第7話 時間の墓標
停止した電波時計は、こちらを見ている。
四角い液晶に「00:00:00」。無内容の黒い数字は、けれど、どの写真でも“正面”を向く。二十七度、影が締まる角度。
篝アヤカは、その時計を“墓標”と呼んだ。
埋葬したのは時間。埋められたのは、人の判断。生徒会室という舞台装置の中央に立つ黒い墓標は、犯人があとから角度を整え、見せ場に据えた演出だった。
新聞部の朝霧レイジは、その墓標から視線を剥がし、窓の外を見た。
夕刻の光。理科棟の廊下に、細長い影が斜めに落ちている。
あの床に、ずっと引っかかっているものがある。
靴底ではない。清掃カートのゴム跡とも違う。
——台車のタイヤ痕。
◇
「荷重が、軽すぎる」
理科棟一階、準備室へ続く廊下。
レイジはスマホのライトを床に滑らせ、タイヤ痕の縁を舐めるように照らした。黒い弧は何本か重なっており、どれも浅い。押し跡の周囲に、重みで“滲む”粉塵の広がりがない。
なのに、弧は大きい。止まって、旋回して、押し出す弧。
重いものを運ぶほど、回頭は小さくなるのが自然なのに。
「台車に“重さの実体”がない」
レイジが言うと、背後から無造作な声。
「空の躯体を載せて、重量を偽装した可能性がある」
物理部部長・御子柴カナメが、膝を折って床に指先をつけた。
白い手袋の腹で軽く撫で、指先についた黒を親指で潰す。
「外から見る“見た目の大きさ”に対して接地圧が低い。中身が空っぽの樹脂殻、あるいは折り畳み担架のカバーだけを載せて押したなら、こういう痕の出方になる。
“重いものを運んだように見せたい”ときの痕跡だ」
「遺体の移動、は……」
言いかけて、レイジは唇を噛んだ。
東雲トワが死んだとは誰も言っていない。けれど、犯人は“死”を演出する方法を知っている。ゼロ秒の墓標を立てる人間だ。
アヤカは首を横に振った。
「生徒会室で“死”は起きていない。
——ここ、理科棟で“運ばれたもの”がある。それを“死”と見せるために、生徒会室を舞台にした」
「つまり、生徒会室は舞台装置」
レイジが飲み込むように言う。
「事件の実体は理科棟にある」
アヤカは頷くと、準備室の扉に軽く触れた。
ステンレスの取っ手は冷たく、指先に金属の薄い匂いが付く。
扉が開くと、空気が入れ替わる。
漂うのは、乾いた塩素。昨日、幽刻の縁で嗅いだ短く尖った匂い。
「三呼吸で入る。短い。戻ったら、匂いと温度と影の差分を書いて」
観測者ノートが開く音と、アヤカの足音がずれる。
彼女は机の角で脈拍計の青い光を確かめ、椅子に腰を浅く乗せ、目を閉じる。
吸う。止める。吐く。
三つ目の“止める”で、世界が薄い膜の裏側にひっくり返る。
——幽刻。
蛍光灯の唸りが遠のく。
空気の粒子が止まる。
アヤカは、止まった時間の中で、まっすぐにステンレストップへ歩いた。
布で拭われた曇りガラスのような薄い霞の中に、一本の線が浮かぶ。
指で描いた円。
拭いたあとにだけ残る、わずかな脂の軌跡。
直径十センチほど。
円の中心に、小さな穴。
縁は“磨り出し”のように滑らかで、洗浄のたびにわずかに丸められている。
——ここに糸を通して、滑車に。
アヤカは身を屈め、穴の下を覗き込んだ。
穴はステンレストップの板を貫き、その先で小さな金属輪へ落ちる構造になっている。
輪は台下の空間へ垂直に下がり、さらに台の脚に沿って側面へと導かれていた。
台の側面には、ほんの針の先のような擦れ跡。
糸は、ここで“方向を変えられた”。
円の残像は、幽刻の光でしか視えない。現実へ戻れば、洗浄剤の輝きと混ざって消える線。
アヤカは吸う、止める、吐くの三つを終え、現実へ戻った。
蛍光灯が唸り、空調が息を吹き返す。
「円の中心に穴。糸の滑車。台の脚に“導き”。——遠隔の仕掛け」
声は掠れていたが、理路は鋭い。
レイジはメモに走らせるペンを止めず、次々と箇条書きに落とした。
「内側施錠の“理科棟版”?」
「似て非なるもの。
“回す”のではなく、“引く”。
ステンレストップの下を通した糸は、準備室の奥の棚板に達しているはず。棚の裏側に取り付けた小さなラッチやピンを引き落とせば、ドアの補助ロックに相当する“内側機構”を外から操作できる。
——生徒会室の密室トリックと、同型で異種。ここで成立する」
カナメが台の下に潜り込み、ライトを動かした。
脚の裏側、しっかりした金属の角に、透明なテープの断片。
その端で、フロロカーボンのささくれが捕まっている。
「釣り糸。直径は十分の二ミリ。伸びにくいフロロなら、引いた力がそのまま伝わる」
カナメが短く言う。
「糸のルートを辿れば、どこで“遠隔”されたかすぐわかる」
「でも、それを誰が。いつ」
「廊下の半秒で、じゃない」
レイジが言うと、アヤカは首を振った。
「半秒の“穴”は、生徒会室の舞台を整えるために使われた。
理科棟での仕掛けは、別のタイミング。ここは、空調とNTPの揺らぎが大きい。
——“時間がずれる”場所と設備を、犯人は熟知している」
視線が、三人の間を巡る。
放送部。物理部。生徒会システム担当。
そして、会長、水無瀬ユナ。
名前の列はいつも同じなのに、そこに付箋で貼られた“役割”は、場面ごとに入れ替わる。
生徒会室では、会長は幕を張り、ユナは手を貸した。
理科棟では、誰が“引いた”のか。
「ここ、指で描いた円の“描き方”に癖がある」
アヤカはステンレスに顔を近づけ、鼻先で息を浅くした。
指紋のひとすじも残らないほど拭われているのに、輪郭だけが、幽刻の余韻のように浮かぶ。
円は、左回り。
起筆の位置が“左肩”から入っている。
七の左肩。管理簿の“7/24”。
——同じ肩。
「会長?」
レイジの口から出た音は、意識より先に走っていた。
アヤカは頷かない。ただ、目を伏せ、小さく息を吐いた。
「“肩”は似る。でも、同じとは限らない。
左肩から入る癖を持つ人間は、校内に複数いる。書記のユナも、短い数字は左肩から入る。
ここで決めない。
——ここで決めるべきは、“構図”だ」
「構図」
レイジは復唱する。
「生徒会室は、墓標を立てるための舞台。
理科棟は、仕掛けを動かすための作業場。
“遺体の移動”は理科棟。生徒会室の密室は、誰かに見せるための見せ場。
——挑戦状」
アヤカの声が、わずかに硬くなる。
「犯人は“東雲トワの研究(同期のズレ)を犯罪に応用したことを見抜け”と、挑発している。
ゼロ秒の墓標を中央に置き、二十七度の角度で並べ、0.5秒の穴で縫い、とどめに“内側施錠の遠隔類似”。
論文の要点を、校舎という紙に書き込んである」
「どうして、そんなことを」
レイジの問いは、素直だった。
アヤカは答えを急がない。
幽刻の縁に立って、言葉をひとつ選び、それから口に落とした。
「“盗作”の宣言か、“共同研究者”の指名か。
あるいは——“観客”が必要だった」
観客。
レイジは、写真の二十七度を思い出した。
“見せる”ための角度は、舞台と客席の“約束事”だ。
放送部の部長は、半秒の穴を取りにきた。
システム担当は、0.2秒の継ぎ目を整えた。
会長は幕を張り、ユナは目線を整理した。
——観客席を作ったのは、誰だ。
「ここで“観客”を最も意識するのは、放送部」
カナメが言う。
「だが、放送部は“絵”が主。時間の刃物を扱うのは、システム担当だ。0.2秒に酔える性質。
そして、理科棟で“引く”仕掛けは、物理が得意とする機械。
つまり——」
「三者の交差点」
アヤカが言葉を継ぐ。
「この事件は、一人の犯人ではなく、“交差点”が犯人。
交わる刃の、その中心に、東雲トワが立っていた」
レイジはノートの余白に、十字を描いた。
縦に“物理”。横に“放送”。
交点に“システム”。
その十字の中央に、小さな丸を書き、“トワ”と入れる。
丸の上に、墓標のゼロを書き、肩に二十七度の矢印を立てる。
——挑戦状の図は、こうして出来上がる。
◇
準備室の奥、棚の裏側を点検していると、ひょい、と誰かが姿を見せた。
水無瀬ユナだ。
淡い色のカーディガン。銀の水筒。ベルガモットの香り。
彼女は「さがしものを」とだけ言い、視線をステンレスの台へ滑らせ、それからレイジの手元のノートへ落とす。
十字とゼロ。
彼女の目の端の筋が一度だけ揺れ、それからすぐに止まった。
「観客、ね」
ユナは薄く笑う。
「私たち、誰に見られているのかしら」
「あなたが、決めたのでは?」
アヤカが正面から言う。
「生徒会室で“ゼロの写真”が撮られる角度。廊下で視線が一点に集まるタイミング。
あなたは、観客のいる場所を作るのが上手い」
「褒め言葉として受け取るわ」
ユナは肩をすくめ、台の角に指を置いた。
指の腹に、金属の冷たさが映る。
「でも、観客席を作っただけ。舞台の“脚本”を持っているのは、他の誰か。
私は、東雲くんの“安全退場”のために、嘘を引き受けた。
墓標を立てる趣味はない」
「脚本」
レイジがその単語をノートの端に写したとき、扉の向こうから靴音。
放送部の部長が、肩にビデオカメラを提げて立っている。
彼は台の上、円の残像があるあたりを見て、興味深げに眉を動かした。
「ここ、絵になるな」
「絵にするつもりはない」
アヤカの口調は平坦だった。
「“時間の墓標”を立てたのは、犯人だ。あなたがそれを“二次利用”すれば、“挑戦状”に応えることになる」
「挑戦状?」
部長は笑う。
「挑発に乗る趣味はないけど、話は面白い。
——それ、誰宛?」
「私たち全員」
アヤカは、円の中心に空いた小さな穴を指差した。
「引けば動く人。撮れば見える人。編集すれば消える人。
そして、見抜けなければ“何もなかった”ことにしてしまう人。
犯人は、この校舎を“実験都市”に見立てた。東雲トワの研究テーマを、校内で一番残酷な形で実演した」
ユナの指が、台から離れた。
ベルガモットの香りが薄くなる。
彼女は一歩だけ下がり、目を伏せる。
「観客でいるのは、楽だものね」
静けさが、短く落ちる。
カナメがライトを置き、ポケットから透明の小袋を取り出した。
さきほど拾ったフロロカーボンのささくれ、台の脚の粘着片、台車のゴム粉。
彼はそれらを一つずつ封じ、ラベルに“座標”を書き込んでいく。
物理は中立——そう言いながら、彼の手つきは“証拠保全”の正確さを持つ。
「挑戦状は受け取った。なら、返答を出す番だ」
アヤカは観測者ノートの“編集”の欄に一本線を引き、そこへ新しい項目を書いた。
——“墓標の所有者”。
ゼロは誰のものか。
それを、紙の上に決める。
「会長に会う」
アヤカの声は決意を含んでいた。
「面談音声の0.2秒。この準備室の“引き”の仕掛け。ステンレスの円。左肩の癖。
そして、あなたの机にあった、鏡と口紅」
ユナの視線が、アヤカとレイジの間をいったりきたりし、最後に軽く頷いた。
「会長は、嘘を“管理”する人。
でも、嘘を“演出”する人ではない。
私はそう信じたい」
放送部長は、肩のカメラを下ろした。
「俺は、絵から離れる。
——観客席から降りるよ」
「ありがとう」
アヤカは言った。
それがどれほどの意味を持つ一言か、彼女は理解していた。
観客がいなければ、舞台は成立しない。
挑戦状は、答えを必要とするだけで、喝采を求めてはいない。
◇
会長室のドアを叩くと、短い間ののちに「どうぞ」が返ってきた。
机の上は整い、丸い磁石と透明な糸巻は片付けられている。
会長は椅子に浅く座り、眼鏡を軽く押し上げた。
「また質問を」
アヤカが言う。
「今度は“墓標”について。
生徒会室の電波時計を、正面に向けたのはあなた?」
「私だ」
会長は隠さない。
「混乱を防ぐための“見せ方”を整えた。事故として処理されるための、行政上の作法だ」
「あなたは、理科準備室で“引いた”?」
会長は初めて視線を泳がせた。
アヤカは畳みかけない。
かわりに、ステンレストップの円の残像と穴の構造を説明した。
糸を滑らせて、遠隔で内側を外す仕掛け。
その上で、静かに告げる。
「生徒会室は舞台。理科棟が実働。
あなたは幕を張った。
でも、“引いた”のは、別の手だ」
会長は、わずかに息を吐いた。
「——そうだ。
私は、幕を張った。
引いたのは、システム担当だ。
彼は“時間を整える”ことに、過度の誇りを持っている。0.2秒の継ぎ目を美しいと感じる種類の才能だ。
私は彼に、引くなと言った。
彼は、引いた。
それが“挑戦状”になった」
「東雲トワは、生きている?」
レイジの問いは、彼自身の鼓動より少し速かった。
会長はうなずきも、首を振りもしなかった。
その代わりに、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
ゼロの丸。
短い矢印。
“時間の墓標”という三文字。
会長の字ではない。
でも、この部屋に置かれていたものだ。
「これは、東雲が私に残した“注意書き”だ」
会長の声が初めて揺れた。
「ゼロは墓標であり、標識だと。
見える者だけが、そこへ辿り着ける。
——君たちは、見えた」
アヤカは紙を受け取らない。
ただ、観測者ノートの余白に同じ三文字を書いた。
時間の墓標。
その下に、薄く線を引き、結論を置く。
「挑戦状は、受理されました。
返答は、こう。
“研究の応用は、犯罪になった瞬間に、共同研究ではなくなる”。
ゼロは、誰かの寿命に乗っている。
盗めば、墓標にあなたの名が刻まれる」
会長は、長いまばたきを一度だけして、目を開けた。
窓の外、校庭に風が走る。
チャイムが鳴る。
音階が、ほんのわずかにずれる。
まだ誰かが、どこかで“時間をいじっている”。
◇
夜、体育館側の廊下。
御子柴カナメが、黒い箱を手の中で軽く回した。
「半秒を作る準備はできている。
でも、今日は使わない。
——挑戦状への返答は、舞台に乗らないことで示すのがいちばん効く」
「舞台から降りる」
ユナが呟いた。
ベルガモットの香りが、風に溶ける。
放送部長はカメラを下げ、システム担当の名は、まだ口にされない。
十字の交差点は、形だけ残して、少しずつほどけていく。
けれど、ほどけた糸は、次の結び目を探している。
「アヤカ」
レイジは呼吸を整え、彼女の横顔を見た。
頬の薄い影。手首の青い光。
彼女は笑わないが、声は柔らかい。
「大丈夫。幽刻は、使わない。
——命を削る価値があるときだけ、私はゼロへ入る」
その時、廊下の角で小さな反射。
誰かが手鏡を一瞬、こちらへ向けた。
光は白く、短く、二回。
合図。
アヤカの足が、半歩だけ前へ出る。
だが、次の瞬間、彼女は足を引いた。
「行かない」
「いいのか」
「挑戦状の返答は“行かないこと”。
時間の墓標を動かしたければ、彼らは舞台を変える。
私たちが行くべき場所は、次の“紙”。
送信機の台帳。貸出簿。承認ログ。
——言葉で、ゼロの所有権を剥がす」
レイジは観測者ノートを閉じ、胸ポケットに戻した。
紙は、音も匂いも影も、すべてを吸い取り、同じ重さでこちらに返す。
それだけが、幽刻と現実の間に引ける確かな線だ。
夜風が、廊下を通り抜ける。
校舎の四隅で、ほんの僅かに時刻がずれる音がした。
ゼロがどこかで口を開け、また閉じる。
時間の墓標は、たしかにここに立っている。
けれど、それは墓ではなく、標。
進むための、印。
アヤカは、その印の横を歩いていく。
寿命を刻む薄い傷を抱えたまま、足どりは静かで、まっすぐ。
レイジは横に並び、呼吸を揃える。
御子柴は少し後ろで、黒い箱をポケットに戻した。
ユナは振り返らず、銀の水筒を握り直す。
放送部長は、カメラのキャップをはめた。
観客席は、空になった。
舞台は、暗い。
それでも、次の場面は組まれていく。
ゼロを越えるのは、いつだって、紙と目だ。
そして、覚悟。
時間の墓標は、風に鳴らない。
だからこそ、私たちは耳を澄ます。
無音の0.2秒で折れた空調ノイズの線。
半秒で欠けたフレームの番号。
ステンレスに指で描かれた円の残像。
机の裏の薄いテープ。
——それらすべてが、同じ方向を指している。
東雲トワは、まだゼロの外側にいる。
彼が戻る場所を、墓標から標識へ変えるのは、こちらの仕事だ。
挑戦状への返答は、舞台の上ではなく、紙の上で。
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