第5話 物理部の仮説
夕方の理科棟は、床のワックスが薄く光っていた。
物理部部長・御子柴カナメは、作業台の上に三つの道具を並べた。掌に収まる黒い箱、アルミの薄板に開けた奇妙な切り欠き、髪の毛ほどの細さのステンレスワイヤ。
新聞部の朝霧レイジと篝アヤカは、白線で区切られた安全域の外、黒いテープの“観測者の立ち位置”に足を揃える。
「まず訂正からだ」
カナメは肩越しに言った。癖のない短髪が蛍光灯を受けて白く光る。
「廊下の半秒欠落は偶発じゃない。犯人はそれに“合わせた”のではなく、自分の手で“作った”」
「NTPの再同期を、手で?」
レイジが目をすがめる。
「校内のNTPサーバは整然としていたはずだ。再同期が起きるのは、時刻の大幅なズレか、パケットロスが連続したとき」
「二番目が鍵だよ」
カナメは黒い箱を指で叩く。
「これは“時刻同期ノイズ装置”。簡単に言えば、ローカルな無線APと同じ周波数帯でジャミングを短時間作る。カメラ本体は映像を取り続けるが、タイムスタンプの送受に齟齬が出る。蓄積した数百ミリ秒のズレを、装置が再接続したタイミングで“巻き戻し”、フレームが落ちる」
彼は黒い箱のスイッチを入れた。緑のLEDがゆっくりと点滅する。
同時に、作業台のモニターに出しておいた校内試験用のカメラ映像が一瞬ひるみ、フレーム番号が29から31へ跳ぶ。
——30が、消えた。
「これが“半秒”。作れる」
静けさが落ちた。
レイジは喉の奥で小さく息を鳴らし、アヤカはまばたき一つで感情を沈めた。
カナメは続ける。
「これを廊下でやれば、誰にも見えない瞬間を作り、針金を挿し入れて内側のサムターンを回せる。だが、針金だけでは“早い操作”が難しい。だから——」
彼はアルミ薄板を持ち上げた。切り欠きはサムターンに合わせた歯型のような形状をしている。取っ手の部分に3Dプリンタで出したPLAの“枠”。
「PLAのガイド。サムターンの輪郭に沿って切り欠きを合わせ、ワイヤを通して回す。これなら一秒未満で、外から“内側からの施錠”を模倣できる」
カナメは、理科準備室の裏の、学園で捨てられかけていた古いドア(実験用に持ち込んだもの)の座金に薄板を当て、針金を差し入れる。
ひと呼吸。
カチ、と軽い音。
ドアの内側に付けられたサムターンが、だれの手も触れていないのに半周だけ回った。
外側の鍵穴が、その瞬間だけ“内側”になった。
「再現、完了」
レイジは肩から力が抜けるのを感じながら、同時に背中に冷たい汗を一筋、流した。
半秒。
作れる。
施錠の再現。
できる。
「……つまり犯人は、工具の知識と同期装置の両方を扱える人物」
レイジはノートを開き、プロファイルの欄に書き込む。
「候補は、物理部、放送部、生徒会システム担当。さらに、清掃カートの動線を握れた者」
「物理部の誰かだと言いたいなら、どうぞ」
カナメは白い手袋を外し、無感情に言った。
「ただし忠告しておく。道具は誰にでも買える。キットの配布先は放送部にも在る。生徒会は“備品管理の名目”で電波時計の再同期装置を持っている。犯人像は広い」
「逆に言えば、狭める鍵は“動機”」
アヤカが低く言った。
「東雲トワの“研究”。あなたは知ってるわね」
カナメの目が、ほんのわずかに細くなった。
しばらくの沈黙ののち、彼はロッカーから一冊の薄いノートを取り出して机に置いた。カバーに小さく“同期の錯覚”と手書き。
「彼が部室に置いていった草稿の写し。論文化の直前だった。
テーマは“時刻同期のズレが人の認知に与える錯覚実験”。
NTPと電波時計、視覚と聴覚の同時性判断、教室内のチャイムに対する反応速度、視線の集約点の移動。
結論はシンプルで恐ろしい。“十分に設計された時間のずれは、目撃者を無人にする”。」
アヤカがページを繰る。
丁寧な字。図表。タイムラインとフローチャート。
“見せる”ための論文だ。
誰が読んでも思ってしまう。応用できる、と。
「論文は、誰かに横取りされたか、抹消されたか。
動機の中心に“研究”がある」
レイジは視線を上げる。
「横取りなら、成果を独占するための偽装。抹消なら、学校としてのリスク回避。後者には会長の影がある」
「どちらにしても、東雲は“線の上を歩かされた”。幽刻の縁だ」
アヤカの指が、胸の脈拍計を無意識に押さえる。青い光が小刻みに明滅した。
「ねえ、カナメ。君は東雲の“ゼロ実験”を知っていた?」
アヤカが問うと、カナメは短く頷いた。
「ゼロ秒の音響、ゼロの映像、ゼロの影。彼は“存在しない時間の表象”を集めていた。
記録機にゼロ秒のファイルを作る方法、電波時計のリセットの見せ方、蛍光灯の唸りを断つ条件。
——でも、彼自身が“ゼロに入る”と言い出したとき、俺は止めたんだ」
「止めきれなかった?」
「やめろと言った。だが彼は、ゼロの縁に立った。
会長はその瞬間に校内から彼を外した。善悪じゃない。リスク管理だ。
水無瀬は、助ける嘘を実行した。
俺は——」
カナメは言葉を切り、薄板を黙って片付けた。
「俺は、見ていた。物理は、中立だ」
「中立は時に共犯よ」
アヤカの言葉はきつかったが、声音は柔らかかった。
カナメは反応しない。目だけが一点を見ている。
「再現、ありがとう。これで“手口”は確かめた。
残るのは、東雲くんが“どこへ移されたか”。
幽刻を使う」
アヤカは静かに言った。
「短く、限定的に」
レイジはノートの新しいページに四つの欄を引いた。時刻、匂い、温度、音。
今日も“観測者”になる番だ。
◇
夜の手前、生徒会室。
西日が去った室内は、冷たく乾く。
机上の電波時計は死んだ顔でゼロを向け、スタンドライトは写真と同じ角度に据え直されている。
窓ガラスに薄く校舎の影。
通気口の縁に、見逃せば見逃すほどよく見える黒い擦過痕。
ドア座金の裏には、先ほど見つけた針金の短い欠片がまだ残っている。
レイジは観測者ノートに記入していく。
——17:42:09。
——匂い:消毒薬弱、紙、金属、紅茶ほぼ消失。
——温度:19.9℃。
——音:蛍光灯の唸り弱、外廊下は人少ない。
——照明角度:45度、影長約2.3倍。
「入る」
アヤカは息を整え、椅子に浅く腰掛ける。
シャツの袖を少し捲ると、手首の脈拍計が青く光る。
目を閉じ、数える。吸う、止める、吐く。
三度目の“止める”で、世界が静かにひっくり返った。
……無音。
蛍光灯の唸りが、薄い膜の向こうへ退く。
埃の粒子が、宙で停止する。
アヤカは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
窓の桟に、何かがあった“跡”。微細な油分のついた、拭き残しのような円弧。
そこに、小さな手鏡が置かれていたのだ、と体が理解する。視覚の上に、無いはずの物の影が置かれる。
手鏡は、もう現実から撤去されている。
だが、幽刻は“存在しないはずの一秒”に、存在した物の残像を留める。
鏡面の中心に、赤い線。
口紅の色。
矢印が一本、走っている。
窓から、机へ。
矢印の先は——机の裏。
アヤカは机の下に潜り、デスクマットの裏面に指を這わせた。
現実ではただの革。だが、幽刻の光は陰影を深く固定して、紙の縁や微細な盛り上がりを浮かせる。
木目の一本に、薄いテープ残り。
貼って、剥がした跡。
幅一センチ弱。
長さ十五センチ。
封緘用の透明テープの端だけ、粘着が生きており、そこにささくれたフロロカーボンの毛羽が数本、捕まっていた。
矢印はさらに示す。
机の裏の、角。
ネジの隠し栓が一つだけ、他と違ってわずかに新しい色。
コインで回せば簡単に開く類いのカバー。
幽刻の時間では回せない。触れれば指先が焼けるように逆流する感覚だけが残る。
アヤカは呼吸を整え、元の位置に戻った。
最後の一呼吸。
世界が、音を取り戻す。
蛍光灯が唸り、外の空気が動く。
アヤカは膝立ちの姿勢のまま、レイジへ短く指示した。
「机の裏の角、カバー。コイン」
レイジは硬貨を取り出し、言われた角へ潜り込む。
樹脂のカバーを半回転。
外れた。
中は小さな空洞。
そこに、薄いメモが折られて挟まっていた。
透明テープが片面に。
……文字。
手早く取り出して封を切る。ベルガモットの香りが一瞬、非常に薄く立つ。
「読み上げる」
レイジは喉を鳴らし、紙に目を落とした。
——鏡は開く。窓は開けるな。
——14:03 鍵はまだ。
——15:00 清掃の車輪。
——0:00 会長は左肩から書く。
端正な字。
東雲トワの手ではない。
水無瀬ユナとも違う。
筆圧の始まりが弱く、終わりにかけて強くなる。会長の書式にも似るが、語尾の癖が柔らかい。
アヤカは目を細め、紙を裏返した。
裏には、短い追記。
——もし戻れなかったら、資料は外へ。
——ゼロは人を消す。けれど、見つけてくれる人がいれば、戻れる。
レイジは息を詰めた。
この文体。
東雲の書き方ではないが、彼が近しい誰かへ残した“意思”の匂いがある。
会長の机の上に、丸い磁石と透明糸巻と一緒にあった理由。
鏡——窓辺の手鏡。
口紅の矢印——“見せる角度”を持つ誰かの仕業。
「鏡は開く、って何だ」
レイジが問うと、アヤカは鏡のあった窓辺を見やり、静かに答えた。
「鏡面反射は、視線を折り返す。
窓を開けるな、は、外に“協力者”がいる証。補助ロックに触れれば指紋が出る。
手鏡の矢印は、机の裏へ“見ろ”という指示。
——つまり、現場は“内側からのメッセージ”で埋められていた。現場写真の二十七度の演出が、別の演出で上書きされる前に」
「誰が残した」
「二人だと思う」
アヤカは紙の表に目を落とす。
「“時刻の列挙”と“筆跡の癖の観察”は、会長の思考の癖。
だが、“もし戻れなかったら、資料は外へ”——この言い回しは、ユナの語感に近い」
「共犯、というより、共助」
「そう。
そして、東雲トワ自身は“ゼロの実験”を自分の足で続けている。彼は校内から消えたのではない。
——ゼロの外側に、滞在している」
レイジは膝に力を込め、立ち上がった。
紙が指先で震える。
それが自分の緊張なのか、幽刻の余韻なのか、判然としない。
「カナメ」
呼びかけると、ドアのところにいた彼は、無言で近づいた。
紙を一読し、短く息を吐く。
「鏡、か。
東雲は、反射で死角を作るのが好きだった。
窓を開けずに外と連絡する合図に、手鏡の“光”。廊下の曲がり角に立つ“協力者”に、光を一度当てる。それが“今”の合図。
半秒のフレーム欠落が起きる直前だ」
「つまり、半秒は偶発じゃない。誰かが“合図”に合わせて作った」
レイジの言葉に、カナメは首肯する。
「NTPの再同期は、人為で誘発できる。
犯人は“作り出した”。
そして、針金で内側を回した。
PLAのガイドを使って。
全部、誰にでもできる。——決定的なのは、動機だけだ」
「横取り、か、抹消か」
アヤカが言うと、カナメは言葉を選ぶように沈黙し、それから続けた。
「俺が思うに、横取りでも抹消でもなく“延期”。
会長は“校内の責任を外すため”に事故を演出した。ユナは“彼を外へ出すため”に嘘を引き受けた。
けれど、どこかに“奪おうとした手”が混じった。
ゼロを見世物にしたい誰かだ」
「放送部?」
レイジの脳裏に、照明の角度を知り尽くした顔がいくつかよぎる。
アヤカは首を振らない。ただ、窓の外の夕闇を見た。
「候補を挙げるのは簡単。
でも、今この瞬間に必要なのは、“紙”だ。
——送信機の持ち出し台帳。放送部の機材貸出簿。生徒会の時刻合わせ記録。
それと、“手鏡”。口紅の成分。ベルガモットの香り。誰のものか」
レイジは観測者ノートの端に“化学分析”と書き、線で囲った。
アヤカは机の下の隙間から、透明テープに捕まったフロロカーボンの毛羽をピンセットで拾い、チャック袋に収める。
証拠は、少しずつ、こちら側に移ってくる。
「アヤカ」
レイジは無意識に呼んでいた。
「無理は、するな」
「今のは短侵入。三呼吸。——平気。次は、もっと短くする」
アヤカは笑わないが、言葉に柔らかい温度が乗る。
「命を削る価値があるときだけ、幽刻は使う。
彼の“ゼロ”が誰かに踏みにじられそうになった時だけ」
扉の向こうから、廊下の気配が動いた。
御子柴カナメが一歩前へ出る。
「次の実験は体育館側の廊下でやる。NTPの“揺らぎ”はあそこが一番大きい。天井APの切り替えが頻発するから。
半秒を、俺たちの手で作る。
そして——“誰が、そこへ集まるか”を見る」
「罠を張るのね」
アヤカの声に、カナメは珍しく笑った。
「仮説を試すだけだ。物理は、中立だろ」
中立。
レイジはその言葉を胸の裏で転がし、静かに頷いた。
ゼロは、まだ口を開けている。
鏡は、まだ光を跳ね返す。
そして、机の裏のメモは、はっきりと告げていた。
——14:03 鍵はまだ。
——0:00 会長は左肩から書く。
紙の声は、確かにここにある。
次の半秒を作るのは、僕たちだ。
その半秒の中で、ゼロの向こうから帰ってくるべき人の影が、わずかにでも濃くなることを願いながら。
アヤカは窓を見た。
開けるな、と声が言った場所。
ここで開くべきは、窓ではなく、鏡。
視線は、折り返される。
ゼロは、こちら側へ。
嘘と真実の境目に、静かに白い線が引かれていく。
その線の上を、彼女は歩くつもりだ。
寿命を刻む薄い傷を抱えたまま。
幽刻の探偵として。




