4-1.花歌の月28日
『やだっ! やだやだやだ……ぁっ!』
そう泣いて縋り付いて来た彼女に、彼は困った顔をした。彼の傍らに立っていた母親は、寝台から出ようとした彼女を有無を言わさずに押し戻した。
『お前はまだ、魔力に対して身体が追い付いていないの。今無理をしては、また倒れてしまう』
熱もあるというのに。そう言って、彼女の母親は溜め息を吐いた。
彼女は滅多なことでは我が侭を言わない。そう躾けられているし、優しい彼女は進んで親しい者を煩わせようとはしなかった。
そんな彼女が、ひんやりと足先に触れるシーツの感触に、嫌だと首を横に振っていた。上手く力の入らない小さな手で彼の服を掴み、しゃっくりを上げて泣いた。
『やだぁ……だって、こわいよぉ……』
『こわい? 何が?』
『ひとりが、こわいの……』
柔らかなシーツも、淡い緑色をしたふわふわの毛布も、彼女を優しく包み込んでくれる。けれど自分以外誰もいない寝台は広すぎて、ひとりでいるととても寂しくて、とても虚しくなってしまう。
それにひとりでいると、聞きたくないものが聞こえてくる。見たくないものが見えてしまう。それは夢の中にまで出て来て、四肢に重く纏わり付く枷となる。
しゃっくりを上げながらそう訴えた彼女に、彼は顔を強張らせた。
子どもは残酷な程に敏感だ。そして魔女の娘である彼女は、どうしても悪意を集めてしまう存在だった。まだまだ小さく幼い身体で心にない陰口や害意を受け続け————気が付いた時には彼女は既に、一時的にとは言え誰かの温もりを失う独りを、過剰なまでに厭うようになってしまっていた。
『大丈夫だ、ティア』
縋り付いて来る小さな手に自分の手を重ね、彼は碧の双眸を覗き込んだ。涙で濡れる瞳は宝石のように綺麗で、湧き出でる清水のように何処までも澄んでいる。
『大丈夫だ。何があっても、俺がティアを護ってやる』
『ほんとう……? ほんとうに、ティアをまもってくれるの……?』
『ああ、本当だ』
『やくそくよ。ぜったいに、まもってね……』
縋り付いて来る彼女が愛おしくて、狂おしくて。彼は何度も頷いた。彼女の母が物言いたげな眼差しを向けて来たが、その時は全く気に留めていなかった。
彼女が眠るまでも、眠ってしまってからも、彼は彼女の紅みを帯びた柔らかな金髪を、何時までも優しく撫でた。彼女が落ち着けるように、安らかに眠れるように。
いつまでも、こうしていられたらいいのに。
いつまでも、いつまでも――――永遠に。
古い、記憶だ。
麗らかな春半ばの昼下がり。中庭で樹に凭れ掛かり、つらつらと転寝に勤しんでいた彼は、微睡からなかなか抜け出せずにいた。ぼんやりと虚空を眺め、暫く何もせずに四肢を芝生の上に投げ出す。
「…………護ってやる、か……」
くしゃりと前髪を掻き上げ、端正な面差しを歪めた。幼い子どもの他愛ない戯言に、自嘲気味に嗤う。
結局、護ってやれなかった癖に。夢と現の狭間を揺蕩いながら、彼は唇を嚙んだ。