第8話 死の中の生徒会
生徒会室の隅に置かれた小さなLANハブのLEDが、一定のリズムで点滅している。
新聞部の朝霧レイジは、会長の許可を得て開示された「権限ログ」のCSVを画面いっぱいに広げ、行番号を振り直した。校内設備の解錠・施錠・照明・空調の一部は生徒会権限で遠隔操作でき、その操作の足跡がここに残る。
「出た」
篝アヤカが椅子を引き寄せ、レイジの肩越しに覗き込む。
理科準備室の夜間施錠を“解錠”した記録が、事件前後の数日に限って散発していた。時間帯は夜の八時台と、朝の六時前。すべて承認者は「副会長アカウント」。
「東雲トワ本人が開けたのなら、彼のスマホに“実行通知”が来ているはず」
レイジは副会長の家族から預かった携帯を、期限付きの条件で解析している。通知のログ、プッシュの履歴。
「でも、ない。該当時間帯の通知が丸ごと空白。受信拒否や機内モードの痕跡もなく、通知センターの“件数”だけが矛盾した数になる」
「端末クローン」
アヤカが短く言う。
「認証トークンだけを複製すれば、通知を“別の端末”に流せる。生徒会のシステム担当なら、その程度は朝飯前」
「けどシステム担当の書記は、その三日間、県外の大会に行ってた。出張先からVPNで入るならまだしも、部屋割りの情報と移動ログによれば夜はずっと同行者と一緒。——アリバイは堅い」
レイジは画面をスクロールしながら、喉の奥で息を呑んだ。
浮上するのは、別の名前。
「会計の早乙女ミコト」
アヤカも同じ結論に辿り着いていた。
会計は備品の購入申請にタッチする。支払いの名目でUSB機器が動いても怪しまれにくい。放送部にも籍があり、ミキサー卓のオペが得意、音声編集もこなす。
◇
放課後の部室棟。
放送部のブースからは、学生が読み上げるニュースの声が漏れ、ミキサーのピークランプが弱く点る。レイジは顧問に断って、早乙女の個人ロッカーを開けた。事前に「本人立ち会い」を条件に、彼女も合わせて来てもらっている。
「勝手に見られるのは趣味が悪いけど、正面から来るのは嫌いじゃないわ」
早乙女ミコトは、猫のように細い目で笑った。前髪はぴたりと揃い、指先の動きは無駄がない。
ロッカーの上段にはノート、会計の封筒、番組進行表。下段に布バッグと化粧ポーチ。レイジは丁寧に順に取り出し、底を撫でる。指に、甘い砂糖のような匂いがついた。
「PLA樹脂の残りかす」
アヤカが囁く。
袋の底から出て来たのは、3Dプリンタの端材としか思えない糸くず。そして、小さな紙箱——JJY簡易送信機の市販キットの空箱。説明書だけが残り、本体は入っていない。
「それ、物理部のゴミ箱から拾ったの」
早乙女は肩をすくめた。
「紙箱は、小物入れに便利だから。PLAの糸くずは、足りない素材を借りに行ったらついただけ。物理部のゴミ箱、見たことある? 同じ空箱が山ほどあるの、知ってる?」
物理部の御子柴カナメは、開口一番で「事実だ」と短く言った。
「送信機の空箱は複数。PLAも共用。証拠能力は薄い」
「じゃあ、これも?」
アヤカが指先で摘み上げたのは、早乙女のペンケースに入っていた短い円筒。
赤い口紅。
キャップの縁に、かすかな銀の粉。鏡面でこすったときにつく微粉末に似ている。
「口紅を持っていたら何なの? 女の子の持ち物にいちいち推理を被せないで」
「鏡に矢印を描いた口紅と、色味が近い」
アヤカは事実だけを置く。断定はしない。
早乙女の目が一瞬だけ細くなる。
「放送部の小道具箱に同じ色が三本ある。私のだけの色じゃない」
言いながら、早乙女はレイジのノートの隅に視線を落とし、薄く笑った。
「あなたたち、いつも“紙”に逃げるわね。
紙は便利。匂いも音も影も、全部“言葉”にできる。
でも、言葉にした瞬間に、編集が始まる。それが“あなたたちの刃”」
アヤカは黙って頷いた。否定しない。
彼女の視線は早乙女の右手の甲へ落ちる。そこに、透明テープを剥がしたような細い白い筋が一本。
針金とテープを扱った手の、ありふれた痕跡。
「私に聞きたいのは何?」
早乙女は先に切り込んだ。
「東雲トワの居場所? それとも、ゼロ秒の墓標の“演出の責任者”?」
「二つとも、今ここで決めない」
アヤカは首をわずかに振り、質問を一つに絞った。
「副会長アカウントの“夜間解錠”。あなたは、生徒会の端末に触れられる?」
「会計は伝票の入力がある。触れる。——けど、権限トークンは別。そんなもの、書記しか持ってない」
「書記は遠征中」
レイジが重ねると、早乙女は唇の片端だけで笑った。
「“出発前”に仕込まれていたら?
それとも、“紙”の上では書記の遠征中でも、手はここにあったら?」
「どういう意味」
「紙のアリバイは、編集できる。あなたたちなら分かるでしょ」
挑発の調子は軽い。けれど、視線は泳がない。
アヤカは、その強さを計るように、微かに目を細めた。
「理科棟の夜間、あなたはどこにいた?」
「会計室。予算案の見直し。監査の先生に提出する締切が近かった」
答えは即答。
アヤカはレイジへ視線で合図する。
会計室の監視カメラのログ、入室記録、照明のON/OFF。
すべて、早乙女の言葉と一致している。
——少なくとも、紙の上では。
◇
その夜、校舎の風は乾いていた。
理科棟の非常口、外階段につながる鉄扉の上に埋め込まれた警報センサーは、入退室のログを建物の監視サーバへ毎分送っている。
レイジはその原始ログを引き出し、文字列を正規表現で洗い出した。
“OPEN_INNER”“OPEN_OUTER”“CLOSE”。
外から非常口を開ける行為は、本来なら設計上“OPEN_OUTER”として強くログに刻まれるはずだ。
だが、事件前後の三日間に限って、その文字列は出ない。
代わりに、妙な帯がある。
「ALM 微弱降下」。
「何これ」
「警報の閾値が、ほんの少しだけ下がった、という意味」
アヤカが答える。
「センサーの前に磁石を当てたり、外からソレノイドに微弱電流を流したりすると起きる、小さな“揺らぎ”。
——幽刻で感じた“空気の塩素”と同じ種類の針」
「外から、開けられている」
レイジの声は、独り言に近い。
「でも、“OPEN_OUTER”が残らないように、閾値をすり抜ける微弱操作」
その瞬間、アヤカの瞳の奥に薄い光が走った。
「短く入る。——二呼吸」
幽刻に触れないと決めた日でも、彼女は、小さく刃の縁をなぞる。
理科棟の非常口前。
吸う。止める。
世界が折れる。
彼女の耳に、すぐ近くで低いノイズが沈んだ。
人の耳には届かない帯。
でも、幽刻は音を“影”に変える。
警報のベースラインが、わずかに色を変える瞬間が視える。
それは、外から金属の冷たい磁力が触れて、センサーの小さな舌が虚空に向けて一度だけ動いた証。
止める。吐く。
戻る。
「——外から、開けられた“ことにする”操作。誰かがやった」
「搬出したのは何」
レイジの問いに、アヤカは即答しない。
校内のカメラには、大きな荷が運ばれる映像はない。
清掃カートの旋回痕には重量がない。
台車の弧は浅い。
——搬出物の痕跡は、どこにもない。
「搬出したのは、“もの”じゃない」
アヤカは自分の声を低く保った。
「“時間”だよ」
レイジは沈黙した。
彼女は続ける。
「東雲トワの“死の一秒の記録”。あるいは、彼の研究そのもの。
物理的な“遺体”ではなく、“再現可能なゼロ”を外へ出した。
実体のないものを運ぶには、台車が軽いのが一番理屈に合う。
非常口を“外から開ける”ように見せかける必要があったのは、校内の責任を切り離すため。
——中身は、人じゃない。時間の断片」
「でも、音声ファイルのコピーなら、ネットでも渡せる」
レイジは反射的に反論した。
「なぜ、わざわざ非常口から」
「“紙”を作るため」
アヤカは観測者ノートに、細い四角を書き足した。
“外部搬出の記録”。
「校内の責任を外す手順は、紙の上で美しくある必要がある。非常口開放の痕跡が、校務の記録に残れば、校舎は“外で起きたこと”として処理できる。
しかも、“ALM微弱降下”であれば、担当は“機器の誤作動”として報告できる。
——誰かが“紙のために”非常口を揺らした」
彼女はペン先で、ノートの四角を二度なぞった。
会長の顔が脳裏をかすめる。
管理のために幕を張る人。
ユナの横顔が差し込む。
観客の目線を設計する人。
御子柴の手袋が、透明な袋を閉じる音。
物理は中立だと言い切る人。
そして、早乙女ミコトの赤い口紅。
鏡に矢印を描ける人。
「会計の早乙女は、放送部でミキサーを握る。音の“継ぎ目”の美学を、体で覚えてる。
システム担当の書記は、0.2秒の刃を持ってる。
会長は行政の作法で“幕”を用意する。
ユナは視線と動線の“客席”を設計する。
——その交差点で、“時間の断片”が外へ運ばれた」
「犯人は“交差点”」
レイジの声が乾く。
「個人じゃなく、役割の重なり」
アヤカは、首をわずかに横に振った。
「でも、“引き金”を引いた指は、一本だけ。
それを見つける。
だから、早乙女ミコトにはもう一度会う。彼女の“刃”は音。彼女が手放せない癖は、必ず音に残る。
会長には“紙”の矛盾で迫る。権限ログの時刻と、面談録音の継ぎ目。
ユナには、鏡と口紅の“身体的な角度”で問う。
御子柴には、非常口の“微弱降下”を物理の言葉で解体してもらう」
◇
生徒会の会計室は、白い蛍光灯に真っ平らだった。
早乙女ミコトは、机の上に帳簿を広げ、片手で電卓を軽く叩いている。打鍵の音に“メトロノーム”のような一定のリズムが乗る。
「もう、来ると思ってた」
彼女は自分から口を開いた。
「あなたたちが次に持ってくるのは、“音”でしょ」
「当たり」
アヤカは小型のICレコーダーを机に置き、再生ボタンを押した。
放送部が数か月前に制作した朗読番組のラスト十秒。
そこで二回、0.2秒の沈みが入る。
番組の結びの音楽に合わせ、ナレーションが伸びる箇所。
早乙女が担当した放送回だ。
「誰にでもある癖」
早乙女は即座に返し、反撃を用意していた。
今度は彼女が再生する。生徒会の活動報告の音声。
ここにも、0.2秒の沈み。
編集を担当したのは——システム担当の書記。
「0.2秒は、校内の“標準”。私だけの癖じゃない。
あなたたち、“刃の長さ”だけで人を斬れると思ってる」
アヤカは静かに、しかし確実に頷く。
「刃は、柄で決まる。
——あなたの柄は、“送り出す手”。
放送のフェーダーを上げ下げする時、あなたは必ず“空白の手前で息を吸う”。
その呼吸が、継ぎ目の前に必ず乗る」
レイジはヘッドホンを片耳に当て、息を呑んだ。
たしかに、継ぎ目の直前、無意識の呼吸音が微かに乗る。
ナレーションが“音楽に乗る寸前”、ふっと空気が薄くなる。
それは、ミキサーを握る人間だけが発する“作業の息”。
「事件当日の“面談音声”。会長の録音にも、その呼吸はあった」
アヤカの声が深くなる。
「面談の途中、0.2秒の沈みの手前に、“フェーダーの息”。
——あなたはその部屋にいた?」
早乙女は、初めて目を伏せた。
だが、次の瞬間には顔を上げる。
平静を取り戻した声で、短く言う。
「会長に頼まれた。ノイズを落としてくれって。面談の記録は読みやすくあるべきだもの。
私は“刃”を貸しただけ。
東雲くんの“時間”を外へ運ぶ手伝いなんて、していない」
「非常口の“微弱降下”は、誰の手?」
「知らない。——本当に」
嘘の重量は、声の振動で薄く測れる。
アヤカは畳みかけない。
彼女は透明の袋から、理科準備室で回収したフロロカーボンの毛羽を取り出し、光に透かした。
早乙女の瞳が、ほんの僅かに動く。
興味か、記憶か。
どちらにせよ、その目は“引く手”を知っている目だ。
「あなたは観客席を作る人じゃない」
アヤカは言った。
「あなたは“送り出す人”。
ミキサーの前と、非常口の前は、同じ場所」
早乙女は笑わなかった。
そして、静かに言った。
「東雲くんは、死んでない」
レイジは息を呑む。
早乙女は続けた。
「“死の一秒”は、彼の内側にある。
だから、外へ運んだのは、データでも、機械でもない。
——“人”よ。
でも、“遺体”ではない。
“生きている人”。
あなたたちが作った観客席の向こう側から、こちらを見ている」
その言葉は、挑発ではなかった。
言い終えた彼女の手は、膝の上で小さく握られていた。
アヤカは、一度だけ深く頷いた。
「ありがとう」
◇
夜。
理科棟の非常口の外。
外階段の踊り場には、街灯の光が薄い円を落としている。
御子柴カナメがセンサーに弱い磁力を当て、ログの“微弱降下”を再現してみせ、最小限の磁石でもしきい値が揺らぐ設計上の弱点を短く説明した。
「機械は、正直だが、温情がない。
“外から開けた”という紙が必要なら、こういう操作を挟むだろう。
犯人が“誰かを外へ出した”のなら、ここを通したはずだ」
「でも、搬出物の痕跡はない。
車輪も、足跡も、重みの滲みも」
レイジは踊り場の金属の床に膝をつき、指で埃をすくった。
薄い、軽い埃。
甘い匂いはしない。
——PLAではない。
「人を運ぶ必要は、ない」
アヤカの声は、乾いていた。
「“合図”があれば、彼は自分で歩く。
“清掃の車輪”。“鏡一度”。“空調二、停止”。——理科準備室のカードにあった符丁。
それらが揃う時間、彼は非常口に現れた。
外へ出た。
——生きたまま」
レイジは観測者ノートの最終ページに、細い字で書いた。
——東雲トワは生きている。
——“死の中の生徒会”は、彼を死なせないための舞台。
——“時間の断片”は、人の足で運ばれる。
遠くで、チャイムが鳴った。
音階が、ほんの少しだけ揺れる。
校舎のどこかで、誰かがまだ“時間”をいじっている。
アヤカは目を閉じ、一呼吸、深く吸って、長く吐いた。
幽刻へ入らない。
命を削らない。
——今は、紙で行く。
「会長に“紙”をぶつける」
彼女は目を開け、まっすぐに踵を返した。
「権限ログの矛盾。面談音声の継ぎ目。非常口の微弱降下。
そして、早乙女の“送り出す息”」
「ユナは?」
「鏡の矢印の“高さ”を測る。
彼女の身長、腕の長さ、手首の可動域。
——演出の“身体”は嘘をつけない」
御子柴は黙って頷き、黒い箱をポケットに戻した。
風が、外階段の鉄を鳴らす。
その金属音の上に、極めて薄い、息のような音が乗った。
誰かの呼吸。
レイジは振り向いた。
踊り場の暗がりに、一瞬だけ白い面が浮かぶ。
手鏡だ。
光は、一度だけ。
合図。
アヤカは、足を一歩だけ前へ出し——そして止めた。
行かない。
挑戦状の返答は、舞台に乗らないこと。
紙で追う。
白い光は消え、夜の輪郭が戻る。
レイジは胸の奥に、鼓動の形で残った合図を、一つずつ言葉に変えた。
紙は、呼吸を数える。
呼吸は、時間を刻む。
時間は、墓標と標識を行き来する。
生徒会は、死の中にいた。
だがそれは、死なないための“死”。
ゼロ秒の墓標の周りで、誰もが役割を演じ、刃を貸し、息を合わせた。
東雲トワは、その中心から一度外へ出た。
連れ戻すのではない。
——帰って来られる道を、紙で敷く。
アヤカは、観測者ノートを閉じた。
手首の脈拍計の青い光が、静かに点滅する。
彼女は笑わず、しかし確かに頷いた。
次に幽刻へ入るときは、命を担保にする価値がある時だけ。
その時まで、紙で切る。
刃の長さではなく、柄の重さで。
“死の中の生徒会”から、“生きたままの出口”へ。
夜風が一度だけやみ、校舎が低く鳴った。
その鳴りは、遠い雷のようで、ページをめくる音にも似ていた。
次の章の見出しは、もう目の前にある。
時間の墓標の脇に、細く刻まれて。




