第十五話:応用科学(アルケミー)
自由都市フォルトゥナの城壁の上は、異様な静寂に包まれていた。
恵の《サイレンス》が発動した瞬間、フォルトゥナを包囲していた魔導部隊の詠唱がピタリと止んだのだ。
音が遮断され、術式が崩壊する。
発動しかけていた攻撃魔法が、実体を失い霧散していく。敵陣に、明らかな混乱と動揺が広がった。
「今です! 私の計算が正しければ、この一撃で戦況を覆せます!」
恵は、戦闘と魔力消費による疲労でふらつきながらも、瞳だけは爛々と輝かせていた。
プレッシャーから解放された彼女の頭脳は、かつてないほど柔軟かつ高速で回転している。
「舞さん! 城壁の真下、敵陣の直前に、あなたの最大出力で氷塊を生成してください! できるだけ大量の『水(H2O)』が必要です!」
「了解した!」
舞は城壁から身を乗り出し、両手を地面に向ける。
「《アイス・ランス》、最大展開!」
舞が放ったのは、貫くための槍ではなかった。
圧縮された魔力が解放され、ゴゴゴ、と地響きを立てながら、城壁の前に巨大な氷の塊――さながら小さな氷山――が出現した。
「観月! あの氷塊の中心に、あなたの《ファイア・ボール》を撃ち込む準備を!」
「え!? 氷に火? 恵、何する気!?」
「説明は後です! 火力は最大で! そして……私も援護します!」
恵は残る魔力を練り上げ、氷塊に向かって風の刃を放った。
「《ウィンド・カッター》、多重展開!」
キィィィン!と甲高い音を立て、恵の風の刃が氷塊の表面を無数に、高速で削り取る。
氷山から、超微細な氷の霧が噴き出す。
氷塊の周囲が、濃密な白い霧に包まれた。
「今です! 観月!」
「うおおお! よく分かんないけど、行っけぇぇぇ! 《ファイア・ボール》!!」
観月が放った最大火力の炎の塊が、氷の霧の中心に吸い込まれるように突っ込んだ。
その瞬間。
世界から、音が消えた。
白い霧が一瞬にして姿を消し、代わりに、その空間が陽炎のように揺らめいた。
「仕上げです!」
恵は、目に見えないエネルギーが臨界点に達するのを感知し、最後のスキルを発動させた。
「《応用科学》、発動! この空間の圧力を最適化し、エネルギーを指向性の衝撃波に変換します!」
恵の魔力が、不可視の圧力の「壁」を形成し、爆発のエネルギーを敵陣方向へと強制的に誘導する。
次の瞬間。
ゴォォォォォォン!!!
腹の底を殴りつけるような重低音が響き渡り、空気が爆ぜた。
それは炎の爆発ではない。純粋な「圧力」の爆発。
城壁全体が激しく揺れ、凄まじい衝撃波が地面を抉りながら敵陣を襲った。
遅れてやってきた超高温の白い奔流(水蒸気)が、魔導部隊を薙ぎ払う。
詠唱を中断され、無防備だった魔導士たちは、なすすべもなかった。
物理的な衝撃で装備ごと吹き飛ばされ、超高温の水蒸気に焼かれ、凄まじい爆音で鼓膜を破られる。
彼らの魔法障壁とて、この未知の現象の前では全くの無意味だった。
陣形は完全に崩壊。生き残った者たちも、何が起こったのか理解できず、武器を捨てて逃げ惑う。
「……ふにゃあ」
恵は、その光景を見届けると、魔力切れでその場にへたり込んだ。
全身から力が抜け、観月から貰った猫のぬいぐるみを懐から取り出し、ぎゅっと抱きしめる。
「恵ちゃん!」
「恵さん!」
結衣と花音が即座に駆け寄り、恵を支える。
「すごい……なに今の……魔法? 火と氷で、あんな爆発が起きるなんて……」
舞が呆然と呟く。
「いえ……ただの、水蒸気爆発です。氷を急激に熱して、爆発させただけ。まあ、少しだけ……私のポンコツさが、良いスパイスになりましたが」
恵は照れくさそうに笑った。
完璧でなくても、仲間を信じ、柔軟な発想を持つことで、常識を超える力を生み出せる。
その確信が、彼女の心を真の強さで満たしていた。
◇◇◇
その一部始終を、マリウス(マリオニス)は城壁の上から、信じられないという表情で見つめていた。
詠唱を封じられた。それだけでも計算外だった。
だが、それ以上に、彼の理解を超える「現象」によって、精鋭部隊が一瞬で壊滅させられた。
(ありえない。あれは魔法のセオリーから逸脱している。氷と火と風……? あの程度の魔法の組み合わせで、なぜあれほどの破壊力が? 《応用科学》……? あの小娘、私の『常識』を、この世界の『法則』を、いとも簡単に超えてきたというのか……!)
彼の顔から、仮面のような笑みが消えていた。
しかし、それは恐怖ではない。自分の理解を超える玩具を見つけた、歪んだ歓喜だった。
「素晴らしい! 素晴らしいぞ、咲良恵! 君は最高の人形だ!」
「……何が素晴らしいのですか」
マリウスが我に返ると、目の前には回復した恵が立っていた。
その瞳は、もはや何の感情にも揺らされていない、絶対零度の分析の光を宿していた。
「マリウス顧問。あなたは、なぜ敵の奇襲を予測できなかったのですか? あなたの『戦術顧問』としての役割は?」
「おや、手厳しい。これは完全に私のミスです」
マリウスは、再び柔和な笑みを浮かべた。
「ですが、結果的に恵殿の新たな力が覚醒するきっかけになった。怪我の功名でしたな」
その白々しい言葉を聞き、恵は確信した。
「もう、あなたの非合理的な芝居に付き合うつもりはありません」
恵は、仲間たちに視線を送る。舞、観月、結衣、花音。全員が、マリウスを囲むように立っていた。
「ドワーフたちのストライキ。輸送ルートへの奇襲。そして、今回の警戒システムの不具合。全てが、あまりにもタイミング良く重なりすぎている」
恵はマリウスを真っ直ぐに睨み据えた。
「あなたは『敵』だと、私の分析が結論付けています」
明確な敵意。戦場の緊張とは異なる、冷たい空気がその場を支配した。
マリウスは、囲まれた状況でも全く動じず、楽しそうに肩をすくめた。
「おやおや。証拠もなしに、この私を敵と断じるのは、少々早計ではありませんかな?」
彼は、わざとらしくシルヴィアが駆けつけてくる方向を見やった。
「それとも、あなた方は……」
マリウスは、5人にだけ聞こえる声で、嘲るように囁いた。
「このフォルトゥナで信頼を得ている私と、新参者のあなた方、シルヴィア殿がどちらの言葉を信じるとお思いで?」
それは、巧妙な脅しだった。彼を排除しようとすれば、組織内に決定的な亀裂が走る。
「……!」
恵は歯噛みした。
「ああ、素晴らしい表情だ!その絶望! その怒り! それでこそ、私の舞台の人形だ!」
マリウスは優雅に一礼すると、シルヴィアへの報告を口実に、その場を悠然と立ち去っていった。
「……あいつ」
観月が忌々しそうに呟く。
「間違いありません」
恵が断言した。
「彼が、この混乱を引き起こした黒幕。そして、おそらくは……」
5人の脳裏に、共通の敵の名が浮かび上がる。
「魔王軍四天王の一人、"人形遣い"マリオニス」
敵は、もう外にはいない。
最も信頼すべき場所、レジスタンスの懐深くに潜り込んでいる。
フォルトゥナは、今や敵の掌の上にある「舞台」と化した。彼女たちの、本当の戦いが始まろうとしていた。
(第十五話 終)




