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紅き深淵の魔女  作者: 白毬りりま
彼女が約束を想い出すまで
19/55

?.緑の月1日

 草木も眠る、深い闇の時間。今夜は月がないため、室内は何時にも増して暗く、不気味な程だ。

 眠る少女の翠がかった銀の髪を梳いていた彼女は、穏やかに微笑んでいた美貌を不意に歪めた。身を屈め、少女の耳元に唇を寄せる。


「————絶対に、部屋から出ては駄目よ」


 でないと、怖い悪魔に食べられてしまう。

 子守唄でも歌うかのように眠る少女に言い聞かせ、痛みを堪えるように深く息を吐く。

 彼女は静かに寝台から出ると、硬い面持ちのまま部屋を出た。




 声が、聞こえる。


 浮上してくる意識の中、もぞりと、彼女は毛布の中で身じろいだ。人よりも鋭敏な聴覚の拾い上げる音に、白い瞼の下から煌く琥珀の双眸が覗く。


「…………なに……?」


 気怠い四肢を起こし、彼女は寝惚け眼で辺りを見渡す。


「……おねー、ちゃん……?」


 隣で眠っている筈の、温もりがない。闇の中でもある程度は映る琥珀の双眸を室内に巡らせるが、何処にもその影はなかった。


「おねーちゃん……どこ……?」


 洗い晒しのシーツは硬く、嘗ては温かであった毛布は色褪せている。寝台は寝返りを打つ度に悲鳴を上げ、少し、耳障りだ。

 それでも、ここは彼女の居場所だった。幼い頃からの大半の時を『姉』と共に過ごしている、心安らぐ場所。


 なのに今日はちっとも休まらない。身体も、精神も。

 革紐で首から下げている、お守りと言って『姉』から贈られた翠の石。『姉』とお揃いのその石を握り、彼女は不安に瞳を揺らす。


 声が段々と大きくなってくる。どうやら玄関の方から聞こえてくるようで、次第に足音も聞こえてきた。いくつも、いくつも。乱暴で粗野な足音だ。

 『姉』のものではない。だって彼女は足音がしないのだから。


「…………ぅ……」


 きもちわるい。何かあまりよくないものが、近付いてきている。


 口元を抑えていた彼女は、足音に混ざる女の声に気付いた。牽制するような鋭く厳しいそれは、愛おしい『姉』のもの。

 そのことに気付くや否や、彼女は毛布を纏ったまま寝台から這い出るようにして扉に近付き、ドアノブに手を掛ける。だがドアノブから稲妻が迸り、彼女の小さな手を弾いてしまう。


「っ……!?」

《————絶対に、部屋から出ては駄目よ》


 でないと、怖い悪魔に食べられてしまう。

 頭に直接響いてくる声は、幼い頃から幾度となく繰り返されてきたもの。事ある毎に言い聞かせられてきた言葉に、彼女は扉の前で震える。


 『姉』がその言葉を発する時、必ずと言っていい程、彼女たちにとってとても恐ろしいことが起きる。怖い心を持った人間が現れ、小さな彼女を何処か恐ろしいところへと連れ去ろうとする。


 この部屋には『姉』の守りがあって、怖いものが入って来ることはできない。


 だが————『姉』は?

 彼女は護られていても、『姉』は今ここにいない。



 扉の向こうで、声が聴こえる。野太い罵倒や皿の壊れる高い音、ものの倒れる鈍い振動が伝わってくる。その度に身を強張らせ、小さな身体をかたかたと震わせた。


 ふと……ひとりの女の姿が、彼女の脳裏に思い浮かんだ。紅い髪を持つ、麗しい魔女。

 とてもお優しい魔女様よ————微笑む『姉』の言葉に違わず、花歌の祭りの最中、街で攫われそうになった時に助けてくれた、慈悲深き真紅の魔女。


 愛らしい面差しを歪め、彼女は毛布に縋り付く。透明な雫が、琥珀の瞳から溢れて白い頬を伝う。


 男の怒鳴る声が聴こえてくる。扉の向こうで、『姉』の魔力が渦を巻いている。


「たすけて……ください……」


 たすけてください。たすけてください。

 滲む視界の中、嗚咽を堪えながら彼女は繰り返す。翠の石を力の限り握り締める。


「おねーちゃんを、たすけてください……くれないのまじょさま」


 不意に……怒鳴り声が消えた。不自然な途切れ方に、彼女は首を傾げる。そろそろと顔を上げて扉に近付くが、魔力の一切も感じられなかった。


「おねーちゃん……?」


 ドアノブに触れると、今度は弾かれなかった。恐る恐るドアノブを回し、彼女は扉を開く。思いの外に鈍い音が響いて、彼女はびくりっと四肢を強張らせる。


「お、おねー、ちゃん……おねーちゃん……」


 闇の中に向かって呼び掛けるが、応えはない。そろそろと部屋から出た彼女は、無残な室内の光景に息を呑んだ。

 玄関の扉は壊され、窓が割られている。彼女と『姉』の少ない食器は床に落ちて砕け、食卓の椅子は足を折られてしまっていた。いつも綺麗にしていた廊下は泥だらけで、大きな足跡が無数に付けられている。


「おねーちゃん……おねーちゃん……っ」


 何度呼び掛けても、返事はない。それだけでなく、あれほどたくさん足音と罵声が聞こえたと言うのに、ひとひとり見当たらない。


 この光景は、ただの悪夢ではないのか。

 これは夢で、現実では『姉』が隣で眠っている。朝起きると部屋は元通りで、『姉』が穏やかに笑いながら朝食の支度をしているに違いない。


 そう思うと、何だかしっくりきた。逸る鼓動を抑え、彼女は踵を返し、寝室に戻る。しっかりと扉を閉め、毛布の中に潜り込む。


 これは夢だ。ただの悪夢なのだ。




 そう自分に、言い聞かせたのに。



「…………」


 朝の光を受けて浮かび上がる、荒れた室内の光景に、割れた破片の中に落ちていた、彼女の持つもと同じ翠の石に、彼女は声の限り泣き叫んだ。





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