第9話 反転の仮説
朝の光は、紙の上でいちばん冷たい。
新聞部の部室机いっぱいに広げたプリントアウトの波に、窓際から差し込む斜光が細い筋を刻んでいた。篝アヤカはその筋を指でなぞり、朝霧レイジの方へ顔を向ける。
「消えたのは“トワの遺体”じゃない」
彼女は言い切った。
「消えたのは“トワの存在証明”。犯人は東雲トワ本人をどこかに拘束したか、あるいは共犯に回した上で、生徒会室に『トワが消えた密室』だけを残した。目的は二つ。研究データの抹消。そして“同期ズレ犯罪”が実用化済みだと誇示する挑戦状」
レイジは思考の勢いを抑えるため、一度ゆっくり椅子に腰を落とした。
机の端で、ICレコーダーが青い小さな点滅をしている。生徒会室の録音機から吸い上げた“0秒音声”のデータだ。再生時間はゼロ。けれど、波形はある。
ゼロという名札を付けられた一秒の亡霊。その亡霊の中に、まだ言葉になっていない情報が眠っている気がして、昨夜からずっと胸の裏で爪を立てている。
「“存在証明”を消せば、死んだも同然」
レイジは呟いた。
「記録のない人間は、紙の上で消える。紙の上で消えた人間は、現実の中で道に迷う。……トワを“外”に出した時点で、犯人は勝ってる」
「勝ち逃げはさせない」
アヤカの声は静かに硬い。
「ゼロは墓標。でも同時に、標識。そこを辿れば、かならず“実体”へ繋がる」
レイジは、解析ソフトの画面を開いた。
時間軸ではゼロ。だからこそ、周波数軸へ。
スペクトログラムが立ち上がる。黒い海に、薄い灰の糸が幾本も刺している。目視ではほぼ無音の帯域の、さらに外側。可聴域の外、超高域に微かな規則性が浮かぶ。
「……ある」
息が勝手に音になった。
「人間の耳にはほとんど届かない帯域に、短いインパルスが繰り返し刻まれてる。全部で十六。間隔がほぼ等間隔、でも四つごとにわずかに間が広い」
「四、四、四、四。……十六」
アヤカは指先で机の縁を軽く叩く。
「打鍵?」
「“キースイッチ”だ。しかも、メカニカルのクリックじゃない。もっと短い、金属の舌が弾かれるような音。キーキャップの樹脂音じゃ出ない。……これはね、電子錠の外部端子に触れた瞬間に立つノイズに近い」
レイジは、校内の古い電子錠の資料を頭の中で繰り、指を宙で躍らせた。
「生徒会室のドアの主錠は物理キーだけど、副錠や非常ロックに“保守端子”が残ってる型がある。端子に規格外の信号を当てると、内部で“失効テスト”が走って一瞬だけリレーが浮く。メーカーは隠すけど、メンテ会社の現場メモには載ってる」
「つまり、ゼロ秒音声の“正体”の一部は、その保守端子を叩いた“音”」
アヤカは目を細め、短く頷いた。
「廊下の半秒の穴でワイヤを差し、机裏の再送信器で校内時刻を乱し、同時に電子錠の“保守端子”を触った。その時、録音機はゼロを刻んだ。ゼロに重なる“打鍵”。犯人は、鍵の管理と時間の管理の両方を、同時に“編集”した」
「生徒会室は囮。理科棟が本丸」
レイジは言葉を置きながら、視線を窓の外へ逃した。青空が洗いたての便箋のようにまっさらで、どの一行目から書き始めるのか迷う。
「理科棟から“何か”が外に出た。俺たちはずっと“人かどうか”で揉み合ってたけど、搬出痕跡の薄さ、台車の軽さ、非常口の微弱降下——全部、軽いものを示してる。……人じゃない。人の重さじゃない」
「“時間”でもない」
アヤカは小さく首を振った。
「時間は運べない。運ばれたのは、“時間を再現できるもの”」
「データ」
レイジの喉が勝手に鳴った。
「金属ケース。……トワの研究データが入った、物理媒体」
アヤカは立ち上がった。椅子の脚が床で小さく鳴る。
「非常口の外を探す。昨日の風向きなら、踊り場の下の排水枡に何かが引っかかっている可能性がある。蓋が軽い。持ち出しの途中で“蓋”だけが外れて、落ちた」
◇
理科棟の外階段は、日中でもどこか冷える。金属の踊り場の隙間から見える地面は、乾ききらずにいつも薄く暗い。
御子柴カナメが工具箱から鉄フックを取り出し、排水枡の格子に引っかけた。
「開ける」
金属が擦れる音。枡蓋が少しずれて、隙間から湿った空気が上がる。
レイジは軍手をはめ、懐中電灯を差し込んだ。
土、黒い泥、細い枝、紙片、そして——鈍く光る何か。
「ある」
呼吸が浅くなる。
泥の中に、手のひらより少し大きな銀色の板。縁に浅い傷。短い鎖のちぎれた輪。
引き上げると、それは“金属ケースの蓋”だった。
合わせ目の片側に微細な歯型。南京錠の小さな穴。
蓋だけ。中身はない。
落下の衝撃で蝶番が外れたか、意図的に“蓋だけ”捨てられたか。
「傷、見せて」
アヤカが覗き込み、指でそっと縁をなぞる。
規則的な擦過痕が、四点。
糸で吊って運ばれ、角で支えたときの跡に似ている。
「細い針金やフロロカーボンで“吊り”、途中で弧を描いて曲げた。——台車の旋回痕の“浅さ”と呼応する」
「ケースの本体は?」
「持ち去られた。非常口の外で待つ“受け手”。だからこそ、警報の“微弱降下”。“外から開けられたことにする”操作は、受け手側の要求」
御子柴が蓋の裏をライトで照らす。薄く、番号が打刻されている。
メーカー名、型番、そして「VAL-12」。
学内備品台帳に同型があれば、貸出履歴が追えるかもしれない。
「早乙女ミコトの会計権限なら、購入申請や備品貸出の情報に触れられる」
レイジが言うと、アヤカは頷く。
「そしてシステム担当の書記は、編集の刃で“0.2秒”を整える。会長は、幕を張る。——役割の交差点に、“蓋のないケース”」
蓋は冷たく重いのに、それが示す空白は、空気よりも軽い。
レイジは軍手の中の自分の手の汗に気づき、呼吸を一度整えた。
「証拠は拾った。次は“使い方”」
アヤカの声音がわずかに低くなる。
「蓋の打刻番号から備品を特定。会計の申請伝票、搬入搬出記録、監査簿の押印。
——紙で絞る」
◇
会計室の奥は、紙の匂いで満ちていた。
早乙女ミコトは机に肘をつき、指先で電卓を弄んだ。無意味な打鍵の連なりが、薄いリズムを作る。
アヤカは金属蓋を机に置き、打刻番号を指差した。
「VAL-12。備品台帳と照合する。申請者は誰?」
早乙女は視線だけを蓋に落とし、電卓の手を止めなかった。
「その番号、台帳にある。理科準備室、測定機器運搬用ケース。申請者は理科主任、検収は——私」
「搬出記録は?」
「学外への持ち出しは“なし”。校内移動のみ。……紙の上では、ね」
「あなたは“紙”が好き」
アヤカが柔らかく言うと、早乙女は笑わなかった。
「紙は、嘘を抱きしめる器よ。正しい順番に並べた印で、世界は綺麗に回る。——あなたたちが嫌いなもの」
「嫌いじゃない。頼ってる」
アヤカは観測者ノートを開き、0.2秒、半秒、蓋、排水枡、保守端子、という単語を正方形に並べた。
「紙で真実に寄せるのが、私の刃。あなたは紙で“混乱を整える”。
——今日は、同じ刃を向け合う日」
早乙女は電卓から手を離し、口紅の入ったペンケースをこちらへ押しやった。
「何を聞きたいの」
「あなたは面談録音の編集をした。会長の依頼で。
その時、0.2秒の前に“息”が乗っていた。あなたの癖。
面談の部屋の外に、誰がいた?」
「廊下に、書記。……システム担当は遠征中のはずだけどね」
皮肉の匂いが薄く混ざる。
「“紙”の上では」
「書記の遠征の“紙”は、編集された?」
「知らない。知っていても言わない」
早乙女は肩をすくめ、蓋の縁の傷を指先で軽く撫でた。
「きれいな弧。フロロカーボンの跡。御子柴くんの得意分野」
「あの人は“中立”」
「中立は、時々、最短の共犯」
アヤカは頷き、蓋をバッグに戻した。
「ありがとう。最後に一つ。——東雲トワは、生きてる?」
早乙女は少しだけ目を伏せ、短く答えた。
「あなたが“紙”を使う限り、ね」
◇
廊下。
薄く人の気配の残る空気の中で、御子柴カナメが壁にもたれて待っていた。
「蓋、見つかったって?」
「排水枡で。バッチ番号は理科の備品。会計検収は早乙女」
アヤカの報告を聞き、御子柴は小さく舌打ちした。
「ほんと、紙で全部繋がる」
「紙は脆い。破られやすいから、破る指の癖が残る」
アヤカは御子柴の目をまっすぐ見た。
「あなたの“中立”は、そろそろ境目に立つ。——選んで」
御子柴は目を細め、短く笑った。
「俺は刃物の整備が得意だ。誰の手にも渡せるように、よく研いて渡す。……それが、選び方」
「なら、刃先の“向き”は、こちらで決める」
アヤカが歩き出す。
レイジが横に並び、呼吸を合わせる。
日が傾き始め、校舎の四隅に影が長く伸びる。
チャイムの音階は、ほんのわずかに揺れていた。
◇
情報処理室で、レイジは“0秒音声”の超高域のインパルスを指でなぞり、波形をひとつずつ刻印のように覚え込んだ。
「十六。四つで区切れる。電子錠の保守端子のタッピングなら、配列に“合図”が混じるはずだ。——これ」
レイジは拡大し、四つめと五つめの間の“間”を示した。
「他より、少し長い。これがトリガ。インターバルの長短で“OK”を出す簡易プロトコル。犯人は合鍵の代わりに、端子の“合図”で扉を開閉した」
「合図はどこで覚えた?」
「メンテの現場メモ。校内サーバにはない。だから——」
「“外”」
アヤカとレイジの声が重なった。
「外の“手”がある」
レイジは背筋に薄い汗を覚え、椅子の背にもたれた。
「会長が幕を張り、早乙女が紙を整え、書記が継ぎ目を作り、御子柴が機械を用意した。……それだけじゃ、保守端子の合図まで届かない。外部の鍵屋か、メンテ業者か、あるいは卒業生。校舎の“死角”を知っている誰か」
「観客席、増やす気?」
アヤカは微かに笑い、首を横に振った。
「増やさない。むしろ削る。
外部メンテの請負記録、会計の支払い履歴、納品書の押印。——紙から“外”を連れ戻す」
「結局、紙」
「紙で来たから、紙で帰る」
アヤカの声は静かだが、遠い火のように熱い。
「東雲トワは、紙の外へ出た。だからこそ、紙で道を敷く」
◇
夕方、理科棟の外階段の踊り場に、薄い影が立った。
手鏡の面が、ほんの一瞬だけ光る。
アヤカは反射的に半歩出かけ、すぐに止まった。
行かない、と決めたのは、もう何度目だろう。
行けば、舞台に乗る。舞台に乗れば、挑戦状の文字が濃くなる。
紙で行く。紙で返す。紙で奪い返す。
影は、去った。
レイジは踊り場の手すりに腕を預け、低く息を吐いた。
「結局、トワはどこにいる——」
「“どこ”じゃない」
アヤカが遮る。
「“いつ”にいる」
レイジは言葉の意味がすぐに咀嚼できず、息を止めたままアヤカを見る。
彼女は薄い笑みも浮かべず、まっすぐに続けた。
「彼はゼロの外側へ滞在してる。校舎の“いつ”の隙間。合図の列、空調の停止、清掃の車輪、鏡の一閃。——“いつ”が揃う場所に現れる。
場所を決めるのは易い。時間を決めるのが難しい。だから犯人は“ゼロの合図”を独占した。
……でも、合図はもう紙に書き起こせる。十六の打鍵、四の呼吸、0.2秒の刃、半秒の穴。
“いつ”は、ここから召喚できる」
レイジは観測者ノートの余白に、大きく一行、書いた。
——“どこ”ではなく、“いつ”。
筆圧が少し強すぎて、紙の裏に文字の背中が浮く。
紙は薄い。けれど、薄いからこそ、裏からも読める。
「最後に、もう一つ」
アヤカは踵を返し、校舎の中へ歩きながら言った。
「金属ケースは外へ出た。蓋は捨てられた。中身は——“研究データ”だけとは限らない。
彼が自分を“証明しないための証明”。
……例えば、“生徒会副会長・東雲トワの存在を消すための、東雲トワ自身の署名”。」
レイジは追いつき、隣で息を揃えた。
彼の脳裏に、トワの丁寧な字、写真の二十七度、鏡の矢印、ベルガモット、PLAの甘い匂い、フロロカーボンの冷たい手触り、そしてゼロの黒い顔が次々に点いては消える。
“反転”。
遺体ではなく、存在証明。
奪うのではなく、消す。
消すのではなく、外す。
外すのではなく、隠す。
——反転の仮説は、紙の上でゆっくりと姿を固めていく。
◇
夜が落ちる。
情報処理室の窓に、暗いキャンバスのような外が張り付く。
レイジは“0秒音声”に薄いフラグを立て、十六の打鍵のパターンを抽出して紙に落とし込んだ。
一、二、三、四、短い。
五、六、七、八、短い。
九、十、十一、十二、短い。
十三、十四、十五、十六、長い。
末尾の一拍だけ、他より長い。
終わりの合図。
——扉が閉まる音の代わりに。
「この“長い一拍”が、向こう側の“完了”。生徒会室の密室が閉じる印。……犯人は合図を“音楽”みたいに扱ってる」
「音楽と紙はよく似る」
アヤカは脈拍計の青い光を指先で軽く叩き、深く息を吸った。
「だから、こっちは“楽譜”に書き起こす。
反転の仮説。
——消えたのは遺体ではなく、存在証明。
——囮は生徒会室、本丸は理科棟。
——搬出物は人ではなく、金属ケース。
——蓋は排水枡。
——0秒音声の外側に、保守端子の打鍵。
——16拍、4小節。
紙の上で、曲にする」
「曲にしたら、演奏者が必要だ」
レイジは軽口を飛ばし、息苦しさを薄めた。
「演奏者は誰」
「まだ言えない。……けど、指は見えてきた。
呼吸の前にフェーダーを触る人。
刃の前に紙を並べる人。
幕の前に客席を設計する人。
機械の前に“中立”を誓う人。
合図の前に鏡を一度だけ光らせる人。
——そして、ゼロの前に立つ人」
窓の外で、風が一度止み、すぐに戻ってきた。
校舎のどこかで、小さな金属の鳴る音。
アヤカは、幽刻へは入らない。
入らないと決めた時の顔で、静かに立ち上がった。
「明日、会長に“紙”をぶつける。
金属蓋の番号、搬出の虚偽記録、面談の0.2秒、保守端子の打鍵の列。
——それでも否定されるなら、最後の一拍を、私が切る」
「幽刻?」
「違う。……紙。
最後の一拍の“長さ”を、紙で測る」
レイジは頷いた。喉の奥の緊張は消えないが、紙の重みが指に移って、息が戻る。
机の上で青い点滅が遅くなり、やがて止まった。
0秒音声は、今日も黙っている。
だが、黙るものは、紙の上でよく喋る。
反転の仮説は、まだ仮説だ。
けれど、仮説は刃だ。
向ける先が定まれば、必ず切れる。
切れた先に、東雲トワの“いつ”がある。
“どこ”ではなく、“いつ”。
紙の上で、そこを指定する。
——明日。




