推定死刑
ぼくは間違いなくやっていない。
たしかに目の前に5人の惨殺死体があって、ぼくの手には血濡れのナイフに加え返り血も浴びている。
状況証拠としては充分すぎるだろう。
しかし本当にぼくは犯人ではないのだ。
深紅に染まったリビングの絨毯。
鼻を突く強烈な鉄錆の臭い。
ぼくは呆然と立ち尽くし、自分の右手を見つめていた。
指先から滴る生暖かい液体が、床に小さな水溜りを作っていく。
なぜぼくがナイフを握っているのか。
なぜ彼らが死んでいるのか。
記憶の糸は、ほんの数分前まで完全に途切れていた。
突如、けたたましいサイレンの音が静寂を破った。
「警察だ! 動くな!」
踏み込んできた捜査官たちに対して弁明の余地などなかった。
ぼくはその場で現行犯逮捕された。
「容疑者・久保田蓮。現行犯逮捕、および容疑が極めて濃厚であるため、法案第109号に基づき『推定死刑』の手続きに移行する」
数年前、凶悪犯罪の急増に対抗するため、司法制度は劇的に改変されていた。
通称『推定死刑法』。
圧倒的な現行犯であり、かつ犯行状況が残虐極まりない場合、裁判を待たずに「まず死刑囚として扱い、執行までのわずかな期間で自罪の無実を『被告側が完全に証明』できなければ、そのまま刑を執行する」という、無罪推定の原則を真逆にした悪法だった。
ぼくに与えられた時間はわずか48時間。
「嘘だ……ぼくは、彼らを殺す理由なんてない! 彼らはぼくの親友だ!」
殺された5人は、大学のサークル仲間だった。
週末の飲み会のために集まったはずだった。
しかし、刑事は鼻で笑った。
「指紋、返り血のDNA、凶器の購入履歴、すべてがお前を犯人だと指し示している。お前以外の何者が、鍵の閉まったあの部屋で5人を惨殺できる?」
完全な密室。
完璧な証拠。
独房に入れられたぼくは、必死に頭を掻きむしった。
何かがおかしい。
ぼくには動機も殺意もなければ、彼らを殺す身体能力もない。
サークル一の巨漢だった拓海や、空手有段者の真衣を、小柄なぼくが返り血だけで無傷で圧倒できるはずがないのだ。
(思い出すんだ。途切れる直前、ぼくは何をしていた?)
乾杯の音頭。
グラスを合わせた。
お気に入りの輸入ワイン。
それを口に含んだ瞬間、急激な目眩に襲われた。
そうだ、ワインだ。
あのワインは誰が持ってきた?
「……そうだ、幹事の、アキだ」
アキ。
殺された5人の中には含まれていない、もう一人のサークルメンバー。
彼は直前に「急用ができた」と連絡を入れて、集まりを欠席していたはずだった。
ぼくは面会に訪れた国選弁護人に、狂ったように懇願した。
「ワインの残りを調べてください! アキの行方を追ってください! ぼくは薬で意識を失わされ、操られていたか、あるいは死体を前にナイフを握らされたんだ!」
しかし、弁護人は力なく首を振った。
「久保田さん、現場のワイングラスからは睡眠薬の成分が検出されました。ですが……それを混入したボトルから検出されたのは、あなた自身の指紋だけなんです。アキさんは事件当時、完璧なアリバイがあります。防犯カメラの映像で、彼は別の街のカフェにいたことが証明されている」
絶望が全身の血を凍らせた。
すべてが裏目に出る。
世界そのものが、ぼくを犯人に仕立て上げようと躍起になっているかのようだった。
そして、運命の48時間が経過した。
無実を証明する決定打は何も見つからず、ぼくの「推定死刑」は確定した。
長い廊下を歩かされる。
背後で重々しい鉄格子が閉まる音が響く。
辿り着いたのは、冷たいコンクリートの部屋。
中央には、不自然なほど清潔な椅子が固定されていた。
絞首刑ではなく、最新の薬物注射による執行。
苦痛はないと言われているが、そんな恐怖の緩和になんの意味があるだろう。
椅子に拘束され、太い注射針が腕の静脈に突き刺さる。
「最後に、言い残すことはあるか」
執行官の問いに、ぼくは涙を流しながら笑うしかなかった。
「ぼくは……やっていない……」
ガラスの向こうの、見学席。
そこに、一人だけ私服の男が座っているのが見えた。
深く帽子を被り、口元に冷酷な笑みを浮かべている男。
――アキだった。
彼はぼくと目が合うと、ゆっくりと自分のポケットから「あるもの」を取り出し、ガラス越しにぼくに見せつけた。
それは、スマートフォンの画面だった。
そこには、ぼくの視点で撮影された、5人をナイフで切り裂く瞬間の生々しい動画が再生されていた。
(……スマートコンタクトレンズ?)
ぼくの脳裏に、事件の数日前、アキから「新しいガジェットの被験者になってくれ」と渡されたコンタクトレンズの記憶が、鮮烈に蘇った。
あの日、ぼくが飲まされたのはただの睡眠薬ではない。
脳の運動神経を外部からジャックし、意識を覚醒させたまま肉体を遠隔操作する、未認可の超先端ナノ試薬だったのだ。
アキは、ぼくの体を文字通りの「人形」として操り、ぼくの目を通じて、5人の惨殺ショーを特等席で楽しんでいた。
そしてアリバイを作り、ぼく自身の手で、完璧な証拠を現場に残させた。
「推定死刑」のシステムは、真犯人にとって最高の後始末装置だったのだ。
警察がそれ以上の捜査を打ち切り、身代わりを速やかに処理してくれるのだから。
「執行」
機械的なアナウンスと共に、冷たい薬液が体内に流れ込んでくる。
アキは満足そうにスマホをポケットにしまうと、ぼくに向け、親指を下に突き出すジェスチャーをした。
ぼくの意識が急速に薄れていく。
叫びたくても、もう声は出ない。ぼくの無実を証明できる唯一の映像は、今、真犯人のポケットの中で永遠に闇へと葬られようとしていた。




