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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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第4話 目撃者のいない校舎

 放課後の情報処理室は、窓が小さくて、呼吸も小さくなる。

 新聞部の朝霧レイジは、モニターの青白さに目を細めた。校内の監視カメラ映像を時系列で並べ、秒数とフレーム番号を重ねる。画面は四分割。昇降口、東棟階段、理科棟渡り廊下、そして——生徒会室前の廊下。


「ここだけ、歯抜けがある」


 篝アヤカが指先でタッチパッドを撫で、フレーム番号の推移を拡大する。

 東棟階段の監視映像は、1秒あたり30コマで滑らかに進む。だが、生徒会室前の廊下だけ、ある区間で番号が一つ飛ぶ。

 29の次が、31。

 その間は、空白。約0.5秒分の、存在しない瞬間。


「機器の不具合?」

 レイジが問うと、情報処理室の管理をしている用務員の三国が肩をすくめた。

「NTPだよ。校内のカメラ群はネットワーク時刻(NTP)で同期してるけど、職員室の電波時計はJJYで合わせてる。たまに噛み合わせがずれて、タイムスタンプの“巻き戻り”が起きる。そうすると、録画側のバッファが一部捨てられるんだ」


「校内のNTPサーバは正常ですね?」

 アヤカがログを請求すると、三国は素直に端末を操作する。

 ログは整然としていて、異常はない——ことになっている。

「けどね」

 三国は低く続けた。

「この“飛び”の場所が、生徒会室前だけってのは、偶然にしては出来すぎてる。誰かが、そのカメラだけに介入したか、近くで電磁ノイズを作ったか」


「送信機」

 レイジとアヤカの声が重なった。

 音響室のラックで見つけたJJY簡易送信機。あれが廊下に持ち出されれば、NTPの整合が崩れ、一瞬の“空白”を起こし得る。


「犯人が、その半秒で“何かをした”」

 アヤカが画面を閉じる。

「けど、それだけじゃ足りない。鍵はどう動いた? 内側の施錠はどうやった? 東雲トワ本人は、どこへ消えた?」


 捜査の主軸は“可視情報の整理”。幽刻は命の切り札だ。

 アヤカは椅子から立ち、指先の脈を無意識に確かめるくせを一度だけやめた。


     ◇


 理科準備室は、金属と薬品の匂いで満ちている。

 レイジは実験台に白紙を広げ、昨日から手元で保管してきた“黒い粉”を慎重に落とした。

 粉は指先にまとわりつく。こすると、少し甘い、焼けた砂糖に似た匂いが立つ。


「PLAだ」

 準備室の奥から顔を出したのは、工作室の管理も兼ねる技術の川原先生。

「3Dプリンタの一般的な樹脂。熱で溶かして積層する。削ると細かい粉が出て、静電で指に絡む。ABSより甘い匂いがするのが特徴だな」


「鍵の形状を、一時的に複製した可能性」

 アヤカが呟く。

「PLAで“ダミーキー”を作って、通気口から磁石で誘導し、鍵穴に挿す。けれど、それだけでは説明が足りない。合鍵を作れるなら、普通に開けて閉める。なのに“内側からの施錠”で密室を作ったのはなぜか」


「内側施錠は二択」

 彼女は指を二本立てる。

「一つ、外から“内側を回せる仕組み”を使った。

 二つ、内側に犯人が残った」


「二つ目なら、誰かが室内に隠れていたことになる。だが、室内からは誰も出ていない。廊下の半秒の空白があるにせよ、室内の存在はカメラと目撃でカバーされる」

 レイジが首を振る。

「残るのは一つ目。外から“内側を回す”」


 生徒会室のドアはサムターン式。鍵穴とは別に、内部の親指で回す円盤がある。

 アヤカとレイジは、工具箱を抱えて生徒会室へ移動し、ドアノブの座金のネジを外した。

 金属の円盤の背後に、薄い隙間。そこへライトを差し込む。


「……ある」


 座金の内側に、銀色の極細の線が一本、バネのように絡んで残っていた。

 ステンレスの針金。髪の毛ほどの細さ。片端に微かな擦れ。

 外から差し込んで、内側のサムターンに掛け、回した痕跡。


「これなら、ドアを閉めたまま“内側から施錠”したのと同等の状態にできる」

 レイジが息を吐く。

「タイミングは——半秒の空白。廊下に姿を映さずに、針金だけを挿し、回す」


「半秒で足りる?」

「針金に事前に形状をつけておけば、差し込んで、引っ掛けて、回す、まで一秒未満。練習すれば可能だ。……でも」

 レイジは顔をしかめる。

「東雲トワがどうやって消えたか、はまだ説明できない」


「鍵は外から閉められた。窓は開けるな、と幽刻の声が言った。通気口から鍵を“外へ出す”仕掛けは見つけた。

 だとすれば、東雲くんは“内部で倒れている”か“別ルートで出た”か。——別ルート?」


 アヤカは室内を一周し、天井の角、ロッカーの裏、書棚の下を覗き込んだ。

 生徒会室に隠し扉はない。フローリングの継ぎ目も素直だ。

 唯一の“別ルート”は、給湯室側の小さなドア。だが、そこは物置に通じ、突き当りは壁。窓もない。


「目撃者がいない校舎、ね」


 アヤカは小さく独り言ちた。

「目が機能していても、見ない。耳が開いていても、聞かない。そういう“無人”の作り方がある」


 レイジは腕を組む。

「観測者ノート、もう一度整理しよう」


 二人は机に向かい合って座り、ノートの“時刻・匂い・温度・音”を再点検した。


 ——13:04:32 消毒薬、ゴム、紅茶。21.4℃。蛍光・エアコン・校庭音あり。

 ——14:00:11 オゾン強、紅茶(柑橘)、樹脂粉。20.7℃。蛍光・エアコン停止期間あり。

 ——14:03(圧痕) 鍵未返却。

 ——監視映像 生徒会室前のみ0.5秒のフレームドロップ。

 ——JJY送信機 音響室→廊下→生徒会室通気口の粉痕。

 ——ドア座金内 極薄ワイヤ残渣。


「匂いの“オゾン強”が気になる」

 レイジが言う。

「電気火花の匂い。送信機からだけで、こんなに強くなるか?」


「もう一つ、オゾンを強くするものがある」

 アヤカは視線だけを動かして天井の角を示した。

 スプリンクラーの隣、煙感知器。

「感知器は微弱なイオン化電流で煙粒子を検知するタイプがある。校内のは光学式のはずだけど、古い階は混在。——でも、ここは新しい。なら、照明のインバータノイズの可能性。蛍光灯が一瞬だけ電力を喰った?」

「NTPとJJYの“かみ合わせのずれ”が起きる瞬間、電源系の負荷分散が連動して、蛍光灯がフラつく。そのタイミングで送信機を近づければ、オゾンの匂いが強まる、か」


「技術の川原先生に、電源系統図をもらいましょう」


     ◇


 工作室には、3Dプリンタの吐息が残っていた。

 川原先生は、鍵の歯形が彫られたPLAの薄板と、プリンタの出力ログを見せてくれた。

「三日前の昼休み、誰かが“鍵の断面テンプレート”を試し刷りしている。ファイル名は“key_v2”。データは消されてるが、ログの痕は残る」


「出力したのは誰ですか?」

「プリンタは共用だから、ログのユーザ名は“ゲスト”。ただ、USBメモリの抜き差し時刻はある。——13:17」


 アヤカの目がわずかに動く。

 東雲トワが消えた日の、やや前。

 PLA粉の匂い。

 通気口の擦れ。

 座金の針金。


「PLAで“ガイド”を作って、針金を目的の位置に誘導した、という線もある」

 レイジは薄板を手に取る。

 間近で見れば、積層の段差が波のように走り、触れる指に静電が吸い付く。

「針金だけだとサムターンに上手く掛からない。だが、PLAのガイド枠を挿し込めば、数ミリのズレを補正できる。半秒で操作するには合理的だ」


「そう。だとしたら、犯人は工作に明るい。放送部より、物理部、または——生徒会の“備品係”。書記の机の引き出しに、接着剤、糸巻、磁石、ペン。……工作の“ミニマム”が揃っていた」


 水無瀬ユナの名は、やはり喉の奥で重くなる。

 彼女を黒と断じるだけの材料は足りない。

 だが、指先の癖と机の上の道具は、ようにして散らばったパンくずのように、一定方向へ並びだした。


「それでも、まだ足りない」

 アヤカは言い切る。

「合鍵“風”の装置。外からの施錠。半秒の空白。——で、東雲トワ本人。彼は、足で移動したのか、誰かに運ばれたのか」


「運ぶなら、目撃が出る。階段や廊下のカメラにも映る」

「映らない“運搬”がある」

 アヤカは、理科棟の窓の外を見た。

 廊下の端に、清掃用のカートが置いてある。

 薄いグレーのカバー。モップ、バケツ、ゴミ袋。

 ——動く壁。


「でも、清掃は五限のあとだ」

「その“あと”に合わせて半秒が作られたら? 校内の目が一斉に“掃除へ向く”タイミング。廊下を通るのが当然の物体に化ける」


 レイジは、清掃カートの車輪のゴム跡を見た。

 廊下の床に、薄い黒の弧がある。

 止まって、回して、押し出した痕跡。

 弧の中心に、白い繊維が一本。

 ——釣り糸。


 アヤカが膝をつき、繊維をピンセットで拾う。フロロカーボンのささくれ。

 清掃用具入れの扉を開けると、カートの下段に、樹脂粉が薄く溜まっていた。

 PLA。

 甘い匂い。


「清掃カートの経路ログは?」

 レイジが三国を呼ぶ。

 情報処理室から返ってきた回答はシンプルだ。

「清掃カートにGPSはないが、清掃担当の出勤簿はある。——その日は、臨時のアルバイトが一人入ってる」


「名前」

「水無瀬ユナ」


 空気が、少しだけ硬くなった。

 ユナは奨学金の条件で、校務の補助に入ることがある。出勤簿の記録は正しい。

 けれど、あの白い指が清掃カートを押す姿は、レイジには想像しにくかった。


「直球で訊こう」

 アヤカが言った。

「でも、問いは一つに絞る。“清掃カートをいつ、どこで、誰から受け取ったか”。動線を確定する」


     ◇


 夕刻、講義棟の渡り廊下。

 西日はガラスに斜めの格子を作り、生徒会室の扉を薄く染める。

 ユナは窓際に立っていた。

 ベルガモットの匂い。銀の水筒。細い指。手の甲の消えかけた黒線。


「清掃のアルバイトに入った日のことを聞かせて」

 アヤカは、開口一番に直球を投げた。

「カートは、何時に、どこで、誰から」


「十五時、準備室前。担当の方から、鍵と一緒に」

 ユナは淡々と答え、肩をすくめた。

「図書館のバイトが飛び込んできて、急遽の代行。書記の仕事は会長に渡して、私はモップを握った。似合わない?」


「似合うよ」

 レイジが言う。

 それは事実だ。ユナの身のこなしは、何を持っていても美しい。

 だが、アヤカは笑わない。


「清掃カートの下段に、樹脂粉があった。PLA。あなたの筆跡は“左肩から入る7”。会長室の机から出た糸巻の結び目にも、樹脂粉。

 ユナ、あなたは、東雲トワを——」


「助けた」

 ユナが、アヤカの言葉を切った。

 目は、穏やかなまま。

「彼は“逃げる”しかなかった。会長と、顧問の先生が対立していたから。研究のテーマが問題になった。校外へ持ち出して検証するには、足が必要。教室の視線とカメラを避けるには、清掃カートが最適」


 レイジは言葉をなくした。

 アヤカが、一歩だけ近づく。

「鍵は、あなたが通気口から“外へ”送った?」

「違う。私が受け取った。外で待機していた。窓は開けていない。補助ロックを触れば、指紋が残る。通気口から垂らされた釣り糸と磁石で、鍵を受け取った。外廊下の非常扉の前。……演出は、会長の指示」


「演出?」

「ゼロを見せる角度。写真の映え。事故として処理させるための」


 会長。

 まだ姿の輪郭しか見えていない人物の名前が、ここで初めて“意図”を帯びた。


「でも、東雲トワはどこへ」

 レイジが問う。

「目撃がない。カメラは半秒の空白だけ。清掃カートには、彼の体を入れる余裕はない」


「入れていない。——彼は歩いた」

 ユナは、窓の外を指差した。

 渡り廊下の端、倉庫棟。

 清掃用具置き場の裏に、小さな扉。非常階段の始まり。

「半秒の空白に合わせて、私が廊下の角で人の流れを止めた。昇降口側の友人に“落とし物の呼び出し”を頼み、視線を一点に集めた。

 東雲くんは、棒のように細い。ジャケットの中にノートPCとメモを入れて、非常階段へ。

 カメラの死角と、視線の死角。

 目撃者のいない校舎は、視線の交差点を一つずらすだけでできる」


「じゃあ——彼は生きている」

 レイジの胸が一気に軽くなりかけ、次の瞬間に重くなった。

 生きているなら、なぜ、連絡がない。

 なぜ、ゼロ秒の声が「窓を開けるな」と命じる。


「東雲くんは、研究資料を持って出た。その資料を、会長は“危険”と判断した。だから、事故に見せかけて“校内の責任”から外した。そうすれば、彼の身に何かあっても、学校は知らない顔ができる」


 アヤカは目を伏せ、指先で脈拍計の青い光を押さえた。

「命を担保にした幽刻は、まだ使わない。今の話は“言葉”。言葉は、紙で裏づける」


「紙?」

「出勤簿、管理簿、貸出簿、備品台帳。二十七度の角度で撮られた“写真の原本”。会長のサイン。ユナのインク。

 ——それから、NTPのログ。フレームドロップの時間と、清掃カートの移動の時間が重なるかどうか」


 ユナは、わずかに笑った。

「私を黒にするなら、今が好機ね。私の筆跡は残ってる。私の指には樹脂粉がつく。私の靴には、清掃用の黒いゴム跡がある。

 でも、私がやったのは“助けるための嘘”。彼を消していない。彼が戻ってくる場所を、私が塞ぐ理由はない」


「窓を開けるな、という命令形は誰の声」

 アヤカが静かに問う。

 ユナは、答えなかった。

 かわりに、水筒の蓋を外し、紙コップに紅茶を注いだ。

 ベルガモットの香りが、夕闇に薄くひろがる。


「冷えるから。飲んで。あなた、顔が白い」

 アヤカは受け取らず、代わりにポケットから透明フォルダを出した。

 圧痕紙。7/24と14:03の数字。

「これは、紙の声。戻らなかった鍵の時間。——会長にも見せる」


     ◇


 夜の手前、会長室。

 扉の向こうの空気は、どこか乾いている。

 机の上には、丸い磁石。透明な糸巻。整頓されたペン立て。

 会長は椅子に浅く腰掛け、姿勢だけで場を支配するタイプの人間だった。細身、端正、眼鏡。言葉を少なく済ませられる人。


「何か」

 淡々と問われ、アヤカは一礼し、圧痕紙を机に置く。

「返却時刻の圧痕です。14:03。管理簿の記載は14:30。二十七分の空白。鍵は戻っていない。

 ドア座金の内側からは、針金の残渣。

 清掃カートの下段からはPLA粉。

 音響室と生徒会室を繋ぐ通気口には、磁石と糸の擦れ跡。

 監視カメラには、あなたの部屋の前の廊下だけ、0.5秒のフレームドロップ」


 会長は、目を細めた。

 奇妙に静かだ。怒りでも焦りでもない。

 紙と論理で差し出される現実を、受け止める音。


「で?」

 短い問い。

「何を求める?」


「東雲トワの安否の確認。

 そして、校内の責任の範囲の明示。事故として処理するのか、救助のための調査として位置付けるのか」

 アヤカの声はかすかな震えを含んだ。それが、彼女の“命の残高”の振れに見えたのか、会長の目が、ほんの少しだけ柔らいだ。


「きみは、幽霊を信じるか」

 不意の問い。

 アヤカは、即答しない。

 窓の外では校庭の影が伸び、その上にチャイムの音が薄く降りかかる。

 音階が、ほんのわずかにずれている。


「幽霊は信じない。幽刻は、ある。

 でも、私が信じるのは、紙と影と匂い。——きみの机の上の、磁石と糸の匂いも」


 会長は眼鏡を外し、丁寧にレンズを拭いた。

「私は、校内の混乱を防いだ。それが先。東雲は、校外で研究を続けるべきだった。先生方の意見は割れた。だから、私は“校内から外す”判断をした」


「事故」として。

 レイジは内心で呟き、拳を握る。


「助けるための嘘は、たしかにある」

 会長の声は低かった。

「だが、嘘は嘘だ。私の机にあるものは、処分しておこう」


 アヤカが一歩、前に。

「処分は、証拠隠滅。——校内の責任を軽くするため?」


「違う。東雲を守るためだ。彼の居場所が、紙から辿られないように」


 机上の磁石が、夕日の帯を受けて鈍く光る。

 その金属光の縁で、アヤカはふっと目を細めた。

 そして、ごく小さく首を横に振った。

「でも、誰かがもう“辿っている”。監視カメラは半秒欠けた。送信機は音響室から生徒会室へ“渡った”。あなたひとりの判断ではない」


 会長の目が硬くなり、次の瞬間には柔らいだ。

 諦めの音。

「水無瀬が動いた。……あの子は優秀だ。私の想像よりも、よく動いた。

 だが、それでも“見えない半秒”は、誰かが作らなければ存在しない」


「誰?」

 レイジの言葉は、思ったより鋭かった。


 会長は答えなかった。

 かわりに、机の引き出しから一枚のメモを出した。

 紙の角に、7/24と、もう一つ。

 ——0:00の、手書きの丸。

 東雲トワの筆跡。


「彼は、“ゼロの実験”をしていた。

 私は、そのゼロを校内から引き剥がした。

 きみたちが今しているのは、ゼロと現実の接合面を探る作業だろう。続ければ、答えに届く」


「そのために、幽刻に入る」

 アヤカが言う。

「限定的に。命を担保にする価値がある時だけ」


 会長は短く頷いた。

「なら、必要な許可は出す。鍵も、書類も。ただし——」

 言葉がわずかに切れた。

「窓は、開けるな」


 レイジの背に、冷たいものが走る。

 命令形の言い回し。

 幽刻の声と同じ。


 アヤカは肩を小さく上下させ、息を整え、会釈した。

 会長室を出た廊下は、予想以上に暗かった。

 チャイムが鳴り終えたばかりで、空気が、余韻で満ちている。


「ねえ、アヤカ」

「なに」

「今の“窓は開けるな”、会長の癖か口癖か、確かめたい」


「観測者ノートに“声の癖”の欄を作って」

 アヤカは軽く笑った。

「助けるための嘘は、悪意の形をして現れる。御子柴の言葉よ。あの人は、私たちの行き先を知っている気がする」


「行き先?」

「ゼロの中。——目撃者のいない校舎の、さらにその“外側”。

 東雲トワが“いる”のは、地図の上じゃない。時刻表の外側」


 レイジはノートの新しいページに、四角い小さな枠をいくつか描き、そこへ単語を並べた。

 “会長・命令形・窓”。

“ユナ・助ける嘘・清掃カート”。

“御子柴・警句・工作”。

“送信機・PLA・針金”。

“フレームドロップ0.5秒”。

“東雲トワ・0:00”。


 ペン先が止まる。

 その無音の一拍の隙間に、耳の奥で、またあの囁きが薄く落ちる。


 ——まだ。


 見せ場の照明が、どこかで白く点る。

 影は濃くなり、匂いは甘く、時間は、薄くささくれ立つ。

 幽刻は、現実の縁をそっと撫でて、去った。


 作中世界の秒針は動いたはずなのに、レイジの胸の中では、ゼロが深く口を開けたままだ。

 その口の底から、紙の小さな証拠たちが、一枚、また一枚と舞い上がってくる。

 どれも冷たく、光をよく弾く。


 内側からの施錠は外からできる。

 鍵の外出は通気口と糸でできる。

 半秒の空白は送信機でできる。

 では——東雲トワの“消失”は、どうやって。


 答えは、次の扉の向こうにいる。

 扉の前に、御子柴カナメが立っている。

 その右手には、PLAの薄板。

 左手には、音もなく息をする小さな磁石。

 目は、いつもより少し優しい。


「観測の準備はできてるか」

 彼は、レイジに向かってだけ言った。

「次の半秒は、きみたちが作る番だ」

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