③
夜のほとばりはすぐに訪れた。
森の中は急激に光を失い、それと同時にぐっと冷え込みが厳しくなる。
しかし、森が完全に冷え切る前に、なんとか一晩分の薪を集め、火をおこす事ができた。
ライターでつけた火がみるみる大きくなる様子を見て、少女ははしゃいだ。
「あったかい」
喜びと好奇心を瞳にたたえ、笑いかけてくる。
自分の命が多大な危険にさらされた状況で、何がそんなに楽しいのか、理解できなかった。
しかし無邪気な可愛らしい笑顔につられ、つい微笑み返してしまう。
「名前は?」
俺は聞いた。
「フロン」
「フロンか、俺はスナメリ」
フロンははじめ、スナメリという言葉をうまく発音できなかった。
まともな教育を受けてこなかったのだろうか、と驚いたが、何回か繰り返すうちに言えるようになっていった。
「スナメリ」
フロンはそう言うと、美しい瞳で俺の顔を覗き込んでくる。
「私の、命の恩人」
くすぐったいような感情がこみ上げてきた。
そして少しだけ泣きたくなった。
死と隣り合わせのこの森で、こんな思わぬ出会いがあるなんて。
地獄のようなこの世界にも、俺がまだ知らない喜びはたくさん転がっているのだろう。
柄にもなくそんな事を考えた。
その後は、二人とも疲れているのもあって、お互い口数は少なかった。
ギンモクの木にもたれ、ぱちぱちとはぜる炎を眺めながら多くの時間を過ごした。
時々、俺は炎を小さくしないように薪をくべたが、何回目かに薪をくべに立った時、フロンが口を開いた。
「この木、変」
俺は驚いて目を見張った。
この木の神聖さを知らないのだろうか、いやそんなはずはない。
「ギンモクの木だよ」
「鼻、きかなくなる」
そう言うと白い幹をばしばしと叩いた。
「やめろ!」
あわててフロンの動きを止める。
ギンモクの白い雪のような花が、頭上からぱらぱらと降ってくる。
それは、身を切り裂くような冷たい風にあおられ、周囲へと散らばった。
信じられないという表情の俺の前で、フロンはいたずらっ子の笑顔を見せる。
「あのなぁ…」
俺はギンモクの木に危害を加えてはいけないと、フロンを諭そうと思った。
安全地帯では、このような行動は懲罰に値する。
しかしフロンは遠くを指さし、俺の言葉を遮った。
「あそこ、何かいる」
すぐに、フロンが指さす方向を振り返る。
一瞬で全身から血の気が引いてゆく。
遠くからでも目立つ、白い体毛に覆われた巨体。
後ろ足に比べ異様に長い前足に、奇妙な動き方。
サヌドゥークだ。
俺は片手でしっかりとフロンを抱きしめた。
もう片方の手で、ギンモクの木に触れる。
「スナメリ?」
フロンが怪訝そうな顔で見つめてくる。
「絶対に、動くなよ」
サヌドゥークは、普段は低く下げている首を、高くもたげた。
獲物を探している。
そして、頭を俺たちの方へと向ける。
目も耳もない、吸盤のような形をした黒い鼻と、口だけの頭。
その鼻は、すべての化学物質をかぎ分ける。
鼓動は極限まで早くなり、心臓ははち切れそうだ。
鞄の中でナイフを握りしめる手は、冷たい汗でじっとりと濡れている。
だけど俺は、こんなナイフが何の役にも立たない事を痛いほど知っている。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
サヌドゥークはやってこないはずだ、ここはギンモクの木の下なのだから。
瞬きをしたその一瞬の間に、サヌドゥークは視界から完全に消えた。