第三話:二周目の洗礼
神殿の外は、圧倒的な自然が広がっていた。空は深く青く、風が草木の匂いを運んでくる。
美しい世界。だが、そこは同時に、過酷な世界でもあった。
「それにしても、体が軽いな」
舞が軽く跳躍してみせると、驚くほどの高さまで飛び上がった。
クラスに応じた身体能力が付与されているのだ。観月も、信じられない速度で周囲を警戒している。
「身体能力の底上げは確認できました。基礎代謝も向上しているはず。リソース管理の計算式を修正する必要がありますね。ですが……」
恵が、頭で描いた最適ルートを歩こうとした瞬間、何もない平坦な道で盛大に躓いた。
「ふにゃっ!?」
「恵!?」
「……問題ありません。頭脳と身体の連携が最適化されていないだけです。想定の範囲内です」
強がりながら立ち上がる恵。
彼女の「ポンコツ」さは、異世界に来ても健在らしい。張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
地図を頼りに森の中を進むこと数時間。緊張と疲労が蓄積し始めた頃だった。
「なんか、意外と平和だね。このまま街まで行けちゃったりして」
観月が緊張をほぐすように言った、その瞬間だった。
「待て」
舞が鋭く制止した。
少し開けた場所に出たが、その先の茂みから、下卑た笑い声のようなものが聞こえてくる。
「ギシャァァァ!」
飛び出してきたのは、緑色の肌と醜悪な顔を持つ魔物――ゴブリンだった。
手に持った錆びた剣が、ギラリと光る。
一匹ではない。次から次へと現れ、あっという間に十数匹のゴブリンに囲まれた。
ファンタジーの定番。だが、目の前にいるそれは、紛れもない殺意を放っていた。
「嘘でしょ……!」
「来ます!」
「私が前に出る! みんなを守る! 《ガードアップ》!」
舞が叫び、スキルを発動させる。
彼女の体を淡い光が包み込み、防御力が高まるのを感じた。舞は恐怖を押し殺し、結衣たちを守るように立ちはだかった。
「みんな、援護を! 観月!」
「オッケー! 《クイック・ステップ》!」
観月が軽快なステップを踏むと、全員の体がさらに軽くなる。
「ギィッ!」
ゴブリンが舞に斬りかかる。
舞は咄嗟に腕でガードしたが、重い衝撃と確かな痛みが走った。
現代日本で経験したことのない、明確な「暴力」だった。
「くっ……!」
「舞! 《ヒール》!」
結衣がすぐに回復させるが、次から次へと襲いかかってくる。舞一人では捌ききれない。
「花音さん、歌を!」
「は、はい! 《眠りの歌》……!」
花音が震える声で歌い始める。だが、恐怖で集中力が安定せず、歌声は途切れ途切れになった。
穏やかな旋律は、興奮状態のゴブリンたちにはほとんど効果がない。
「数が多い! このままじゃジリ貧です! 《分析》!」
恵が叫ぶ。視界に情報が浮かび上がる。
【ゴブリン(通常種):弱点・火属性。知能は低い。集団で行動する傾向あり。】
「弱点は火! 観月!」
「任せて! 《ファイア・ボール》!」
観月が火の玉を放つ。だが、焦りからか集中力が不足し、小さな火の玉はゴブリンの横を掠めただけだった。威力も、想像していたより遥かに低い。
「ダメだ、これじゃ……!」
その時、ゴブリンたちの動きが変わった。
彼らは本能的に、この集団の中で最も弱く、倒しやすい獲物を見定めたのだ。
数匹のゴブリンが舞の防御をすり抜け、後方で指示を出していた恵に殺到する。
「恵!」
舞が振り返るが、目の前のゴブリンに阻まれて間に合わない。
ナイトの初期スキル《ガードアップ》だけでは、仲間への攻撃を防ぐことはできないのだ。
恵は恐怖で足がすくみ、その場に尻餅をついた。
「来ないで! 《ウィンド・カッター》!」
恵が放った真空の刃は、弱々しく、ゴブリンの皮膚を浅く切り裂くだけだった。錆びたナイフが振り上げられる。
(死ぬ……!)
恵が恐怖で硬直した、その瞬間。
「させないっての!」
観月が、《クイック・ステップ》の効果で極限まで高まった速度で、恵とゴブリンの間に割り込む。
そして、ジョブ補正で上がったスピードで、すかさず腹部に突きを入れる。
「こっちだよ、ノロマ! 私を捕まえてみなよ!」
観月はゴブリンたちを挑発し、その注意を引きつける。
ゴブリンたちの攻撃目標が、一斉に観月に切り替わった。
「観月! 無茶だ!」
「大丈夫! 私、避けるのだけは得意だから!」
観月はチアリーディングで培った体幹と、異世界で得た敏捷性で、ゴブリンたちの攻撃を紙一重でかわしていく。
回避盾としての役割を、咄嗟に果たしたのだ。
だが、それも長くは続かない。
多勢に無勢。慣れない戦闘で、観月の体力が急速に削られていく。一匹のゴブリンの棍棒が、観月の肩を捉えた。
「きゃっ!」
「観月! 《ヒール》! 《ヒール》!」
結衣が必死に回復を飛ばすが、初期の《ヒール》では回復量が少なすぎる。追いつかない。絶望的な状況だった。パーティは崩壊寸前だった。
「ダメだ、このままじゃ全滅する!」
舞が苦渋の決断を下す。
「一度引くよ! 観月、敵を引きつけて!」
「了解!」
観月の機転で生まれた、ほんのわずかな隙。
5人は全速力でその場から撤退した。ゴブリンたちの下卑た勝ち鬨が、森の中に響き渡っていた。
◇◇◇
安全な場所まで逃げ延びた5人は、息を切らせて地面に倒れ込んだ。
誰も言葉を発することができない。あるのは、荒い呼吸と、心臓の鼓動だけだった。
制服は泥と血で汚れ、体中が痛む。辛くも生き延びたが、それは勝利とは程遠い、惨めな敗走だった。
「……ごめんなさい」
花音が、涙を浮かべて呟いた。
「私が、怖くて、うまく歌えなかったから……」
「私の《ヒール》も、全然追いつかなかった……。私、何もできなかった」
結衣は、自分の無力感(心の枷)に唇を噛み締める。
「分析ができても、それに対処する力がなければ意味がない……。私の計算ミスです」
恵は、自分の知識が机上の空論でしかなかったことを痛感していた。
そして舞は、盾として仲間を守りきれなかった事実に打ちのめされていた。
「恵が狙われた時、動けなかった。完璧に守れなかった……」
「……強すぎるよ」
観月が、震える声で言った。
「たかがゴブリンなのに……私たち、全然歯が立たなかった」
これが、異世界アストラディアの現実。
スキルを持っていても、知識があっても、それだけでは生き残れない。絶望的なまでの、力の差。
「生き延びるためには……」
舞が、拳を握りしめる。その瞳には、絶望だけではない、確かな決意が宿り始めていた。
「もっと強くならなければならない。仲間を、守るために」
最初の絶望が、彼女たちの心に火を灯す。フォルトゥナへの道は、まだ始まったばかりだった。
(第三話 終)




