第6話 死の一秒の記録
机の裏に指をかけると、革の裏地がわずかに鳴った。
篝アヤカは薄いマグネットシートの端をピンセットで持ち上げ、ゆっくりとはがす。粘着の抵抗が一段落するたび、シートの下の木地が呼吸を吐くように音を立てる。
見えたのは、名刺ほどの黒い板だった。シリコンの縁に薄いアンテナ線。USB-Aの金属端子が、机の裏側に三ミリだけ差し込まれている。——いや、差し込まれてはいない。端子の先端はダミーで、その裏に極小のバッテリーと発振器、そして記録用のフラッシュが貼り付けられている。名は体を表す。送信のためだけに存在する、片面の影だ。
「……再送信器」
新聞部の朝霧レイジが息をのんだ。
電波時計の近傍に置いてJJY信号を“上書き”する、室内用の小さな悪意。
アヤカは手袋の腹で埃を払い、スライドスイッチを中立にしたのち、爪先でリセットピンを短く押す。LEDが一瞬だけ紅く点いた。
「ログ、出せる?」
「やってみる」
レイジはノートPCに接続したポータブルリーダーを取り出し、基板のピンヘッダにクリップで噛ませる。数秒後、画面に簡素なテキストが現れた。
——BOOT 00:00:00
——TX 00:00:00〜00:00:01
——LOOP SYNC WAIT
——TX 00:00:00……
時刻はすべてゼロ。内部時計を持たず、起動のたびに“ゼロで送る”ように設計されている。
つまり犯人は、机の裏にこの薄い装置を貼り、校内の同期タイミングに合わせて“存在しない瞬間”を量産したのだ。
停止した電波時計。再生時間ゼロの音声ファイル。
ゼロという数字は、舞台装置の黒幕みたいに、あらゆる出来事の背後に張られていた。
「……でも、まだ肝心が残る」
アヤカは静かに装置を袋に収める。
「東雲トワ本人の“消失”。ゼロは舞台を作るけれど、役者の所在までは作れない」
彼女は目を伏せ、鼻先を小さく皺にした。幽刻から戻ってから、ずっと胸の奥に引っかかっていた“匂い”があった。
消毒薬ではない。紅茶でもない。
塩素——だが、プールのそれと違い、乾いていて短い。理科棟の薬品庫に近い匂い。
生徒会室の空気の片隅に、それがあった。
「塩素系の除菌洗浄剤。理科準備室の棚にあるタイプに似てる」
「漂白?」
「違う。揮発が早い。“拭いた”直後の匂い。——誰かが、何かをきれいに拭って、去った」
レイジの頭に、前夜のメール履歴がよぎる。東雲の私物PCを解析していたとき、彼はふと奇妙な“予約票”に目をとめた。
理科準備室のオンライン予約。翌日の午前。使用目的は“測定”。
申請者はトワのID。
承認者は、生徒会長のアカウント。
「会長の承認……」
レイジがそれを口にすると、アヤカの目が細くなる。
「会長に関与の疑いは濃くなる。でも、彼には堅牢なアリバイがある。職員との面談。録音あり」
「録音は、事実を保存するためのものよね」
アヤカは薄く笑った。その笑みは、どこか疲れている。
「保存は、いつでも“編集”へと滑れる」
◇
情報処理室の遮音ドアが閉まると、世界が一段低くなった。
レイジは会長の提出した面談音声ファイルをDAWに読み込み、波形を左右に伸ばす。重なっているのは、男女二人分の声と、空調の通奏低音、時折交じる紙をめくる微音。
アヤカは椅子を半歩引いた位置に座り、ヘッドホンを半分だけ耳にかけた。片方の耳は、現実の音のために開けておく。幽刻に依存しないための、彼女なりのささやかな抵抗だ。
「十七分四十秒、ここ」
レイジがポイントを打つ。
会長が「つまり——」と言い、職員が「そこまでの報告を——」と被せる、その合間。
0.2秒、ノイズが沈む。
空調のうねりが、ぽっきり折れる。
それからまた、何事もなかったように戻る。
「気づく人はいない」
アヤカはささやいた。
「でも、耳はいったん“無音”を知ると、その周囲の音を違う意味に分類し始める。——ここに切れ目がある」
彼女はタイムストレッチをかけ、波形の底のノイズフロアを見せるよう指示した。
レイジは周波数解析を開き、スペクトログラムを立ち上げる。
カーテンのような帯が青から緑へ動く。
50ヘルツの鉄の線が、0.2秒だけ薄くなる。
蛍光灯と空調の併唱は、ここで呼吸を忘れた。
「編集の継ぎ目か、あるいは“録音の一時停止”。どちらにしても、面談の連続性は破れた。……会長のアリバイは、完全ではない」
「この切れ目で何ができる?」
「別室で誰かと短くやり取りする。扉越しに合図を送る。あるいは——NTPの再同期装置を一瞬だけ動かす」
レイジは唇をきつく結ぶ。
アヤカは椅子から立ち、窓の外の光の色を確認した。夕方の手前、影が伸び始め、秒針のない時計は相変わらず死んだ顔でこちらを見ている。
「会長にもう一度訊く。けれど、今は“場所”。東雲が最後に向かった理科準備室を確かめる。校内の空気の匂いは、そこだけ違う。ゼロの匂いに、塩素が混じる」
◇
理科棟の裏側、重い扉に“薬品庫”の札。
許可のカードキーを鷺沼先生が翳し、扉が短い気配で開く。
棚の列。無色の瓶。黄色いラベル。
空気は乾いている。鼻腔の上の方に刺す、短く尖った匂い。
床には、清掃用のポリッシャーの跡がうっすらと残る。
カゴの上に、使い捨てのマスク。内側が、薄く灰色に煤けている。
「漂白除菌のあと」
アヤカはひと呼吸置き、視線を下げた。
排水口の縁に、白い粉が残っている。
PLAの甘い匂いはしない。
——つまりここは、樹脂ではなく“血”が拭われた場所ではない。
彼女は薬品庫の奥ではなく、隣の理科準備室へ向かった。
ここは、測定器と洗浄台と、予備の備品が密度高く詰め込まれている。
壁の換気扇が低く回り、ステンレスの天板が鈍く光る。
流し台の下の収納の扉。磁石のキャッチ。
扉の内側に、薄い何かが貼られている。
「……マットの裏と同じ仕掛け」
アヤカはそっと剥がし、薄いマグネットシートをめくる。
現れたのは、名刺より一回り小さなプラスチックカード。
銀色の箔押しが一部剥がれ、マジックで“0/1切替”と書かれている。
裏面に、ごく短いメモ。
——清掃の車輪の音が合図。
——鏡一度。
——空調二、停止。
——0.2秒。
「……出来過ぎている」
レイジが唸った。
「設計図みたいだ」
「設計図だよ」
アヤカはカードを裏返し、爪で軽く叩く。わずかに中空の響き。
厚みの中に、何かが入っている。
縁を薄く割ると、マイクロSDが一枚、胸ポケットへ滑り込むように落ちた。
◇
データを開くと、そこには音があった。
長さ——0.999秒。
ファイル名は“REQUIEM_00”。
波形の最初と最後に、泡立つようなノイズ。
中央に、心拍のような一瞬の山。
レイジは指先の震えを抑えて再生ボタンを押す。
無音。
耳鳴り。
体内の水が引っ張られるようなざわつき。
——そして、わずかに、息の音。
「死の一秒の……記録?」
自分の声が、やけに遠くで響いた。
「“幽刻のサンプル”だ」
アヤカは、呼吸を整えるように胸に手を当て、画面に顔を近づける。
スペクトログラムを出すと、画面の中央に薄い“白い傷”が走っていた。
音のない音の痕跡。
0.2秒、空調ノイズが沈む落差の形に似ている。
——誰かがこの一秒を、再現しようとしていた。
「東雲くんが採ったのか、彼に採らせたのか」
アヤカはファイルのプロパティを読み、微細なメタデータの癖を手でなぞるように追った。文字コードの癖、記録装置のベンダ文字列、編集ソフトの残臭。
そこに“会長”の名前は出てこない。
代わりに、“承認者”のアカウントIDが保存の履歴に一度だけ残る。
会長の端末から、ファイルを一度、開いた痕跡。
そして、すぐ閉じている。
「会長はこの“一秒”がどういう種類のものか、直感した。校内で扱うべきではないと判断した。だから外へ——“事故”という幕に載せて、出した」
「でも、その幕の準備をしたのは誰だ」
レイジの問いに、アヤカは一瞬だけ目を閉じた。
彼女のまぶたの裏では、二十七度の影と、ゼロの文字と、鏡の矢印が、同じパターンで回転している。
彼女はゆっくりと目を開け、観測者ノートを新規にめくった。
ページの上に四角を描き、項目を一つ増やす。
——“編集”。
時刻、匂い、温度、音、照明角度、そして“編集”。
残されたものに触れた手を、紙の上で浮かび上がらせるための欄だ。
「面談音声に戻る。0.2秒の落差が示すのは“切断”。切断には刃物がいる。——編集ソフトの刃。その刃は、同じ癖を残す」
レイジはうなずき、会長が提出した別日の会議録音を呼び出した。同じ機材で録られたはずの、一切編集のない部活予算会議の音声。
波形の底は、均質。
だが、三か月前に校内掲示に添付された「進路講演会のお知らせ」の録音には、かすかな切れ目が二度。どちらも0.2秒。
編集の信号だ。
その音源を作った担当者は——生徒会のシステム担当。
名前は、会長の右腕としていつも影に回っている二年生。
写真に写ることが少なく、目立つことも少ないが、彼の指は、いつも白いキーボードの上で猫のように細やかに動いている。
「生徒会システム担当」
レイジが名を挙げると、アヤカは短く頷いた。
「彼は“時間を整える人”。通知、配信、議事、ログ。
彼の刃の癖なら、0.2秒という短さに“酔って”しまうのも、理解できる」
「なら、彼は犯人?」
「まだ決めない。
——ゼロは複数の手で作られている。
会長は幕を張った。ユナは手を貸した。御子柴は物理を用意した。システム担当は時間を整え、“見えない継ぎ目”を作った。
そして、その上で——“奪おうとした手”が、混じっていないか」
その時、扉が叩かれた。
開けると、会長が立っていた。
目は冷静で、疲れている。
机の上のマイクロSDカードを一瞥し、彼は無駄のない口調で言う。
「それは、返してほしい」
「理由は」
「彼の安全のためだ。
“死の一秒”は、学校という器には収めきれない。外の器にも、まだ早い」
会長は一拍置いて、続けた。
「たいせつなのは、東雲トワが生きているかどうかだろう。彼は今、居場所を移している。——それ以上は言えない」
アヤカは彼を見た。長く見た。
そして、ごくわずかに首を傾げ、会釈した。
「なら、これは“見た”。それで十分。
代わりに、あなたの録音の編集について、質問する。十七分四十秒。0.2秒の沈黙」
会長の頬に、初めて人間らしい陰影が差した。
彼は眼鏡を外し、机に置く。
「――席を外した。ドアの向こうから合図があった。やむを得なかった。
けれど、それが“事故の演出”と直結していると言われれば、否定する。私は混乱を防ぐために最善だと思う手順を取った」
「合図は、鏡?」
レイジが割って入ると、会長は首を振った。
「窓は、開けるな」
命令形。
幽刻の声と同じ言い回しが、ここで生身の口から落ちた。
アヤカは観測者ノートに、その言葉をそのまま写した。
——窓は、開けるな。
その下に、薄く線を引く。
——声の癖:語尾が必ず下降。
幽刻で聞いた命令と、会長の発話。音の山の形は、似ているが、同じではない。
幽刻の“窓は開けるな”は、もっと柔らかかった。微妙に語尾が持ち上がる。“お願い”に近い。
ユナの声か。
あるいは、別の誰か。
会長は短く礼をし、踵を返した。
扉が閉まる直前、彼はまっすぐ前を見たまま、言葉を置いた。
「鏡は、開く」
◇
夜が濃くなる。
体育館側の廊下で、御子柴カナメが黒い箱——時刻同期ノイズ装置——のスイッチを指で撫でた。
上階の動きが止まり、下階の風の流れが変わる瞬間を待つ。
NTPの“揺らぎ”は、空調のリレーと同じリズムで来る。
清掃カートの車輪の跡が、磨かれた床にまだ薄い弧を描いていた。
「半秒を作る。そこに誰が来るかを見る」
カナメが低く言い、レイジは観測者ノートを開く。
時刻。匂い。温度。音。照明角度。編集。
そして、空気の“塩素”。
理科棟から吹き抜けてくるわずかな鋭さを、ページの端にメモする。
アヤカは深く息を吸い、吐く。
幽刻に入るわけではない。ただ、臨界に近づく。
視線は、廊下の角。
そこに、手鏡の小さな面が、一瞬だけ光る未来が見える気がした。
「カナメ、今」
合図。
彼がスイッチを押す。
世界の時間が、目に見えないうねりで歪んだ。
——半秒。
天井のカメラのフレームがひとつ欠ける。
音がひと筋、削れる。
風が、やむ。
そして、その半秒が戻る刹那、角の向こうに人の影が現れた。
放送部の部長。
肩に小型のビデオカメラ。
目は、ライトの角度だけを見ている。
彼は、半秒の“穴”を取りに来たのだ。
絵になるゼロを、もう一度。
アヤカの頬に、冷たい笑みが浮かんだ。
ゼロは美しい。
けれど、それは誰のものでもない。
幽刻は、誰かの寿命を削る借金でできている。
「話をしよう」
彼女は、半秒から戻った世界で、落ち着いた声でそう言った。
「あなたの“編集”の刃の話から。
そして、“死の一秒の記録”の所有権の話まで」
放送部長は、驚いた顔で立ち止まり、次の瞬間には笑った。
光を当てられる側の笑みではない。
光を選ぶ側の笑み。
レイジはノートに走り書く。
——目が、左上に動く。二十七度。
——口が先に動く。語尾、上がり。
アヤカは、ほんの一瞬だけレイジの目を見た。
観測者と探偵は、次のページを同じ速度でめくる。
ゼロは、なお口を開けている。
その奥から、記録の一秒が、呼吸のたびにこちらへ滲み出してくる。
誰かがそれを掬い取って、編集して、見せ物にしようとするたびに、幽刻の縁は音もなく欠ける。
欠けた破片は、紙と、匂いと、影の中に落ちる。
拾えるのは、今だ。
レイジは深く息を吸い、ペン先を紙に立てた。
アヤカは、胸に手を当て、脈の鼓動を一つ数えた。
御子柴はスイッチから指を離し、薄板と針金を静かにポケットへ戻した。
半秒は過ぎた。
だが“死の一秒の記録”は、ここから始まる。




