第十八話:聖女のジレンマ
観月の覚醒により、マリオニスの暗躍は白日の下に晒された。
だが、彼がフォルトゥナの街とレジスタンス内部に仕掛けた「不和」の種は、いまだ深く根を張っていた。
街の機能は麻痺し、特に貧民街の状況は悪化の一途を辿っていた。
マリウスという仮面を失ったマリオニスは、今や遠隔から、より陰湿な手段で街を蝕み始めていた。
「私が行きますわ」
作戦司令室で、聖乃花音が静かに、しかし力強く申し出た。
「ノクス村での経験があります。恵さんの兵站管理、結衣さんの衛生知識、そして私の《癒やしの歌》。今こそ、私たちが貧民街の人々を支える時です」
花音の瞳には、強い使命感が宿っていた。
彼女の「心の枷」――恵まれた者の罪悪感(ノブレス・オブリージュの歪み)は、彼女を突き動かす原動力でもあった。
安全な場所で理想を語るのではなく、自ら手を汚してでも人々を救いたい。その想いは本物だった。
シルヴィアもこの提案を承認し、レジスタンスの公式支援として、花音をリーダーとする救護班が結成された。
◇◇◇
貧民街での活動は、花音の指揮の下、順調に滑り出したかに見えた。
「皆さん、こちらに清潔な水と、温かいスープを用意していますわ」
花音は自ら率先して炊き出しを行い、観月が集めてきた薪で結衣が作った薬膳粥を配る。
恵の《分析》で安全性を確認したレジスタンスの備蓄食料だ。
「ありがとう、花音様……」
「まるで聖女様だ」
飢えと不安に苦しんでいた人々は、花音の献身的な姿に涙を流して感謝した。
「《癒やしの歌》、奏でます」
花音の歌声が広場に響き渡る。人々の疲弊した心が癒やされ、街角にほんの少しだが笑顔が戻り始めた。
「良かった、花音ちゃん。うまくいってるね」
「いいえ、まだ始まったばかりですわ」
結衣の言葉に、花音は気を引き締める。
だが、彼女は知らなかった。その「順調さ」こそが、マリオニスが仕掛けた舞台装置の第一幕に過ぎないことを。
◇◇◇
異変は、三日後に起きた。
炊き出しを受け取った人々が、次々と高熱と激しい苦痛を訴えて倒れ始めたのだ。
その症状は、ノクス村の疫病よりも進行が早く、凶悪だった。
「どうしたのですか!? しっかりしてください!」
花音が駆け寄るが、人々は苦悶の表情で体を丸めている。
「《癒やしの歌》!」
花音はすぐに歌い始めた。だが、効果がなかった。人々の苦しみは和らがず、それどころか悪化していく。
「そんな……なぜ!?」
「《分析》します!」
恵が即座に患者を分析するが、その顔色が絶望に染まった。
「ダメです! これはノクス村の病気とは違う……強力な『呪毒』です! 体内の魔力回路を直接破壊し、回復魔法そのものを阻害しています!」
「そんな……じゃあ、結衣の《キュア》は!?」
「試します!」
結衣が《キュア》を発動させるが、呪毒はあまりにも強力で、浄化の速度が汚染の速度に全く追いつかない。
「ああ……ああ……!」
人々が目の前で苦しみ、死に瀕していく。
花音はパニックになりながらも、必死で歌い続けた。だが、その歌声は、もはや何の力も持たなかった。
その時だった。
「……お前のせいだ」
倒れていた男の一人が、血走った目で花音を睨みつけた。
「お前の……お前の持ってきた食い物を食ってからだ! お前が俺たちに毒を盛ったんだ!」
「ち、違います! そんなつもりじゃ……!」
「この偽善者め!」
別の老婆が、花音に泥を投げつけた。
「聖女様だなんておだてられて、いい気になりやがって!」
「お貴族様のお遊びに、俺たちを巻き込むな!」
「人殺し!」
憎悪の声が、四方八方から花音に突き刺さる。
恵が「食料は分析済みだったはず……!」と叫ぶが、その声は罵声にかき消された。
マリオニスが、レジスタンスの輸送ルートの末端、花音たちの目が行き届かない一瞬の隙を突いて、備蓄食料の一部に強力な「遅効性の呪毒」を混入させていたのだ。
善意が、最悪の悪意に反転した瞬間だった。
「やめてください! 花音さんは、皆さんを助けようと……!」
舞や観月が花音を庇おうとするが、群衆の怒りは収まらない。
「あ……」
花音は、その場に立ち尽くしていた。
目の前で苦しむ人々。自分に向けられる、殺意にも似た憎悪。
(私は、また……。良かれと思ってやったことが、全て裏目に出た。人々を救うどころか、もっと不幸にしてしまった)
「ああ、ああ……!」
医療法人の理事長家系。恵まれた環境。その全てが、人々を救うためではなく、絶望させるためにあったのか。
(私の行いは、やはりただの……偽善者の自己満足だったんだ……)
「心の枷」が、彼女の心を完全に砕いた。
花音の瞳から光が消える。
「ふふふ……これですよ」
遠くの建物の屋根から、マリオニスがその光景を恍惚と眺めていた。
「最も美しい善意が、最も醜い絶望に変わる瞬間。聖乃花音、あなたの壊れ方は、実に味わい深い」
花音は、憎悪と呪詛の真ん中で、ただ一人、立ち尽くしていた。
(第十八話 終)




