群馬県の『祠』に関する報告書
江戸時代。
この地は暗君が支配することとなった。
自らのプライドを満足させるために石高を過剰に申請し、『大大名』であるかのように振る舞ったのだ。
無論、過剰な石高には過剰な年貢が課せられる。そのしわ寄せは全て領民に押しつけられた。
さらにはまるで意味のない天守閣の改築工事や、酒色、豪華すぎる江戸屋敷の建築などなど。それらの浪費はすべて重税という形で民に負担させられた。
もはや是非も無し。
ここで立ち上がったのが『義人』であった。
通常の義人とは自らの命を賭けて幕府に領主の圧政を訴え出る者のことを言う。当時は下の者が幕府に直訴するのは死罪だったので、訴えの可否にかかわらず処刑されてしまう。それでもなお他の人々のために行動する義の人を『義人』と称したのだ。
しかし、この地の義人は少し意味が違ってくる。
願うのは幕府ではなく、祠。
自らの首を捧げることによって願いを叶えてもらうというものだ。
その義人の最後には諸説ある。自らの首に短刀を突き立てたとか、自ら大岩に頭を叩きつけて絶命したとか、祠の裏にある崖から飛び降りたとか……。とにかく、その義人は自らの意志で祠に首を捧げ、それは成功したという。
暗君は宴の席で突如として発狂。後継者である息子を刺し殺してしまったという。
その後暗君は別の大名家お預かりとなり、病死。後継者のいなくなった大名家は断絶し、新たにやって来た領主は民の生活を重視した善政を敷いたという。
今もなお、この祠は地元の人間から『千鬼様』と呼ばれ慕われているという。




