4-5.花歌の月29日
さむい。
まるで冬の湖中に沈んでいるかのよう。あたりは暗くて、寒くて、だれもいない。
さむい。
精霊たちの気配も感じられない。本当の、独り。
さむい。
とても、寂しい場所。
————さびしい、ばしょ。
「…………ぅ…ん……?」
冷たくて感覚のなかった手が、温かい何かに包まれている。ぼんやりと、薄く開いた碧の瞳が、虚空を彷徨う。
すぐ傍に、誰かがいた。視界はぼやけてよく見えないけれど、とても懐かしい、暁色の……
「ああ……ゆめのつづき、ね……」
「……っ」
「…………あたたかい……」
氷の手を握ってくれる、温かくて大きな手。記憶の中のものとは少し違うようにも思うが……自分のものとは違って皮が厚く、しっかりした手だ。
その温もりが心地よくて、彼女はふわりと微笑んだ。
夢の中だけで出逢うことのできる、わたしのいとおしいひと。わたしの大好きな、とてもやさしいひと。
「でもね……あなたがだれなのか、どうしても、おもいだせないの」
想い出せない。想い出せない。あなたはだあれ? わたしがだいすきなあなた。
「だいすきなのに。だいすきなのに。だれなのか、おもいだせないの」
夢は夢でしかないから。目が醒めれば、また忘れてしまう。
現実には、あなたはそこにいない。現実では、わたしはあなたがわからない。
「だけれど、ゆめなのだもの……」
ゆめなのだから、わたしのおねがいをきいて。
よく見えないけれど、彼が頷いたのがわかった。彼女は譫言のように、お願いする。
「ずっと……ずぅっと……このてをはなさないでね」
目が覚めると、紅く染まった自分の部屋だった。起き上がろうとしたリーティアは、ちょうど自分に縋り付くようにして眠っている精霊に気付いて、目を瞬かせる。
「あらあら……」
窓の外を見ると、日は大分傾いていて、西の空は紅く染まっていた。普段ならば、1日の業務が大方終わっている頃だった。
ぼんやりと窓の外を眺めていたリーティアは、枕元の卓に置かれた器に気が付いた。冷却魔法の施されていた器の蓋を開けると、中から氷菓子が出てくる。果汁を凍らせて作られたそれは、幼い頃に熱を出す度によく食べていたものだ。滅多に手に入れることのできない高価な品だが、魔法を使えばそうでもない。
ベリーから作られて薄紅掛かったものをひとつ取出し、舌の上で転がす。ひんやりと冷たくて、するりと喉の奥へ消えて行った。
「…………」
ふと……リーティアは手を停めた。首を傾げて扉を見る。
扉の外に誰かが立っているようだ。水面を震わせるような穏やかな音と共に、レティアーミュが寝台の傍らに現れる。彼女は真紅の双眸を柔和に細めると、恭しく頭を垂れた。
「おはようございます、リーティア様。ジェラール様がおいでです。如何なさいますか?」
「身内だし、構わないわ。入れてあげて」
「畏まりました」
レティアーミュが姿を消すと同時に、部屋の扉が開いた。開いた扉の向こう、茶褐色の髪の青年が、翠の双眸を丸くして立っている。戸を叩こうとしていたところだったのだろう、不意に開いた扉に、右手が不自然に掲げられていた。
「起きていたのか」
「ちょうど先程、目が覚めたばかりだ」
「気分はどうだ?」
「悪くはないな。面倒を掛けて済まなかった、ジル」
構わないと、彼は苦笑する。
ジルことジェラールは、第1陸上防衛部隊隊長であると同時に、リーティアの従兄である。嫁に出たオーガストの姉と商人との息子なのだが、剣の素質があったため、騎士の道を選び、王家に仕えている。
彼もオーガストに師事したため、リーティアと同じくルーカスの幼馴染であった。付き合いが長く、騎士団においてはリーティア以外でルーカスを諌めることができる人物のため、非常に重宝されている。
ちなみに魔法が幾重にもかけられたこの部屋への入室を許された、希少な人間のひとりでもあった。
ひとりは魔法を無効化して、勝手に侵入してくるが。
しゃりしゃりと、口の中で氷菓子が砕ける音がする。
すぐに立ち去るからと、ジェラールは寝台から出ようとしていたリーティアを押し留めた。寝起きでぼんやりとした面持ちの彼女を見やり……視線を逸らす。
「せめて、何か羽織らないか?」
先程目覚めたばかりの彼女は、言わずもがな寝衣姿だ。これから段々と暖かくなってくるため、生地は少々薄手である。起き上がろうとして捲れ上がった毛布やゆったりとした襟元から、白い足や華奢な首筋が覗き、少しばかり目に毒だった。
ちょうど椅子に掛けられていたカーディガンが目に入り、リーティアに手渡す。彼女は素直にカーディガンを羽織ると、ほうっと息を吐いた。
「……お前に意識される日が来るとは思わなかった」
「まだ死にたくないからな、念のため」
冗談めいた言葉に、リーティアは苦笑した。おおよそ、父親の顔でも思い浮かべているのだろう。オーガストは妻子をこの上なく大事にしている。
尤も、ジェラールの懸念はまた別にあったが。卓に置かれた氷菓子の入った器に、ジェラールは苦笑いを浮かべた。
この部屋は南西に面した角部屋のため、西の空から穏やかな紅い光が差し込む。夕日に照らされ、紅玉の髪は異様な程に輝いていた。
氷菓子を舐めていたリーティアは、ぼんやりとした面差しのまま、口を開いた。
「なにか、夢を見ていた気がする。とても幸せな夢……よく、憶えてないけれど」
「……そうか」
「それだけなら————何も疑問に思わなかったのに」
彼女の纏う空気が、変わった。しゃりっと、唐突な変化に息を呑むジェラールの耳に、氷と噛み砕く音が嫌に付く。
「最近可笑しいんだ。空白の時間が、私の中に存在する」
幾ら想い出そうとしても、決して想い出すことのできない時間。想い出そうとすれば思考が停止して、何を想い出そうとしていたのかすらも忘れてしまう。
訳がわからなくて呆然としていると、『自分』を知っている筈の周りの誰もが、想い出さなくてもいいと囁く。憶えていなくていいと、繰り返す。
そして何よりも、そのことを自分が全く疑問に思わない不自然さ。まるで……魔法でもかけられているかのよう。
「時の魔女でありながら、自分の知らない時間がある。周りは知っているようなのに、誰も口にしない……これほどまでに可笑しいことはあるまい」
紅い睫毛が、夕焼けに彩られた頬に影を落とす。
「父様に母様、レティやルゥたちもそうだ……みんな、みんな…………あの男だって」
白い手で毛布を握り締める。薔薇色の唇を噛み、彼女は俯いてしまった。
窓から差し込んでくる気怠い光に照らされて、この室内だけ時間が停まったかのような————この部屋だけが、自分だけが、外界から取り残されたかのような、錯覚。
俯いた面差しからは、感情が全く知れない。癖のある真紅の髪が隠してしまっているために、余計に。
よくわからない得体の知れなさに、ぞくりと、ジェラールの背筋に冷たいものが走った。
いつもは高く澄んだ声が、低く響く。
「お前は私と従兄妹であると同時に『私の幼馴染』だろう? お前も、私に想い出すなと言うのか?」
「……俺如きが、そんなことを言える訳ないだろう」
俺は、お前を護ることのできる立場にはいないんだ。だから、何も言うことができない。
自嘲気味に嗤うジェラールに、リーティアは複雑だと言わんばかりの表情になった。そのようなことはないとでも言おうとしたのだろうが、彼女が口を開く前にジェラールは話題を変える。
「明日からの講義は、他の騎士に振っておいた。いい加減に休日も返上して働き過ぎだからな、体調がよくなるまでは休んでいろ」
「……ではお言葉に甘えて」
少し休ませろと、お前の精霊にも叱咤されてしまったと嘯くジェラールに、リーティアはくすくすと笑い声を漏らす。せせらぎを思わせるその声は、耳に心地いい。
ふと、彼女の首筋にかかっている銀の鎖に気付いた。視線を辿ると、白い肌の上で、紫水晶の蝶が止まっている。優美な曲線を描く、精緻な銀の細工だ。
「その首飾りは貰い物か?」
「むぅ? 誕生日にってルーカスに貰ったものだが……それがどうかしたか?」
「いや……魔法具以外のものを身に着けているなんて、珍しいと思っただけだ」
「そうかもしれないな」
リーティアは淡く微笑んだ。碧の双眸が、優しい光を湛えて紫水晶の蝶を見つめる。
漸く見ることのできた表情に、ジェラールはほっと安堵の息を漏らした。微笑みと共に差し出された氷菓子の器に、礼を言ってひとつ受け取る。
「…………お前のことも、頼りにしているんだぞ」
氷の欠片が気管に入りかけ、ジェラールは勢いよく咽た。
部屋を辞したジェラールは、今いるのが宿舎の廊下でなければ頭を抱えたい心境だった。
「あいつ……魔女が誰かに頼る意味がわかってないのか……?」
擦れ違う騎士たちが不審げな視線を送って来るが、構っている余裕がない。取り敢えず、自分の部屋に帰るために足を動かしている状態だった。
リーティアは基本、貰い物は身に付けない。一度彼女の存在を快く思わない者から暗殺目的の贈り物があり、それからは無意識の内に拒むようになっていた。無意識のうちに慎重になって、悉く危険分子から遠ざかろうとする。
「たとえ、そのことを憶えていなくても」
彼の独り言は、床の上に落ちて消えた。
彼女が約束を想い出すまで あと265日