこ悪いから。
しばらくぶりに再会する彼女の前では、ほんの少しでもかっこうつけたかったから。
「お別れを――言いに来たんだ」
琴海が言う。
変わらないその姿で。
再会した琴海は、記憶にあるよりも小さかった。
それは、当然だった。
あの頃から、俺は成長したんだから。
もう日々を重ねることの出来ない彼女から遠ざかっていくのは――当然だった。
「きちんと、できなかったからさ」
俺が最期に見た琴海は、病院ですでに冷たくなっていた後だったから。
最期の最期に……俺はその場にいられなかったから。
「……そうか。そうだよな」
「あまり時間もないんだ……」
「そうか……」
そんな言葉しか出てこない。
これが本当に最期になるというのに、そんなどうでもいい言葉しか出てこない。それがもどかしくて、やりきれなかった。
もっと、もっと伝えたいことがあるんじゃないのか?
もう、二度と出会えないのだから。
もっと、何か――。
「……あのさ」
「何だ?」
「トモ君、わたしのこと好き?」
「! 当然だろう! 何を言ってるんだよ」
「そう、か」
琴海は少し視線を逸らして、何かを考えるようなそぶりを見せてから、
「それじゃあさ……」
「――わたしと一緒に来てくれる?」
冷たい声で、そんな言葉を口にした。
「ひとりじゃ、寂しいよ」
それは、どういう意味を持つのか。
わからないはずはなかった。一緒に来てくれる? 一緒に来て欲しい。
……ああ、俺も一緒に。
身体が強張る。競りあがってくる冷たい感覚。今まさに、喉元にナイフを突きつけられるような感覚。
そのはずなのに――
「ああ、いいよ」
俺は、穏やかに笑ってそう言っていた。
「……おまえが、そう望むなら」
おまえと一緒にいられるならば、それでも構わない。
差しのばした手は、
「馬鹿!」
乱暴に、振り払われた。
それから、怒鳴られた。
「……え?」
「バカバカバカ、カズ君の大馬鹿っ!」
急に一転して、琴海は喚き散らしてくる。わけがわからなかった。
「な、何なんだよ!」
「馬鹿だから馬鹿って言ったの。わたしと一緒にいたいってのは、死ぬってことなんだよ? 意味わかってんの?」
「分かってるさ!」
俺も怒鳴り返す。
分かってて、それでも――
「――駄目だよ」
静かに、琴海が言った。
明確な拒絶。
寂しいくらいの絶対なる否定。
俺は、息を飲んだ。
「それは駄目。わたしは死んでいて、トモ君はまだ生きているの。だから、そういうのは絶対に駄目なの」
「……琴海」
穏やかに微笑む彼女には、冒しがたい何かがあった。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、駄目。わたしは、お別れを言いに来たの」
「……琴海、俺はおまえが好きだよ」
「うん」
「本当に、本当に、好きだった」
「うん」
「…………~っ!」
同じ言葉を繰り返して。もう、限界だった。
俺はうつむいて、肩を震わす。涙が頬を伝って、ぽたぽたと零れていく。
「ありがとう。わたしも大好きだよ」
「…………」
何か温かいものが、唇にそっと触れた……ような気がした。
「でもね……もう、忘れてもいいからさ」
「…………」
「それだけで充分。トモ君はまだ生きているんだから、わたしのことなんか忘れて――」
――幸せになってほしい。
そんなことを、俺に言うのか。
◇
「嫌だ」
「トモ君?」
「そんなのは、御免だって言ったんだ」
俺は、顔を上げた。
涙でぼろぼろで、そんなみっともない顔を彼女に見せたくはなかったけれども。
それ以上に、これからの言葉を、彼女から目を逸らして言いたくはなかった。
「俺は、忘れない……!」
忘れて、たまるもんか。
忘れてなんて、やるものか。
「俺が好きだった恋人のこと、俺が好きだった一条琴海という少女のことを、俺はずっと覚えている」
「でも、それは……」
とても辛いかもしれない。
とても、苦しいかもしれない。
「それでも、俺は……忘れない。覚えている。今は無理でも、いつかは――笑って話せるようになるまで。……いや、それからもずっと――俺は、おまえを覚えている!」
視界はぐしゃぐしゃだった。だから、琴海がどんな顔で俺の言葉を聞いていたか――
わからなかった。
「……琴海」
無駄とわかっても。
俺は、もう一度彼女に手を伸ばした。
「琴海……琴海」
無理とはわかっていても。
最期に、彼女を抱きしめたかった。
ほんの一瞬でもいい。
もう一度だけ、あと一度だけでいいから――琴海の存在を感じたかったんだ。
「…………トモ君」
それが、彼女の最期の言葉になった。
抱きしめた腕の中に、ほんの少しだけど――
確かに。
ほんの、わずかだったけれども。
――彼女の温もりを、感じることができたんだ。
◇
その場に膝を折って。
しばらくの間、そうしていた。
琴海の姿が消えてからも、俺はまだその残り香にすがっていたかったのかもしれない。
長かったのか。
短かったのか。
立ち上がり、振り返ってもまだ少女がその場に何も言わずにいたのだから――
それほど、長くはなかったのかもしれない。
それとも、少女は待っていてくれたのだろうか。
どちらでも、ありそうな気はした。
「――お別れは、すんだ?」
少し距離を取っていた少女が、ゆっくりと近付いてくる。
少女の雰囲気だけが、先ほどまでの非現実さを残していた。
「……ああ」
俺の言葉に、少女は少しだけ微笑んだみたいだった。
きっと何の打算もなく、ただ単純に……俺が恋人との別れをすませたことを喜んでくれる――本当に、それだけの笑顔。
涙をぬぐいながら、俺は立ち上がる。きっと目は真っ赤だろうから、あまりその顔を見せたくはなかった。
少女は気にした風もなく俺のわきを通り過ぎて、桜に木に突き立った刀を引き抜いた。苦もなく、すんなりと引き抜ける。
何時の間にか雪は止んでいて、咲き誇っていた桜の花も消えていた。
辺りの地面には、当然のように散っているはずの花弁もない。
まるで何もかもが幻であったみたいに。痕跡は、全く残っていなかった。
その日本刀も、溶けるように姿を消す。
それから、少女はそっと老木を優しげに撫でた。
少し見上げた少女の視線の先を追うと、人影が垣間見えたような気がした。
それは、小さな少女にも見えた。
「それじゃあね」
「ま、待ってくれ」
去っていこうとする少女を引き止める。少女は肩越しに振り返り、
「……何?」
「その……でも、どういうことだったんだ?」
「何が?」
「何がって……状況が、よくわからない」
「あなたは、恋人とお別れをしたんでしょう?」
「それは……わかっているけれど」
「…………」
少女は俺に向き直って、少し間を置いてから口を開く。
「あなたの恋人は、死んだ後にこの桜の木にすがったの」
俺は、その桜の木に振り返る。
「この木には、もうひとりの魂が宿っている。わたしは、その魂に頼まれた。彼女と、あなたを再会させて欲しいって。だから、この桜に木に宿った魂が一時的に現世とのつながりが強くなる今日に、わたしの力を込めて、一時的にだけどあなたの恋人の魂を具現化させたの」
「…………」
説明をする少女に、俺は視線を戻した。
「あなたの恋人が、この木に執着があったこと。あなた自身も、この木に対してわずかなりとも縁があったこと。それだけの要因が重なって、成せた再会だった……だから、奇跡だね」
「君も、手伝ってくれたんだ……」
「でも、あなた自身がここに来なかったら結局は無意味だったよ。彼女との思い出を大切にしていたから、最期の道はつながったんだよ……」
「…………それでも」
「?」
少女は小首を傾げた。
「君には、ありがとうと言うよ」
「そう……ありがとう」
俺の言葉に、彼女は小さく微笑んだ。その笑顔に一瞬だけ、心を奪われかけてしまう。
我に返って、眉をひそめる。
「ん?」
俺の怪訝そうな顔に、彼女は訊いてくる。
「どうしたの?」
「……いや、だって、どうして君がお礼を言うんだ?」
色々してもらったのは、俺の方じゃないのか。
だから、少しおかしい。
「ありがとう、って言ってくれたでしょう? 素直にそう言ってもらえるのは、嬉しいことだから」
静かに、だけど、はっきりと少女は言い切った。
それが、本当に本心なのだと。
少女の純真さに、俺は面食らってしまう。
でも。
だからこそ、相応しいのかもしれなかった。
このありえない再会には、その仲人には、彼女こそが……。
「それじゃ、今度こそさよならだね」
言い残すと、身体を翻す。
少女の姿は、夜闇に溶けた。
……不可思議な少女とは、そうやって別れた。
すいません、分量を読み違えました。後1話続きます。
桜の木の伝承には、一応の裏設定があります。機会があれば、別の長編の設定なのですが書きたいと思います。
桜の木に宿った魂も、幽霊みたいなものです。恋人も、もちろん幽霊です。日本刀を持ったこの不思議な少女も、やっぱり幽霊です。みんなお人よしですよね。
けれど……こんな幽霊達がいてもいいと思います。




