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群馬県の祠についての報告書  作者: 九條葉月


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飛び降り



 ――お願いします。


 千鬼様。どうかお願いします。


 私の首を捧げます。

 どうせもう無理なのです。


 もう、生きることはできません。

 この命が無駄になるくらいなら、あげますから。


 この首を持って行ってください。


 ですから、どうか。

 どうか――










       前日譚 数日前・清彦





 高校教師、晴彦の人生はやっと光に包まれようとしていた。


 顧問をしている野球部の甲子園出場。ここでいい成績を残せれば指導者としての実績となるし、もしかしたら強豪私立で監督をする道も開けるかもしれないからだ。


 晴彦は自分の指導力に自信があった。彼と彼の育てた生徒たちであれば甲子園でも十分通用するはずだし、晴彦のこれからの人生を切り開くのに十分な『力』となってくれるはずだった。


 かつては不幸な事件でその道が閉ざされてしまったが、今度こそと意気込んでいた。


 そんな野望に燃える中。


 高校からほど近いホテルの会場で。晴彦と生徒を囲んで甲子園に向けての壮行会が開かれていた。


 一応は学校の行事ということになっているが、会場には市長や市議会議員、地元企業の社長など輝かしい面々が集まっていた。


 もちろんそれだけではなく生徒の家族や野球部OBもいたのだが、晴彦にとってそれらの人間はさして重要ではなかった。とにかく有力者に挨拶をして、顔を売り、今後の人生がさらに輝かしいものになるようアピールを欠かさなかった。


 そんな中。


 一人の若者が晴彦に近づいて来た。


 年齢は二十代の後半といったところだろうか。丁寧に剃られた髭に、ばらけることなく後ろになでつけられた髪。若者にしては見事にスーツを着こなしている。


 ただし、目元に少し隈が浮かんでいるのが減点ではあったが。それを含めても十分すぎるほどの美男子であった。


「先生、お久しぶりです」


 そう言って親しげな笑顔を浮かべてくるのだから、おそらくは晴彦の顔見知り。野球部のOBなのだろう。


(……こんな男はいただろうか?)


 わずかに首をかしげる晴彦だが、あまり気にはしなかった。試合に出られない人間を含めれば、毎年十人以上が出入りするのが野球部という場所なのだ。レギュラーではない人間をいちいち覚えている余裕はない。


「キミは……」


「はい。野球部部員でした。なにぶん補欠なので覚えていらっしゃらないかもしれませんが……」


「おお、そうかそうか」


 補欠なのにこの場に招待されたのだから友人が多いか、今現在有力な会社に勤めているのかもしれない。


 かつての晴彦であれば『野球の才能がないなら』とぞんざいな扱いをしていたかもしれないが、今の彼は若い頃よりも少しだけ成長している。どこでどう未来に繋がるか分からないのだから、ここは丁寧に接しておこうと決めた晴彦だ。


「久しぶりだな。元気にしていたか? 今は何をしているんだ?」


 そんな晴彦の問いに、青年は少しはにかみながら現在勤めている会社名を口にした。よくテレビにCMを出している大企業だ。


 つまりは、出世が期待できる。


 上手いこと出世して、晴彦のことを高校時代の恩師だと紹介してくれれば……。そんな下心から、さらに笑顔を深くした晴彦だった。


 そんな彼に対して、青年は少し物憂げな顔をする。


「先生。葛城日菜のことを覚えているでしょうか?」


「葛城、日菜?」


 野球部のマネージャーにそんな名前の女子はいただろうかと晴彦は首をかしげる。


「十年前に自殺した少女です」


 青年が晴彦に聞こえるギリギリまで声を絞る。


「……あぁ」


 そんな生徒もいたなと晴彦は思い出す。


 だが、言い方は悪いが大したことはない。


 教師生活が十年二十年と続けば虐められる生徒は毎年のように出てくるし、不登校もそれなりに現れる。


 そして、自分が担任したクラスで自殺者が出るのも、何回か経験したことのある晴彦だ。


 あの時は自殺者が出たせいで色々と調査されたり監督を外されたりしたのでよく覚えている。ただし、その葛城日菜という女の顔すら記憶していないが。担任であっても覚えられないほど影の薄い女だったのだろう。


 嫌な経験があったので名前は覚えている。


 しかし、それだけ。


 顔すら覚えていないし、おそらく会話したこともほとんどない。そんな人間に対して同情心を抱けという方が無理な話だ。毎年毎年、野球部だけでも十人以上、担任をしていれば数十人。学校全体で言えば百を超える人間が出入りするのだから。


 しかし、ここは神妙な顔を作っておく晴彦だ。


「日菜か。可哀想なことをしたな。何とかしてやりたかったが、男ではどうにも女子生徒については深く関わりにくいのでな」


 そんな心にもないことを口にする。


 なにせこの場には大勢の人がいる。もし晴彦が下手な対応を取れば、どこからどう話が広がるか分からないのだ。


 しかし、疑問なのは青年の考えだ。十年前に自殺した少女のことなど、なぜ今さら話題に出したのか……。


 まさか、晴彦が成功することを嫉んだ誰かによる差し金か?


 十年前の自殺などもはや風化しているはずだが、甲子園で勝ち進めばスキャンダルとして取り上げられる可能性もある。


 晴彦が警戒心を一気に引き上げると、


「先生。明美が死にました」


「……は?」


 明美。と言われても誰のことか分からない。晴彦が一体今まで何人の生徒を見て来たと思っているのか。


 そんな彼の様子など気にも留めずに青年が続ける。


「それに、理喜や聡也も……」


「なにを、言っている?」


「覚えていませんか? みんな、日菜の虐めに関わっていた人間です」


「…………」


 そんなことを言われても、十年前の虐め事件のことなどいちいち覚えていない晴彦だ。


「それが、どうしたのだ?」


「先生。日菜は怨霊になって復讐をしているんです。次は俺か先生の番かもしれないんです」


 そんなことを口にするのだから、この青年も十年前日菜の虐めに関わっていたのだろうか?


 しかし、怨霊など非科学的な。


「なにを……」


「聞こえませんか? 首を括ったロープの音が。見えませんか? あの祠が」


 バカなことを。

 そう一喝しようとした晴彦の耳に、


 ――ぎしり、と。


 背後から。

 そんな音が聞こえた。


 まるでロープで何か重いものを吊り下げたかのような。まるで人間がロープで首を括ったかのような。そんな、あり得ないはずの音が確かに聞こえた。聞こえてしまったのだ。


 バカな、と晴彦の背中に怖気が走る。どこを見ても豪華絢爛なこの会場に、ロープの音がするような場所があるはずもない。


 振り向けばいい。

 そうすれば何があるかすぐに分かる。


 だが、晴彦は振り向けなかった。


 ――何かが、いる。


 背後に何かがいる。

 気配がある。

 何かが晴彦を見つめている。


 その何かを目にした途端、酷いことになる。晴彦の直感がそう伝えてきていた。


 絶対に後ろを振り向いてはいけない。

 そんな晴彦の決意など知る由もなく。


「見えませんか? 先生」


 うつろな目をしながら青年が問いかける。見えないかと。聞こえないかと。まるで道連れを求めるかのように。


「先生。聞こえるでしょう? 日菜が首を括った音が。見えるでしょう? あの祠が。理喜も、明美も、聡也も……みんなみんな、あの祠にやられてしまったんです。今度は俺らの番なんです」


 何を言っている?

 背後には何もいない。いないはずだ。


 天井からぶら下がったロープも。

 首を括った女の死体も。


 あるはずがない。

 もしもそんなものがあれば、今ごろ会場は大騒ぎになっているのだから。


 祠も、ないはずだ。

 ここはホテルの会場。市街地のど真ん中。交通量は多く、開発も盛んで、祠などあるはずがない。


 だというのに、気配がある。

 晴彦の横に、気配がある。


 視界の端。ぎりぎり視認できるそこにあるのは――祠。

 石造りの、小さな祠。


 苔が生え、角は風化して、誰にも顧みられないような小さな小さな祠だ。


 こんな場所にそんなものがあるはずない。

 しかし、見えている。

 晴彦の視界の端に、たしかに存在している。


 やめろ。

 見てはいけない。

 首を動かしてはいけない。

 意識を遠ざけろ。


 ここで祠を気にしてしまったら。意識を祠に向けてしまったら。取り返しの付かないことになる。晴彦の直感が、そう伝えてきた。


 全身から冷や汗が吹き出す。


 寒い。

 寒い。寒い。寒い。

 寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い。


 今は真夏だというのに。もうすぐ甲子園が開催される時期だというのに。晴彦は、寒くて寒くて仕方なかった。


 冷房が効きすぎているのではない。


 違う。

 あの祠から冷気が発せられているのだ。


 後ろの女のせいで怖気が走っているのだ。


 気にするな。

 意識するな。


 振り向いたらそれで終わりだ。

 あの祠を見たらそれで終わりだ。


 何とか、何とか晴彦が意識を遠ざけようとしていると。


 ――かちゃん、と。


 金属と金属を打ち鳴らしたような音が響いた。


 聞いたことがないはずの音だ。


 しかし、晴彦にはそれが『甲冑の音』であると感じられた。現代日本に住んでいて、そんな音を聞いたことなどあるはずもないのに。晴彦は、なぜだか確信できてしまったのだ。


『オ、おォ……』


 何かが声を発する。

 かちゃん、かちゃんと音がする。


 甲冑の響きが近づいてくる。

 晴彦にどんどん近づいてくる。


 やめろ。来るな。

 声を出したくても、出せなかった。


 逃げなければ。

 頭では分かっているのに、身体が動かなかった。


 来る。

 来る。来る。来る。


 甲冑の男が。晴彦に近づいてくる。かちゃん、かちゃんと音を立てて。ぎしぎしと床を踏みしめながら。


 理喜という男が死んだという。

 明美という女も、聡也という男も、みんな死んだという。


 きっとあの祠に殺されたのだ。

 あの甲冑の男に殺されたのだ。


 逃げなければ。

 逃げなければ、殺される。

 殺されるというのに、身体が動かない。


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。


 逃げなきゃ、殺される。

 殺されて、しまうのに。


「――先生にも、祠が見えますか?」


 青年の声で、晴彦の身体に自由が戻ってきた。


 逃げなければいけない。


「う、うわぁああぁああぁああっ!」


 晴彦は祠の反対側、甲冑の男の反対側に向けて駆け出した。

 轟く悲鳴。テーブルが倒れグラスが割れる音。


 だが、それがどうしたというのだ。

 逃げなければ殺される。

 前にあるのは大きな窓ガラス。


 ――邪魔だ。


 晴彦は近くに置いてあった椅子を掴み、力任せに窓ガラスを殴りつけた。


 しかし高層階に設置されたガラスはそう簡単には割れなかった。


 だが晴彦は諦めない。生きることを諦めない。


 椅子が壊れるまで窓を殴り続け、少しヒビが入ったところで今度は体当たりをした。


 一度、二度と。体当たりをするたびに窓のひび割れは増えていく。


 かちゃん、と。晴彦のすぐ後ろで甲冑の音がした。


 それと同時に窓ガラスが割れ、晴彦の身体は宙に投げ出された。


 会場にいるのは、身体が少し透けた甲冑武者。


 晴彦の身体を包み込むのは生温い風。視界を埋め尽くすのは満天の星空。


 勝った。

 晴彦は勝ったのだ。


 あの祠から。あの首吊り女から。晴彦はこうして逃げ延び、生き延びることに成功したのだ。


 そうして晴彦の身体は重力に従って落下していき。


 ぐちゃり、と。


 何かを潰したような音は、晴彦がいた会場にまで響いてきたという。



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