千鬼様伝説
しばらくして戻ってきた清治郎が手にしていたものは、例のお札と……一冊の本だった。
いや、正確には本というより資料集とか書類束とでもいうべきものだ。そこそこの厚さがある紙束を黒い紐で綴じている。
表紙に印刷されたタイトルは『群馬県の祠についての報告書』だ。
「幹也君が持っているものと同じですね」
美代子の指摘を受け清治郎はわずかに目を見開いた。が、すぐに表情を元に戻し、座布団に座り直してからテーブルに報告書を置いた。
「この地に住まう歴史研究家としてはお恥ずかしい限りだが、あの祠に祀られている千鬼について体系だった調査報告書はないのだ。それこそ高校生が書いたこれが一番纏まっているほどでな」
「そうでしたか。では私は偶然にも最善の資料を読むことができたようで」
「すでに読んでいるのなら話は早い。あの祠についてどう思う?」
「何とも恐ろしい祠ですね。少し調べようとしただけでこれですよ」
絆創膏の貼り付けられた右手を掲げて見せる美代子。
「結界すら易々と貫かれました。私程度では手も足も出ないでしょう。その報告書に残された記述を見ても、信じられないほど強大な力を持っているようで」
「そう、それだ。先代もそれを恐れていた。――資料だけを読んで分かったつもりになることを」
「……どういうことでしょう?」
「そのままの意味だ。恐ろしい、強大……。そんな目で見ていては、あの祠の本質を見落とすことになる」
「本質と言いますと?」
「人間にも幽霊にも、変えられない本質がある。たとえばそこの幹也君の本質は甘く、騙されやすく、流されやすい」
「ごもっともで」
清治郎の言葉に即うなずく美代子であった。
二人の物言いに反論したい幹也だが、清治郎は話を先に進めてしまう。
「善人は善人。悪人は悪人。どれだけ表面を取り憑くおうが、本質が変化することはない」
「つまり、千鬼は恐ろしいだけの存在ではないと?」
「……そうしてすぐに人の意見を聞き入れ、見方を変えるようでは本質を見落とすだろう」
清治郎がテーブル上の報告書に手を置いた。
「まず大前提として。伝説と史実には差異がある。伝説では真田幸村に鬼が退治されたとなっているが、実際は幸村の父・真田昌幸がこの地の国人を討ち果たし、その居城を奪ったのだ」
「伝説とはまるで異なりますね。国人というのは?」
「ここでは地方領主だと思ってくれればいい。天下人が日本を統一する前。地方に根ざし地方を統治していた存在だ」
軽く説明してから清治郎が報告書のページを捲る。
「さて。伝説によれば、祠が最初にその『力』を発揮したのは豊臣秀吉の軍に城を取り囲まれたときだとされている」
報告書は幹也も読んだので、何の話をしているのか理解できる。城主が息子の首を刎ねて祠に願ったところ、鉄砲水で豊臣軍が流されてしまったというものだ。
清治郎の発言に美代子が小さく首肯した。
「軍勢を押し流すほどの天変地異を起こすのはかなり強力な霊ですね。信じがたいですが、あの千鬼であるならば可能であると思えるのが不思議です」
「いいや、不可能だ」
清治郎の断言に美代子が僅かに目を丸くした。
「よく考えてみなさい。怨霊だろうが鬼だろうが、天変地異を起こすことなんて出来るはずがない」
「……ですが、伝承には千鬼のおかげだと記されているのでは?」
「順番が逆なのだ」
人差し指を立てて円を描くように動かす清治郎。
「祠に願ったから鉄砲水が起こったのではなく、鉄砲水で敵軍が押し流されたからこそ千鬼は信仰を集めるようになり――捧げられたのだ」
幹也にはよく理解できないが、美代子は何か分かったらしい。
「そうか! 因果が逆なのですか! 落城の危機からの都合が良すぎる鉄砲水! その超常現象を説明するために人々は千鬼を利用した! 強力な力を持つからこそ鉄砲水を起こせたのではなく、鉄砲水で死んだ人間の魂を捧げられたからこそ怨霊として『完成』したと! その時死んだのが数百か数千かは分からないけれど、それだけ生け贄が捧げられたなら神に等しい力を得ても不思議ではない!」
興奮が抑えきれないのかテーブルの上に身を乗り出して報告書を覗き込む美代子だった。
「なるほど原因が分かれば退治の方法も――無理か。数百か、数千か。それだけの命を捧げられた千鬼に対抗するなら、それと同程度の数の陰陽師か霊能力者を集めなければ。今の日本にそれだけの人材は存在しない」
早口でまくし立てて満足したのか、再び座布団に腰を下ろす美代子だった。
その後も祠についていくつかのやり取りはされたのだが、幹也にはよく分からない話ばかりだった。美代子がするのは霊的なものばかりだし、清治郎は歴史研究家としての見解ばかり口にしていたためだ。
幹也も決して地頭は悪くないのだが、どうしても専門外のことには頭の働きが鈍くなってしまう。
「たいへん興味深いお話を伺うことができました」
そんな締めの言葉を美代子が発したので、そろそろお開きとなるのだろう。
美代子に釣られるように立ち上がり、玄関を目指す幹也。
わざわざ見送りに来てくれた清治郎に辞去の挨拶を述べてから踵を返した、そのとき。
「幹也君」
清治郎が幹也を呼び止めた。
「はい、なんでしょう?」
「住職から話は聞いた。日菜の墓参りをしてくれているそうだね」
「い、いえ、余計なことをしてすみません……」
「なに、私ではどうしてもおろそかになってしまうからね。君が墓を綺麗にしてくれることで日菜も喜んでいるだろう」
「…………」
何かを口にしなければならないと幹也は急き立てられたが、グチャグチャとした心の中身は言葉になることなく時間だけが過ぎていった。
そんな幹也を見て、清治郎は何かを感じ取ったのだろう。
「幹也君」
「は、はい」
「死者は蘇ったりしないし、生きている限り人間は進み続けなければならない。そうして紡がれていくのが歴史というものだ」
「は、はぁ……?」
「日菜が自殺してから、もう十年。――キミは、そろそろ自分の人生を生きるべきだ」
「…………」
その言葉にどう答えればいいのか。幹也には最後まで分からなかった。
ただ、黙って頭を下げてから美代子と共に屋敷をあとにしたのだった。
◇
事務所へと車を走らせている最中。
「そういえば、まだ話していなかったね」
手持ち無沙汰なのか美代子がそう切り出した。
「私のご先祖様はいわゆるお雇い外国人でね。外国の『術』を学ぶために北欧から招聘されたんだ」
「はぁ、術ですか?」
「そう。明治の頃くらいまではまだまだ怪異も日常に存在していたからね。外国の術式を吸収する目的があったそうだよ」
お雇い外国人というのは幹也でも知っている。主に幕末明治の開国後、西洋の進んだ科学知識などを学ぶために国が雇った外国人だ。
「ご先祖様は最初東京で活動していたらしいのだけど、どういった経緯か群馬県の祠に関わるようになり、この地に居を構えて祠を監視することにしたらしい」
そういえば、先ほど事務所で『歴代』という言葉を口にしていたなと思い出す幹也。
「物好きだよね。遠い異国の、自分にはまるで関係のない祠のために引っ越しまでするのだから」
美代子はそう言うが、幹也としては「美代子のご先祖様なら」と妙に得心してしまうのだった。美代子も自分にはまるで関係のない幹也のために動いているのだから。
「そうして先代である従祖母が亡くなり、私がこの事務所と祠の監視を引き継ぐことになったのさ」
「そうだったのですか」
美代子が妙に祠を気に掛けていたのはそういうわけがあったのかと納得する幹也だった。
(しかし)
美代子から自分の身の上話をしてくれたことが意外に感じられる幹也だった。
(少しは仲良くなれたのだろうか?)
つい、そんなことを考えてしまう。とっくの昔に死を覚悟したくせに、今さら誰かと仲良くなってどうするのかと心の中で自虐しながら。
そんな彼の心境などもちろん知る由もなく。
「しかし、祠の監視をするにしては事務所に残された資料が少なすぎるし、清治郎氏の発言も気になる。ここはもう少し調べてみる必要がありそうだね。……いや、その前にまずは幹也君を何とかするべきか」
小さく呟く美代子だった。




