第十話:キュア
ノクス村の外れ。かつて「聖なる井戸」と呼ばれていた場所は、禍々しい気配に満ちていた。
石造りの井戸枠は黒く変質し、底からは粘性を帯びた紫色の瘴気が絶え間なく噴き出している。周囲の草木は枯れ果て、生命の気配は一切なかった。
「《分析》……。瘴気の濃度、致死レベルね。間違いないわ。ここが疫病の発生源よ。」
恵が顔をしかめながら報告する。
呼吸するだけで肺が軋むような、濃密な瘴気だ。
「井戸の底に、強力な魔力反応を確認。この汚染を引き起こしている『何か』がいます」
「あれが、『呪い』の正体ってわけね」
観月が身構える。
「元凶を断たなければ、村は救われない。降りるぞ」
舞がロープを井戸に投げ入れ、固定する。5人は覚悟を決め、瘴気が渦巻く闇の中へと降下していった。
◇◇◇
井戸の底は、想像以上に広大な洞窟だった。
地下水脈が流れ込んでいるが、水はヘドロのように濁り、悪臭が充満している。
そして、洞窟の中央、最も瘴気が濃い場所に、それは鎮座していた。
「あれは……!」
それは、汚泥と腐敗物が凝縮したような、巨大な不定形のスライムだった。
その体は絶えず蠢き、体表から滴る黒い液体が、地下水を汚染し続けている。
「《分析》! カース・スラッジ! 物理耐性が高く、その体は高濃度の呪いと毒の塊です! 接触は極めて危険!」
「ブギュルルル……!」
カース・スラッジが侵入者に気づき、その巨体を震わせた。
次の瞬間、体の一部を鞭のようにしならせ、凄まじい速度で襲いかかってきた。
「私が引き受ける! 《ガードアップ》!」
舞が先頭に立ち、盾を構える。鞭が盾に激突し、鈍い音が響いた。物理的な衝撃は防いだ。
だが。
「ブシャァッ!」
鞭が弾けた瞬間、高濃度の瘴気の飛沫が周囲に飛び散った。
「きゃっ!」
「くっ……!」
飛沫を浴びた全員が、激しい悪寒と倦怠感に襲われる。
「《癒やしの歌》!」
花音が即座に歌い始める。その清らかな歌声が、全員の体にじんわりと浸透し、瘴気による苦痛をゆっくりと和らげていく。
だが、即効性のない持続回復では、カース・スラッジから受けるダメージを相殺しきれない。
今度は、洞窟全体に濃密な瘴気を放出した。
「ゴホッ! まずい、息が……!」
観月が咳き込む。
その中で、最も深刻なダメージを受けたのは、最前線で攻撃と瘴気を浴び続けた舞だった。
「がはっ……!」
舞が膝をつく。
呪いが、彼女の生命力を直接蝕み始めたのだ。その肌には、ノクス村の重症患者と同じ、黒い斑点が急速に浮かび上がっていた。
「舞!?」
「大丈夫だ……。それより、敵に集中しろ……!」
強がりながら立ち上がろうとする舞だが、その呼吸は浅く、体は小刻みに震えている。
症状の進行速度が、村人たちの比ではない。
「《ヒール》!」
結衣が駆け寄り、必死に回復魔法を唱える。
温かい光が舞を包み込むが、傷は塞がっても、黒い斑点は消えない。それどころか、さらに広がっていく。
「どうして!? 治ってよ! 《ヒール》! 《ヒール》!」
結衣はパニックになりながら叫んだ。
「ダメよ、結衣! それはただの傷じゃない! 強力な『呪詛状態』よ! 《ヒール》では回復できないわ!」
恵が叫ぶ。その言葉が、結衣の胸に突き刺さった。
(まただ。また、私の力じゃ届かない……!)
仲間が目の前で死にかけている。なのに、自分は無力だ。
(結局、私は……何もできない……!)
頑張っても、頑張っても、一番大切な時には役に立たない。
無力感が、彼女を絶望の底へと引きずり込もうとする。集中力が乱れ、視界が歪む。
その隙を、カース・スラッジは見逃さなかった。
絶望し、立ち尽くす結衣に狙いを定め、巨大な触手を振り上げる。
「結衣、逃げろ!!」
舞が、呪いに侵された体で無理矢理立ち上がり、結衣の前に立ちはだかった。
「《カバー》!!」
結衣に向けられた攻撃を、舞が身代わりとなって引き受ける。
「がはっ……!」
重ね掛けとなった呪いにより、舞は大量の血を吐き、その場に崩れ落ちた。全身が痙攣し、意識が遠のいていく。
「いやぁぁぁぁぁ!! 」
結衣は悲鳴を上げ、倒れた舞にすがりつく。
「《ヒール》! お願い、死なないで!」
光を送り込むが、舞の容態は悪化する一方だった。黒い斑点が全身に広がり、呼吸が止まりかけている。
(傷を治すだけじゃ、ダメなんだ……!)
《ヒール》は、怪我を修復する力。だが、今必要なのは、それではない。
(治したいんじゃない。この痛みを、この苦しみを、この理不尽な呪いそのものを、消し去りたい!)
結衣の中で、何かが弾けた。
それは、プリーストとしての根源的な願い。
目の前の命を救いたいという、純粋で、強烈な「強い願い」。
その想いが、結衣の魂の限界を超え、「心の枷」を打ち砕く。
爆発的に高まった精神エネルギーにより、全身から溢れ出す光の質が変化する。
これまでの温かい回復の光ではない。もっと強く、神聖な、浄化の輝き。
「その身を蝕む苦痛よ、消え去れ! ――《キュア》!!」
新たなスキルの名が、自然と口からこぼれ落ちた。
結衣の手から放たれた眩い光が、舞の体を包み込む。
光が触れた瞬間、舞の肌に広がっていた黒い斑点が、まるで汚れが洗い流されるように消えていった。
「……っ! けほっ、けほっ……!」
舞が激しく咳き込み、意識を取り戻した。体中を蝕んでいた倦怠感と痛みが消え去り、血色が戻っている。
「舞! よかった……!」
「治った……? 呪いが、消えた……」
舞が驚愕の表情で自分の体を見る。
「《分析》結果! 舞の状態異常、完全に解除されました! すごい、これが《キュア》……!」
恵が目を見張る。
「ギュギャァァァァ!?」
その時、カース・スラッジが苦悶の叫び声を上げた。
結衣から放たれる浄化の余波が、呪いの塊であるスラッジの体表をわずかに溶かしたのだ。
「結衣、ありがとう。助かった」
舞が立ち上がる。その姿には、先ほどまでの衰弱は微塵も残っていなかった。
「ううん。やっと分かった。私の力の使い方」
結衣は微笑んだ。
その瞳には、もう迷いはなかった。
自分の力で、仲間を絶望から救い出せた。その確信が、彼女を強くしていた。
「みんな! 反撃開始だよ!」
ノクス村を救うための最後の戦いが、始まろうとしていた。
(第十話 終)
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