第四十七話:羅針盤に背を向けて
凄まじい「意志」の奔流が全てを浄化した後、魔王城アビス・ゼニスの頂上には、静寂だけが残された。
5人の「ささやかな日常」の輝きに飲み込まれた魔王は、その輪郭を保てず、光の粒子となってゆっくりと消滅しようとしていた。
「ああ……」
魔王は、自らを打ち破った5人を見つめ、満足そうに、あるいは、安堵したかのように息を吐いた。
「見事な……『治療』だった。停滞したこの世界は、君たちのような『日常』の輝きを……待っていたのかもしれんな」
その瞳から、理知的な冷徹さは消えていた。
「お前たちの『ミクロな正義』、この先も、見届けさせてもらうぞ」
それが、アストラディアの秩序を揺るがした「世界の外科医」の、最期の言葉だった。
魔王は完全に消滅し、オペレーションルームを圧し潰していた魔力は、嘘のように霧散した。
「……終わった」
舞が、タワーシールドを床に置き、深く息をついた。
《神の恩寵》で魔力こそ全快していたが、精神的な疲労は限界を超えていた。
「私たち……勝ったんだ……!」
観月が、その場にへたり込む。
結衣、花音、恵も、互いの顔を見合わせ、張り詰めていた糸が切れたように、安堵の涙を浮かべた。
その時だった。
魔王が消滅したオペレーションルームの中央、何もない空間から、柔らかな光が溢れ出した。
「!」
5人が身構える。だが、それは魔力とは異なる、どこか懐かしい「世界の理」の光。
光が収束し、そこには一台の、黄金に輝く精巧な「羅針盤」が出現していた。
「これは……」
結衣が呟く。
見たこともないはずなのに、知っている。
恵が《分析》するまでもなく、5人の魂が、その羅針盤の意味を理解していた。
「帰還の……羅針盤……」
舞が、1周目の記憶から、その名を口にする。
1周目。
偽りの凱旋に満足した彼女たちが、何の躊躇もなく手を伸ばした、岡山への「切符」。
それが今、魔王を倒した「真の凱旋」の証として、再び彼女たちの前に現れたのだ。
羅針盤は、静かな光を放ち、彼女たちの「選択」を待っている。
「……帰れるんだ」
観月が、掠れた声で言った。
「岡山に……弟のところに……」
結衣の目から、再び涙が溢れた。
帰るか。それとも、残るか。
1周目の彼女たちに、この問いは存在しなかった。
だが、今の彼女たちにとって、それはアストラディアの未来と、自分たちの過去、その両方を天秤にかける、究極の選択だった。
「……シルヴィアさんたち、どうするかな」
舞が、羅針盤から目をそらし、フォルトゥナの方向を見つめた。
「ドーリンさんも、リューナさんも……アルドゥス様も……」
花音が、この世界で出会った人々の顔を思い浮かべる。
「合理的判断で言えば、この世界は、今、魔王という『絶対悪』が消滅し、復興という『最大の好機』を迎えているわ。私たちの『革命』の知識は、この世界にこそ必要よ」
恵が、冷静に分析する。
「でも!」
観月が、顔を上げた。
「私、お姉ちゃんにも会いたい! 岡山の、あのファミレスで、またみんなでポテト食べたいよ!」
岡山か、アストラディアか。
どちらも、彼女たちが必死で守ってきた、かけがえのない「日常」だった。
重い沈黙が流れる。
どの選択をしても、何かを「見捨てる」ことになる。
それは、1周目の罪を知った彼女たちにとって、何よりも耐え難い苦痛だった。
「……ねえ」
沈黙を破ったのは、結衣だった。
彼女は、羅針盤でも、モニターでもなく、隣に立つ仲間たちの顔を、一人ひとり、ゆっくりと見回した。
「観月ちゃんが言った通りだよ」
「え?」
「どっちを選んだって、いいんだよ」
結衣は、泣き笑いのような、最高に晴れやかな顔で、笑った。
「どっちの世界を選んだって、私たちが五人一緒なら、そこが、私たちの『毎日』だよ!」
「!」
その言葉に、4人がハッとした。
そうだ。
イオンモールで出会ったあの日から、岡山の放課後も、アストラディアの絶望も、この魔王城の決戦も。
彼女たちが守りたかったのは、「世界」や「場所」ではなかった。
『五人と一緒にいられる、この時間』
それこそが、彼女たちの『ミクロな正義』の正体だったのだ。
「……ふふっ」
「……あはは!」
「……まったく、単純な答えだったわね」
「……ええ、最初から、ずっと」
5人の心が、再び、完全に一つになった。
「だから、」
結衣は、仲間たちと、そして羅針盤に向き直った。
「だから、私たちは、まだ帰れない」
「1周目の私たちは、この世界を見捨てた。でも、今の私たちにとって、シルヴィアさんたちの『日常』も、岡山の『日常』と同じ、かけがえのない『毎日』だよ」
「魔王は倒した。でも、魔王が『停滞』と呼んだこの世界の『手当て』は、まだ始まったばかりなんだから」
「……そうね」
恵が、結衣の言葉に強く頷いた。
「魔王という『外科医』はいなくなった。ここからは、私たちの『カイゼン』の出番よ。この世界が、私たち抜きでも前に進めるようになるまで、見届ける責任がある」
「……だよね!」
観月が、涙を拭いて笑った。
「岡山のポテトは、こっちの復興が全部終わってから、みんなで食べに行けばいいもんね!」
「ええ、それが私たちの新しい『目標』ですわね」
花音も微笑む。
「完璧な『復興計画』を立てる必要があるな」
舞も、盾を構え直した。
もう、迷いはない。
5人は、黄金に輝く「帰還の羅針盤」に、そっと背を向けた。
岡山へのゲートは、彼女たちの「選択」を待つかのように、静かに輝き続けている。
だが、彼女たちはもう、振り返らなかった。
(第四十七話 終)




