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(――琴海)
俺の頭の中で、その名前が爆ぜた。
「――っ!」
俺は、走り出す。
よぎった疑問とか、不安とか、不審とか、そんなものは何もかも置き去りして、俺は飛び出した。
腕をつかまれて、俺は引きとめられた。勢いがついていたから、かなりの痛みが腕を駆け抜けた。
「――おい、志麻どうしたんだよ?」
俺の腕をつかんだ樋山が、声を上げる。
「離せ! 俺は、行かなくちゃならないんだ……!」
痛みにもかまわず、俺は声を荒げる。
「行くって、どこへ?」
「帰るんだよ! 実家に……」
あの公園に。
あの公園の桜の元へ――
「おい、だけどおまえの実家ってここから無茶苦茶遠いんだろ? 今からで間に合うのかよ?」
その言葉で、少しは冷静さを取り戻す。
けれども、その程度のものはすぐに吹き飛んでしまう。
「間に合う、とかそういう問題じゃない! 俺は、行かなくちゃ行けないんだ!」
――琴海が、待っているんだ。
きっと、待っていてくれるんだ。
そんなありもしないことが、その時の俺には真実だった。
「少しは落ち着けよ!」
「離せよ! 樋山」
「――おい、何をさわいでいるんだ?」
そこへ、誰かが声をかけてきた。
小走りに駆け寄ってきたのは、ひとりの教師。
「織本先生」
と、樋山。
二十代半ばくらいの、その男性教師は、俺のクラスの担任でもあった。
「まったく、もう遅いんだから早く帰りなさい」
「…………」
樋山はまだ腕を離さない俺と、教師を見比べてから言った。
「先生、確か先生は車で通ってましたよね?」
「あ? ああ、そうだが……」
「だったら、すいません。志麻を、駅まで送っていってくれませんか?」
「……樋山?」
その言葉に、俺は意外そうな顔をした。その様子にもういいと思ったのか、俺の腕を離す樋山。
「ん? 志麻は、確か電車通学ではなかったよな。この近くで、独り暮らしだったはずじゃ……」
「先輩、急いで実家に帰る必要があるらしいんです。でも、今からだと遅いし……ここから駅までの時間も惜しいんですよ」
ゆかりちゃんが、俺と樋山に代わって的確な説明してくれる。
先生は俺のこと眺め、ほんの少し考えるような素振りをしてから、
「……そうか、わかった。送ってやる」
駐車場の方角へと歩き出した。
歩きながら、内ポケットから携帯電話を取り出した。最近流行りの最新式ではなく、古びた青い携帯電話だった。
「あ、なつみ? ん……悪い。今日ちょっと用事があってさ。少し、遅くなりそうだ」
電話の相手は、奥さんだろうか。
「……樋山。ゆかりちゃん」
俺は、ふたりに向き直る。ふたりは笑って、
「ほら、早く行けよ。急ぐんだろ」
「それじゃあ、先輩」
――そう言ってくれた。
きっと、事情もわからいままに。
◇
「ほら」
助手席に乗るやいなや、先生に何かを放られた。
分厚い本。それは、電車の時刻表だった。
「え?」
「電車の時間、確認しとけ」
困惑する俺にそれだけ言うと、すぐに車を走らせる。
「え~と、八時三十七分の普通が……」
「それだと朱鞠に着くのは九時前後か。都合よく乗り換えはあるか?」
冷静に状況を把握して、問いかけてくる。
「八時五十五分……」
それは、間に合わない。
「――次は、九時三十分」
三十分以上も乗り換えの時間があった。
その時間は大きい。俺は唇を噛んだ。
「よし、それじゃあ直接朱鞠に行ってやる。それだったら、九時前に間に合うだろう」
そう言って、先生は右折した。
「え? その……いいんですか」
すぐ近くの枡崎駅だったらともかく、朱鞠までとなるとかなり面倒なはずだ。
「だって、それ逃がしたら今日中につかないかもしれないぞ?」
それは、そうだろうけど――
「…………いいんですか?」
「ごちゃごちゃ言ってるな。大切な用事なんだろ?」
俺の遠慮を、あっさりと切って捨てる。
「おまえの顔色を見れば、わかる」
「…………」
「そうだ」
ふと、思い当たったと声を上げる。
「おまえ、金はあるのか?」
「……あ」
俺の実家までとなると、電車代もそれなりにかかる。
そこまで気が回らなかった。慌てて財布を確認する。基本的に金を持ち歩かない性格が、裏目に出た。
千円札が数枚。他にいくらかの小銭もあるだろうけど、心もとない。
「すいません、一度アパートに」
けれど、それは致命的なタイムロスだ。
先生は器用に片手で財布を取り出した。
「ほら」
今度は、それを放ってよこす。
「先生?」
さすがに、そこまでは頼れないと思った。だけど、俺がそう口にする前に――
「馬鹿、全部じゃないぞ? とりあえず一枚もあれば足りるだろ。あ! やるわけじゃない。貸すだけだからな」
念を押しながら、今度は左折。
「でも……」
「わざわざ駅まで送って、電車代ありませんでした、だったら間抜けすぎるだろうが」
「…………先生」
「まあ、生徒に頼られるというのは悪くない。おとなしく頼っとけ」
「……ありがとうございます」
俺は言葉に甘えて、一万円札を一枚借りることにした。
◇
朱鞠駅に着いたのは、八時四十五分。
まだ充分に間に合う。
俺は先生に頭を下げて、せめてものお礼ということで手元に残っていた缶コーヒーを押し付けた。
とりあえず適当に切符を買って、ホームに向かう。後で差額は精算すればいい。
電車が来るまでは五分ほど時間があった。
気が付いたら、喉がからからだった。自動販売機でジュースを一本買う。
俺は――
何を、しているんだろう。
電車に乗り込み、少し落ち着いてきた俺は自問する。
自分のとった行動。これからとる行動。
それが、常識から考えれば、どれだけ馬鹿馬鹿しいことか――。
それでも、心に刻み込まれた予感にも似た想い。そのざわめきが、消えはしない。
先日出会った、不可思議な少女。
ずっと前に、恋人から聞いた噂話。
胸によぎるそれらが、どうしようもなく俺を揺り動かして収まらない。
沸き立つ焦燥も、どうしようもないもどかしさも。
ただ電車の進行に任せている今は、どうしようもない。
今は、目的地に少しでも近付いていることを自分に言い聞かせながら――
「……琴海」
その名前をつぶやくことしかできなかった。
◇
「は……はあっ」
咲楽駅に着いた時には、すでに十一時近くだった。目的地となる公園は、ここからまだ遠い。
バスなんて、もう出ているわけがないし。うまくタクシーがつかまるか。いや、つかまったとしてももう運賃を払うだけの余裕はない。
ここから自宅まで駆けて行って、父さんに車を出してもらおうか。
でも、こんな夜中にいきなり押しかけて、うまく説得なんてできるのか――
考えをめぐらしながら、俺は息を切りながら改札を飛び出した。
「――友成」
その瞬間、だった。
俺を呼び止める声が、あった。
聞き覚えがある声。
何度も温かく、俺を包み込んでくれた声。
(……そんな)
ありえない。
そんなの、都合がよすぎる。
あまりにも出来すぎている。
駅前に車を止めて、そこにいたのは――
「……父さん」
確かに。
俺の、父だった。
織本先生、奥さんの、なつみさん。
むらさきひめを読んでくださった方、ありがとうございます。
そろそろ完結いたします。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございます。




