第十四話:ふにゃあ…
咲良恵の辞書に、妥協という文字はなかった。
自由都市フォルトゥナに来て数週間、彼女が断行したレジスタンスの組織改革は、驚異的な速度で成果を上げていた。
兵站の効率化、人員の最適配置、情報伝達システムの刷新。
彼女の《分析》と《最適化》は、旧態依然とした組織を、洗練された集団へと変貌させつつあった。
「素晴らしい成果だ、恵。君の働きは、兵士十万人に匹敵する」
作戦司令室で、指導者シルヴィアは恵の手腕を高く評価した。
その隣には、魔導戦術顧問として信頼を得ているマリウス(マリオニス)が、柔和な笑みを浮かべて立っている。
「当然の結果です。非効率的な要素を排除しただけですから」
恵は表情を変えずに答えたが、その成功は、同時に彼女の心に重いプレッシャーをかけていた。
(私が失敗すれば、この組織は崩壊する。私が成果を出し続けなければ、みんなが危険に晒される。もっと、もっと完璧に……)
「成果を出さなければならない」という強迫観念。
それが彼女の「心の枷」を締め付けていく。
彼女は誰にも弱みを見せまいと、完璧な「超合理主義者」を演じ続けていた。
「それにしても、恵殿の改革は少々急進的すぎやしませんかな?」
マリウスが、心配そうな声音で口を挟んだ。
「特に、武具工房を管理するドワーフたちからは、不満の声も上がっているようです。彼らの『職人としての誇り(プライド)』を尊重することも、組織運営には必要かと」
「非合理的です」
恵は即座に反論した。
「感情論で効率は上がりません。彼らには、在庫管理と生産工程の標準化を受け入れてもらいます。それが組織全体の利益です」
「しかし……」
「恵の判断を支持する」
シルヴィアがマリウスの言葉を遮った。
「今は非常時だ。効率を最優先する」
恵は自分の正しさを確信した。
だが、これはマリオニスの巧妙な罠だった。彼は恵の合理主義を煽り、意図的に組織内に不和の種を蒔いたのだ。
◇◇◇
数日後。恵の改革は、大きな壁にぶつかった。
「どういうことですか! 前線への武器供給が滞っていると!?」
恵は兵站担当官を厳しく問い詰めた。
彼女の計算では、完璧なタイミングで物資が届いているはずだった。
「それが……武具工房のドワーフたちが、『俺たちのやり方に口を出すな!』とストライキを起こしまして……新しい管理票の記入を拒否しているのです!」
「ストライキ!?」
恵は愕然とした。非合理的な感情が、完璧なシステムを機能不全に陥らせていた。
時を同じくして、別の問題も発生した。
恵が再構築した輸送ルートが、魔王軍の奇襲を受けたのだ。被害は軽微だったが、計画に大きな遅延が生じた。
(なぜだ? あのルートは最も安全なはずだったのに……)
これもまた、マリオニスが裏でドワーフたちの不満を煽り、さらに偽情報を流して魔王軍を誘導した結果だった。だが、恵はそれに気づかない。
焦りが、彼女の判断を鈍らせる。
彼女は遅れを取り戻すため、さらに過酷な効率化を現場に強要した。それが、さらなる反発と混乱を生む悪循環。
「恵、少し休んだ方がいい。顔色が悪いぞ」
舞が心配して声をかけるが、恵はそれを拒絶した。
「休んでいる暇はありません! 私がこの状況をコントロールしなければ……!」
「一人で抱え込むな。私たちを頼れ」
「……あなたたちに、兵站管理の何が分かるのですか! 邪魔しないでください!」
恵は思わず声を荒らげた。完璧であるはずの自分が、他人に頼るなど許されない。そのプライドが、彼女を孤立させていった。
◇◇◇
夜更け。
宿舎の自室に戻った恵は、机に突っ伏していた。
目の前の計画書は、矛盾と破綻だらけだった。プレッシャーに押し潰され、思考が停止する。
(ダメだ。もう、最適化できない。私の計算は……完璧じゃなかった……)
絶望が彼女の心を覆い尽くそうとした時、ふと、視界の隅に何かを捉えた。
それは、机の上に置かれていた、小さな猫のぬいぐるみだった。
観月が「疲れてるみたいだから」と言って、市場で買ってきてくれたものだ。
丸いフォルム。つぶらな瞳。力の抜けた、愛らしい表情。
その瞬間、張り詰めていた心の糸が、ぷつりと切れた。
「……ふにゃあ……」
無意識のうちに、力が抜けた声が漏れた。
恵はぬいぐるみを手に取り、その柔らかい感触を頬に押し当てた。
「かわいい……もう、無理……効率とか、どうでもいい……ふにゃ……」
完全に語彙力を失い、彼女はその場にへたり込んだ。
「恵? 大丈夫?」
その時、部屋の扉が開き、結衣たちが現れた。孤立していく恵を心配して、様子を見に来たのだ。
「!!」
恵は飛び上がった。最も見られたくない姿を、見られてしまった。
「ち、違います! これは、その、材質の応力分散効果を分析していただけで……!」
必死に取り繕おうとするが、顔は真っ赤になり、声は震えている。そして、焦りのあまり、何もないところで盛大に躓いた。
「ふにゃっ!?」
派手に転び、持っていた書類とぬいぐるみが宙を舞う。
「……」
沈黙が流れた。そして。
「……ぷっ」
舞が、堪えきれずに吹き出した。
「あははは! 恵、それ、すっごい可愛い!」
観月が笑う。
「まあ、恵さんにも、このようなご趣味が」
花音が微笑む。
「うわぁぁぁぁぁ!」
恵は顔を覆って叫んだ。
(終わった。私の完璧なキャラクターはゲシュタルト崩壊した)
だが、仲間たちの反応は温かかった。
「恵、あんた、ずっと無理してたでしょ」
結衣が、転んだ恵に手を差し伸べる。
「私たち、あんたがポンコツなのも、可愛いものが好きなのも、とっくに知ってるよ」
仲間たちの言葉が、恵の凍りついた心を溶かしていく。
(そうか……私は、完璧でなくてもいいんだ……)
「……助けてください」
恵は、結衣の手を取り、初めて本心を口にした。
「私一人では、もう、どうしようもありません」
甘えたいという感情の抑圧から解放された瞬間。彼女の「心の枷」が砕け散った。
その時、遠くで爆発音が響いた。街の警鐘が鳴り響く。
「敵襲!?」
宿舎に飛び込んできた伝令が叫ぶ。
「魔導部隊が、城壁の外から大規模な攻撃魔法を詠唱しています! このままでは城門が破られます!」
「なぜ、そんな接近を許したのですか!? 早期警戒システムは!?」
恵が問うと、伝令の後ろからマリウスが姿を現した。
「申し訳ありません、恵殿。どうやら、システムがうまく作動しなかったようで……。これも、現場の混乱のせいでしょうか」
その白々しい言葉で、恵は全てを理解した。プレッシャーから解放され、クリアになった思考が、この男の悪意を見抜いたのだ。
(ドワーフたちの反発、輸送ルートへの奇襲、そして警戒システムの不具合……全てが繋がりすぎている。意図的に引き起こされた混乱)
「あなたが、糸を引いていたのですね。マリウス顧問」
「……おや?」
マリウスが、仮面のような笑みを浮かべる。
恵の瞳に、再び知性の光が宿る。
だが、それは以前のような冷たい光ではない。仲間との絆によって支えられた、しなやかな強さだった。
「あなたのやり方は、極めて非効率的です。無駄なノイズ(雑音)が多すぎる」
恵はマリウスを睨み据えた。
仲間を守るため、この混乱を収束させるため。
その「強い願い」が、魔力を爆発的に高め、恵をあらたなステージに引き上げる。
「敵の詠唱、遮断します! ――《サイレンス》!」
新たなスキルが閃いた。
恵の手から放たれた不可視の波動が、フォルトゥナの外へと広がっていく。
それは、指定した範囲の空気を一時的に操作し、音の伝達――すなわち、魔法の詠唱を封じる力だった。
城壁の外で、攻撃魔法を唱えていた魔導士たちが一斉に沈黙した。術式が崩壊し、発動しかけていた魔法が霧散する。
「何だと!?」
マリウスが目を見開く。
「すごい! 敵の魔法が止まった!」
「だが、まだ終わりではありません」
恵は冷静に戦況を見据えた。
「既存の魔法だけでは、この状況を打開するには火力が足りない。ならば……」
恵の脳内で、無数の知識と魔法理論が組み合わさっていく。
風属性、火属性、氷属性……それらを組み合わせ、新たな現象を「発明」する。合理性だけではない、柔軟な発想。
「常識に囚われない、新たな力が必要です。――《応用科学》!」
大賢者としての真の力が覚醒した。彼女の前に、複雑な魔法陣が浮かび上がる。
「観月さん、舞さん! あなたたちの火と氷を貸してください! 水蒸気爆発を起こします!」
「水蒸気……爆発!?」
恵の瞳が、不敵な光を宿す。彼女の頭脳が導き出した、異世界最初の「発明」が、戦場に姿を現そうとしていた。
(第十四話 終)




