葛城日菜
「――大丈夫かい?」
美代子に声を掛けられ、幹也は深く息を吸い込んだ。昔話に熱中するあまり呼吸すらおろそかになっていたようだ。
「は、はい。大丈夫です」
「そうか。なんだかずいぶんとスッキリした顔をしているね」
「……そうでしょうか?」
「うん、そうだ。他人に話したことでスッキリしたんじゃないかな? 今までずっと、抱え込んで生きてきたのだろう? 葛城日菜の死を」
「…………」
スッキリしていいのだろうか?
幹也としては罪悪感が湧き上がってしまう。まだ日菜は成仏せず、自分に取り憑き、こうして死を望んでいるというのに。
ほら、今も聞こえる。
ぎしり、と。
背後から日菜の恨めしそうな音が。
「さて。キミの話を聞いて、葛城日菜との齟齬を再認識できたのだけどね」
美代子が煙草を取り出し、マッチで火を付けた。エキゾチックというか、蠱惑的というか。日本では中々嗅ぐ機会のない特殊な芳香が幹也の脳を刺激する。
「葛城日菜は、キミを恨んでなんかいないよ」
「……そんなはずは」
「ない、と断言できるのはなぜだい?」
「……だって、日菜が虐められたのは自分が原因で。死の原因は俺にあって。だからこそ日菜は俺を恨んでいて、こうして今までずっと俺の後ろにいたんじゃないですか?」
「そもそもの話」
少し呆れた様子で美代子が煙草をくゆらせる。
「葛城日菜がキミを本当に恨んでいるなら、キミはとっくの昔に死んでいる。呪い殺すほどの力がなかったとしても、十年もあったのだ。キミの後ろに張り付いて生気を吸い取り続ければ、キミは何らかの病気になるか不幸な事故によって命を落としていたはずだ」
美代子は言外に語る。そうなっていないのだから葛城日菜は幹也のことを恨んではいないのだと。
「俺が生きているのは、日菜が俺に復讐させようとして……」
「なぜそんな回りくどいことを? 恨んでいるなら自分で呪い殺せばいいだけじゃないか」
「それは……」
「キミも知っての通り、恨みの力というのは凄まじい。討伐されてなお人の世に悪意をばらまき続けた千鬼がいい例だ。そう考えれば葛城日菜は何とも弱々しいじゃないか。ずっと取り憑いているのに、姿すら見せることができないとは。いや、正確に言えば姿を見せないようにしていたのかな。……そりゃそうだよね。誰だって好きな人に自分の首吊り姿なんて見せたくはない」
紫煙が立ちこめる。ゆらゆらと。この世とあの世の境目を薄くするように。
「幽霊に十年も取り憑かれていたのに死なず、健康的にも問題がないなら結論は一つだ。――葛城日菜はキミをずっと見守っていた。それこそ、守護霊と呼べるような状態で」
「そんな、バカな。だって日菜はずっと音を鳴らしていたんです。首を括ったロープの音だ。その音に従って、俺は復讐をしなきゃいけなかったんです。そうして日菜を満足させなければいけなかったんです」
「本当に、復讐を望んで音を出していたのかな? むしろ逆だったんじゃないかな? キミに復讐を止めて欲しいからこそ、葛城日菜は音を出していたんだ。唯一、キミに届く音だからこそ」
「そんなことは、」
「ない、と言い切れるのかい? よく思いだしてごらん? その音がしたのが、どんなときだったかを」
「…………」
この十年、ロープの音は聞こえなかった。幹也は日菜に対して罪悪感を抱きながらも、忘れることがある程度には印象が薄まっていたのだ。……一度でもロープの音が聞こえていたなら、忘れることなどできなかっただろう。
あの音が鳴り始めたのは、伸一の家。伸一から日菜の死の真相を教えられ、復讐を誓ったときのこと。
あのとき、幹也は日菜が復讐を望んでいると感じた。だからこそ日菜が自分の存在をアピールし、幹也の背中を押しているのだと。
だが、逆だったとしたら?
あれは幹也の背中を押したのではなく、その逆。復讐する幹也を止めようとしたのだったとしたら?
幹也に復讐を促したのではなく。愚かな決断をしようとする幹也を止めるために、音を出したのだとしたら……。幹也は、ずっと、死者の望まない復讐をし続けたことにならないか?
それでは、あの復讐に意味なんて……。
「復讐して当然だと、私は思うね。だって幼なじみを虐めていたんだ。好きな人を死に追いやったんだ。――キミの復讐を、私は批判したりしない」
まるで心を読んだかのように美代子が慰めてくる。
「それに、キミは自ら望み、自ら復讐のために命を捧げようとした。その行動はずいぶんと真っ当であると思うけどね。後ろでコソコソとして影のフィクサーを気取っているよりは」
さて、と美代子が煙草の火を消して、携帯灰皿に吸い殻を捨てた。
「キミの『縛り』が解けた今ならちゃんと成仏できるんじゃないかな?」
「……成仏、ですか?」
「キミは望まないかもしれないがね。死んだ人間は、現世に見切りを付けて『次』に行くべきなんだよ。この世ならざるものとなった存在が、長く留まっていても碌なことにはならない。守護霊的な存在だとしても、血縁もない赤の他人がそれを続けるのは真っ当とは言いがたいしね」
美代子の物言いから、日菜を成仏させるのだろうと察した幹也だ。
どうしようもないことだ。日菜はもう死んでいるのだから。
それに、最初から美代子は言っていたじゃないか。いずれ成仏させなければならないと。ただ、その時が来ただけだ。
「とはいえ難しく考える必要はない。もうキミが大丈夫だということは葛城日菜も分かっているからね。あとはほんの少し後押しをしてやればいい」
そう説明しながら美代子がもう一本煙草に火を付けた。再び紫煙が幹也の鼻腔を刺激し、なんだか意識が遠のいていくような感覚に襲われる。
本当に、意識が、遠のいて――
『――お願いします』
そんな声が聞こえた。
視線を向けると、祠の前で誰かが跪いていた。
『千鬼様。どうかお願いします』
長い黒髪。
『私の首を捧げます』
地元の高校の制服。
『どうせもう無理なのです』
間違いない。
『もう、生きることはできません』
日菜だ。
『無駄になるくらいなら、あげますから』
葛城日菜が、祠の前で跪いていた。
『この首を持って行ってください』
日菜が願う。こちらに気づくことなく。
幹也は察する。これは『今』の光景ではない。
おそらくは十年前。
自殺を決めた日菜が、最後に祠に願った場面なのだ。
『ですから、どうか』
そうして彼女は希った。
『どうか、幹也が困ったときには――助けてあげてください』
「……え?」
復讐ではなく?
自分を虐めた相手への復讐ではなく?
なぜ幹也を?
どうして、自分ではなく幹也のことを?
幹也の声が聞こえたのか。
日菜が振り返った。
――日菜だ。
十年前の、日菜だ。
自殺直前なのか顔は暗かったが、それでも間違いなく日菜だった。どれだけ望んでも見ることが叶わなかった、日菜がいたのだ。
何かを言わなければならない。
十年分の贖罪を。
幼い頃からの恋心を。
伝えなければならないはずなのに、なぜか声が出てこなくて。
そんな幹也に痺れを切らしたのか、日菜が小さくため息をついた。
『大きくなっても変わらないね』
日菜が微笑む。嬉しそうに。悲しそうに。永遠の別離を告げるかのように。
そうして日菜は幹也を真っ直ぐ見つめてきて――
『――ごめんね』
その四文字にどんな意味があったのか。
感謝。後悔。謝罪。御礼。悔恨。
どんな想いを込めたのか。どれだけの想いが込められていたのか。それはきっと日菜にしか分からないだろう。
でも。
恨んでいるわけではなさそうだな、と。幹也はこのときやっと納得することができたのだった。
日菜の姿が薄くなっていく。霧のように。幻が晴れるように。
待って欲しい。
その言葉を幹也はすんでの所で飲み込んだ。今ここでそんなことを口にしては、何か悪いことになりそうだったから。
だからこそ。
幹也はその四文字を伝えることにした。
「ありがとう」
幹也の言葉を受けて日菜は目を丸くして……やさしく微笑んだ。
『私も。ありがとう』
そうして。
日菜の姿はゆっくりと幻の中にかき消えていった。




