4-2.花歌の月28日
不意に視界の隅で閃く紅。顔を上げるのとほぼ同時に、ルーカスは反射的に傍らの剣を抜いた。高い金属音が響き、手に軽い衝撃が走る。
「…………何やってるんだお前」
「歴とした講義だが?」
しれっと言い放ったリーティアに、ルーカスは半眼になる。斬りかかって来た華奢な四肢を押し返し辺りを見渡すと、彼女の担当している見習い騎士たちが、戦々恐々とした面持ちで突っ立っていた。
彼女は剣を引くと、見習いたちを見渡して宣った。
「と、このように何時何処で何が起こるかわからない。危機は何処にでも潜んでいる。常に気を引き締めるように」
「お前が一番の危機だ」
教官面した彼女の、澄ました貌が気に喰わない。意趣返しに、ルーカスは無言でリーティアを後ろから抱き上げると、幼い子どもにするように振り回した。
「で、実際は何の用だ」
振り回されて軽く目を回したリーティアは、ふらふらしながらも自力で地を踏み締める。落ち着いたのか、碧の瞳で真っ直ぐに見上げて来た。
「暇なら少々協力をしてくれ」
彼女が自分に頼みごとをするなんて珍しい。それ以前に、彼女は自分を起こすためだけに剣を抜いたのか。
色々と言いたこともあったが、やはり彼女の頼みというものが珍し過ぎて、ルーカスは躊躇なく頷いた。
「いいぞ」
「では呼ぶまで待っていろ」
いそいそとリーティアの傍らに控えるルーカスに、見習いたちは物言いたげな視線を向けた。
「団長、教官の子どもみたい」
「副長のことよりも教官の言うことの方が、聴いている時あるよね」
こそこそと小声で話をしていた見習いたちは、ぎろっと紫の双眸に睨まれ、慌てて口を閉ざした。リーティアはちょうど余所を向いていたため、気付いていない。
「先日、お前たちには魔法使いとしての構成式を教えたからな、今日は私たちの魔法について、講義を行おうと思う」
私たちと、その言葉が示すのはリーティアとルーカスだ。ルーカスの魔法ということに、見習いたちは互いに顔を見合わせた。
ルーカスは魔法使いではなく、純粋な剣士だ。ルーカスが魔法を使う様を見たことのない見習い騎士たちは、どうしても彼と魔法を結び付けることができなかった。
困惑する彼らを余所に、リーティアの講義は滔々と続く。
「普段お前たち魔法使いたちが使うのは、魔法式と呼ばれるものだ。今までの復習だが……ベルガ、要点を説明をして御覧」
「は、はいっ!」
ルーカスが見ているということもあり、名を呼ばれた少年は飛び上がるようにして立ち上がった。緊張で顔を強張らせる少年に、ルーカスは苦笑する。
「魔法式は、魔法使いが魔法を使うために組み立てる構成式のことで、精霊文字を用いて、中心から第1列に属性、第2列に対象物までの座標、そして自然に対する『願い』を第3列に組み込みます」
「よし、ちゃんと復習しているようで何よりだ」
満足げに頷くリーティアに、ベルガはほうっと安堵の息を吐く。
「魔法式は世界に対する願いを表したもの。人間が世界の事象と交渉する、唯一の方法だ」
ただ人間の都合を押し付けるだけではなく、自然の声に耳を貸し、調和を望む。それは、人と人との対話のようなもの。
「だが、自然に対し隣人程度にしかなり得ない魔法使いたちの『願い』は、それほど強くあれるものではない。人間が人間に頼みごとをするよりも、『願い』というものは遥かに不確かで曖昧なものということもあるが……第一、魔法使いは自然の中でそう上位にいる訳ではないんだ」
自然界において、精霊たちからしてみれば魔法使いはただの隣人だ。近くにいて偶にすれ違って挨拶を交わす、ただそれだけの存在。
挨拶程度では、魔法を起こすことはできない。だからまず『属性』という比較的明確な核を得て、興味を惹き付ける。そして精霊たちが関心を示したところに、ただの挨拶から対話に発展させるのだ。
「明確な話題があれば、興味ある相手ならば話に乗ってくれよう。火属性ならば焔の精霊が、水属性ならば水の精霊が、気紛れでお前たちの魔法式に応えてくれる筈だ」
肯定を示す見習い騎士たちを見渡し、リーティアはそう説明をする。
「対し、私たち魔女が用いるのは命令式と呼ばれるもので、構成式に『願い』の代わりに『命令』を組み込んで行使するものだ。以前にも申した通り、私たち魔女は魔法使いよりも自然に近い存在……いや、その存在自体が人ならざる者だ」
リーティアは予め持って来ておいた黒板に、白墨で三角形を描いた。そこに横線を何本か加え、見習いたちに見せる。
「存在の確かさと力の強さによって、人ならざる者にも人間のように階級のようなものがある。この三角形を人外の階級を表しているとすると、魔女はこの辺りだ」
そう言ってリーティアが示したのは、三角形の中腹より少し上あたりを示した。図で見ると、魔女は人ならざる者たちの中では、かなり上位に位置している。
「下位の精霊たちからしてみれば、私たちは上司のようなものだ。ちょうど、お前たちとこの男のような関係だな。そのために私たちの『命令』は人間の『願い』よりも強固なものであり、構成式に置いては属性よりも強い核となれるんだ」
彼女の話を、見習いたちは真剣な顔をして書き留めている。その熱心な姿に、ルーカスは微笑ましく思った。自然と目を細め、思う。
「昔のお前も、素直だったのになぁ」
「――――協力を願ったのはこちらだが、無駄口を叩くのならば今すぐにでもジルを呼んで連れ戻して貰おうか?」
感情の見えない冷ややかな声に、ルーカスは肩を竦めた。リーティアはこめかみを押さえてまだ何か言いたそうにしていたが、講義中だからとそれ以上は言わなかった。代わりに、講義の続きのために口を開く。
「命令式は魔法式とは違い、第1列に『命令』を組み込む。そして第2列に属性を、第3列に対象物までの座標が来る。また更に細かいことや調節は第4、第5と、まあ魔女の個体差はあるがやろうと思えば、幾らでも命令式を複雑化させることができる」
リーティアの白い右手に、紅い命令式が現れた。細い線と精霊文字が緻密に絡み合って、レースのように大きく広がったそれは、第12列まであった。
破綻なく繊細に編み上げられた完璧な構成式に、魔法使いの卵たちは感嘆の溜め息を漏らす。
「残念ながら魔法使いと言えど、人間には精々第5列が限界だ。これは人間の脳が構造上、複雑な作りになっている精霊文字の理解に向いていないからだ。精霊文字自体が既に絶えて等しく、魔導書の中だけのものになっていることも大きいだろう。そもそも、神代に精霊文字を解した者もかなり少なかったしな。命令式と魔法式の複雑化を関連付けて見るのなら、複合魔法というものもあるが、これはまた今度の機会に話そう」
ルーカスはふと……紅い命令式の端が揺らいでいるのに気付いて眉を顰めた。普通なら気にも留めないような、ほんのささやかな揺らぎだ。しかしすぐにその揺らぎは消えてしまう。
気のせいだったのだろうか。
リーティアの講義は朗々と続く。
「そして、お前たち魔法使いの魔法式とも、私たち魔女の命令式とも異なるのが、ギルフィア王家の中でも直系の者のみに伝わる『命令』の力だ」
何対もの視線が、ルーカスに集まった。見習い騎士の、魔法使いとしての好奇心が、この上なく高まっている。
「この力は構成式を必要とせず、ただ一言、声に魔力を乗せて命じるだけで、他者の魔法や魔力に干渉できる」
それはひとつの奇跡だ。ただ一言で、相手の魔法を無効化することも増幅することも、はたまた別の現象に転化させることも出来る。
魔女は肉体を持つだけの魔力の塊と言っても過言ではないため、リーティアは王族のこの能力が苦手だ。
「ただし、この能力を持つ者は、初歩中の初歩の発火魔法ですら、自力で使うことができない。他者の魔力に『命令』して、初めて発動するんだ」
見習いたちは複雑な表情を浮かべた。魔力があり、他人の魔法にすら干渉できるというのに、自分では魔法が使えない。解るようで解らないと言った風情の顔。
「それって……魔法って、言うんですか?」
見習い騎士が毎年抱く、素朴な疑問。淡く微笑を浮かべて、リーティアは逆に問うてみた。
「では訊くが、そもそも魔法とは何だ?」
「魔力を使って精霊と対話し、不可能を可能にする方法、ですか?」
「そうだな、決して万能の力ではないが、人や動物、科学の力を使わず、自身の魔力を用いて精霊と対話することにより起こす方法のことを魔法という。『命令』も他人の魔法を利用する以前に、能力者自身の魔力を以ってして従えさせるものだ」
魔力の強い者と弱い者がいれば、弱い者は強い者の力に畏怖し、自然と頭を垂れ、跪く。
リーティアはまだ耐性のある方だが、下手な魔法使いなどは本気で『命令』されたのなら、身動ぎひとつ真面に取れなくなるだろう。
「どうして王家の方々にだけ、その力があるんですか?」
その質問に、彼女は慈しむような、愛おしむような、穏やかな微笑みを浮かべた。よくぞ訊いてくれたと、言葉を失う少年少女を見渡し、誰をも魅了する蕩けるような微笑みのまま、まるで歌うかのように、薔薇色の唇が言紡ぐ。
「それは、ギルフィアが女神に愛された国だから」